ここの日誌のアクセス解析をちょろっと見たら、検索ワード「田村彰英」で来てる人が結構いるっぽいので、こないだ買った『スローカメラの休日』のことを書こうかな、と思ったり(でもあの、ここ写真サイトじゃないので多分期待されているような情報は無いです、ただ単に私が田村さんの写真が好きなだけです)。その前に私の頭の中で色々あっての田村彰英なので、一応順を追って赤瀬川原平から始めようかと。 赤瀬川さんは以前から好きでたくさん読んでいるんですが、こないだ文庫になったので『赤瀬川原平の名画読本』(光文社刊)を買ったのです。ちょっと引用長くなりますが。 ―(自分が絵を見るにあたって以前は)好きだ、ということが軽視されていた。それはたんなる趣味じゃないか、という具合に「たんなる」なんてくっつけられていた。そうではなくてもっと思想とか、論理とか、観念とかのほうが重視されていた。 ―この絵を見て、うまい、見事、気持ちいい、と感じながらも、そのすぐ後に、言葉が自分の頭の中を支配した。別に何も大したことが描かれていないじゃないかと思った。(中略/だが)思想とかテーマからしていいと思っていた絵が、いつの間にかダメになっている経験を何度もした。何がダメかというと、見ている気持ちよさがないことに気づくのである。 ―あらためて昔理屈で見ていた絵を想い起こすと、とても買う気にはなれないのだ。たしかに「新しい」とはわかるけど、それを持ち帰って自分の壁にかける気はぜんぜんしない。 …というような経緯を経て、「好き」「気持ちいい」という感性を重視する考えに基づいて絵画が紹介される。これは私にとってかなり目鱗だったわけです。好き、というのを表現するのはすごく難しくて、やっぱり「たんに」と言いたくなる。エンタテイメントである漫画すらそうで、「面白い」けど何も生まないね、とか言ってみたくなる。面白いけど、何も新しくないし、全然オリジナリティがないよね、とか。まあ漫画の話はとりあえず置いておいて、じゃあ写真はどうなんだというと、写真というのはもっとシビアに見てたんですよね。素がキレイなものを撮っているんんだから、その写真はキレイであたりまえだよね、と。美しいものを美しく切り取って持ってきただけで、芸術なんてないんじゃないの、とか思ってる部分がちょっとあった訳です。で、やっと田村彰英です。(長いなー)以下明日。
西UKO **:**
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