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| 2015年12月19日(土) ■ |
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| 脚本は、右脳と左脳の合体です |
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知人の紹介で「脚本家・金子ありさ」さんとお話が出来た。 金子さんと言えば、ドラマ「ナースのお仕事」シリーズを始め、 私が観た映画でも「電車男」「7月24日通りのクリスマス」 「陰日向に咲く」「おかえり、はやぶさ」などを手がけた女性。 一時、脚本家に憧れた私にとっては、雲の上のような存在であり、 舞い上がるような気分で、日大芸術学部の聴講生のように、 (普段なら、メモしながら聴くのだけれど、それさえ忘れて) 現役・脚本家の話に耳を傾けた。 食事をしながらの短い時間であったが、彼女から脚本について、 プライベートレッスンを受けている感覚さえあった。 その中で、印象に残っているフレーズは、 「脚本は、右脳と左脳の合体です」 脚本は、小説とは少し違う、バランス感覚が必要となるようだ。 登場する人物像などを非常に細かく設定しながらも、 プロット(ストーリーの要約)を常に意識して書いているらしい。 まさしく「ものごとを理解するときに使う脳、 言い換えれば、論理的な事柄を司る機能(左脳)と、 表現するときに使う脳、感性・感覚を司る機能(右脳)を バランスよく使いこなせてこそ、脚本家なんだと感じた。 原稿の〆切を意識しながらも、友人とランチを楽しむ感覚は、 私には、とても新鮮な発見であった。 そういえば、映画のエンドロールで、監督の名前とは別に、 脚本家(洋画では、翻訳家も)の名前を確認するのは、私だけかも。
P.S. 「脚本には(笑)とか(汗)はいらないから削除して・・と、 学生たちに指導するらしい。私の日記なんて削除だらけだ。(汗)
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| 2015年12月18日(金) ■ |
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| わからなくなるんじゃないかしら、本当に好きなものが。 |
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映画「繕い裁つ人」(三島有紀子監督)から。 「しあわせのパン」「ぶどうのなみだ」に代表される、 三島有紀子監督らしい映画、という表現がピッタリの作品。(笑) 言い方を変えれば、作品の出来、不出来ではなく、 私のアンテナに引っかかる台詞が多い、ということ。 そんな中から選んだ、今回の一言は、 図書館で「服の本ばかり」選び、勉強している男性に、 洋装店の2代目店主・市江さんが、諭すように呟いた台詞。 「そんなにあったら、わからなくなるんじゃないかしら、 本当に好きなものが。」の一部。 服に関しても、専門の知識は、ある程度必要だし、 いろいろなジャンルの服を試してみたくなるのもわかる。 だけど、情報がありすぎて、あれもこれも・・と試していると、 本当に好きなものが見えなくなってしまうわよ、と理解した。 これは、私たちにも言える。 自分が一生続けたい、分野、ジャンルは見つかったけれど、 その中でも何をしたい、というものが見つからず、 とにかく関連書籍を読み漁るけれど、余計にわからなくなる。 「広く浅く」より「狭く深く」の方が、人生が豊かになるわよ、 そう教えられたようなフレーズだった。 残り少ない人生、もう雑学はいらない。 そろそろ、一つのことに集中しようっと。
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| 2015年12月17日(木) ■ |
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| 泉頭はこの小湖(清水池)のほとりにあった。 |
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書籍「くノ一忍法帖」 (山田風太郎著・角川文庫刊・313頁)から。 徳川家康が、終の棲家(隠居)を「柿田川」周辺の 泉頭城址に求めていた話を調べていたら、 ある方から、山田風太郎さんの著作の一つに、 泉頭が舞台となっている作品があるよ、と教えていただき、 さっそく読んでみた。 「柿田川」を「清水池」に例えて、こう表現されている。 「清水池は、三島の西南二キロの位置にあり、 南北に千百メートルばかり、 東西にはひろいところで二百メートル、 せまいところで五十メートルほどある小湖である。 泉頭はこの小湖のほとりにあった」 この発想は、私にはなかった視点であり、刺激的だった。 全てが湧水のため「源泉がわかる川」として説明していたが、 「実は、昔は湖だったんですよ」なんて言っても、 誰も驚かないかもしれないな、と可笑しくなった。 柿田川の魅力にハマっている私、楽しくて仕方がない。
PS 本書によると「南竜公道事」という書物に、 家康の隠居の話が記載されているらしい、調べてみようっと。
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| 2015年12月16日(水) ■ |
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| それって、消極的な自殺行為だよ |
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お酒もたばこも、甘いものも・・度が過ぎて、 身体に悪いくらい、嗜(たしな)む(笑)ことになると、 入院したり、薬を大量に飲んだりすることとなる。 やめればいいことは、本人が一番知っているが、 「わかっちゃいるけど止められない」というのが、 多くの人の言い分に違いない。 先月、悪友たちが集って飲んだが、同級生に向かって、 きつい一言が飛び交ったが、私はなるほど、思った。 「それって、消極的な自殺行為だよ」 知らないならまだしも、理解していてやめないのは、 自分で選択しているってことだろう?ということ。 その人の人生だから、他人がとやかく言うことではないが、 心配しているからこそ、の台詞ともとれた。 その場を盛り上げるための、単なる「酒の肴」ではなく、 一度、本気にやめてみろよ、という思いが伝わってきた。 この年齢になると、どうしても投げやりになるが、 健康に良いことを続けることよりも、 健康に良くないことをやめることから始めてみようっと。
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| 2015年12月15日(火) ■ |
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| あんたが繋げてくれたんじゃ |
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今年のNHK大河ドラマ「花燃ゆ」が最終回を終えた。 低視聴率を筆頭に、原作がない脚本の甘さなど、 ネット上では、叩かれ続けた「吉田松陰の妹」主役の 作品であったが、やはり今年もなんとか観続けた。(汗) 全体を通しての感想は「軸がぶれた」。 一回目タイトルは「人をつなぐ妹」であり、 私も「人を咲かせる女・咲かせ系女子」という一言で 「気になる一言」を書いたが、脇役を主役にするには、 ちょっと無理があった気がする。 しかし最終回、文から美和に名前が変わろうと、周りから 「あんたが繋げてくれたんじゃ」という評価を受けたり、 最後には汽車の中で、「種」を広げて、こう呟く。 「また、ここから繋がっていくんですね」。 突然、忘れていた「人を繋ぐ」というコンセプトが蘇った。 今の時代に求められているリーダーは、 強い口調で、周りをグイグイ引っ張っていくタイプではなく、 個性的でバラバラになっている「カオス」を、 調和(ハーモニー)をとりながら、一つの「システム」として 繋げていく役割ができる人、そう思っていたから、 今回は無名だけど面白いかな?と感じていたのだが・・。 結果はどうあれ、軸だけはぶれて欲しくなかったなぁ。
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| 2015年12月14日(月) ■ |
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| ひと手間を習慣づけると、それは手間ではなくなります。 |
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映画「千年の一滴 だし しょうゆ」(柴田昌平監督)の 地元上映を記念して、初日初回上映後の監督舞台挨拶と、 伊豆市の日本料理店「羅漢」の女将、加藤敦子さんを交えた、 トークライブが「サントムーン シネプラザ」で開催された。 これまた私のメモは溢れだが、食に限らず、どの分野でも、 いや、生活のすべてに関係しそうな、加藤さんの台詞を選んだ。 「料理には必ず相手がいる」ということを意識し、 出汁になる食材を「お日様に当てて・・風に当てて・・」と ゆったりとした口調で話してくれたあと、 「次の世代につなげていきたいもの」の問いに、 八十八回の手間をかけてつくる「お米」を挙げてくれた。 しかし、それを「手間」としないアドバイスが粋だった。 それが「ひと手間を習慣づけると、それは手間ではなくなります」。 これは、料理に限ったことではなく、掃除や子育て、メールなど、 あらゆる分野に通用する考え方だな、とメモをした。 「手間を手間と考えないくらい、毎回繰り返す」 これが「羅漢」のおもてなしに繋がっているんだなぁ、きっと。
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| 2015年12月13日(日) ■ |
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| 出汁は、作るとはいいません。引くといいます。 |
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映画「千年の一滴 だし しょうゆ」(柴田昌平監督)から。 素敵なナレーションに包まれて、気持ちよかったから、 久しぶりに、映画館の真っ暗の中で、メモを取った。(汗) 多くの中から、私が選んだのは「出汁」という言葉の使い方。 「出汁は、作るとはいいません。引くといいます。」 会話として「今回の出汁は、何から作った?」とは言わないが、私は 「今回の料理の出汁は、なにから取った?、鰹?昆布?椎茸?」と使う。 しかし、本来「出汁を引く」という言葉の使い方をするようだ。 この「出汁を引く」という言葉に、この作品のエキスが詰まっていた。 出汁は、和食の魅力・素材の旨味を存分に引き出す役割だから「引く」、 さらに「引き出す」だけでなく「引き立てる」役もあるので、 「引く」を使うのかもしれないな、と嬉しくなった。 和食の料理人も、それを支える「醤油・酒・みりん」などの職人も、 さらには出汁の素材である、鰹や昆布、椎茸を手間隙かけて作る人たちも、 とても謙虚であり、「俺が・・私が・・」と自分たちをアピールしない、 そんな人柄が、この作品の隅々にまでまで浸透していた気がする。 和食が、ユネスコ無形文化遺産に登録された時に耳にした 「外国はシェフやお店の名前が有名になるが、日本は料理名なんです」と いう話が、なぜか私の頭の中に甦った。 映画のエンドロールと言えば、監督の名前が最後に浮かび上がってきて、 しばらく表示されてから消える・・となるが、今回は監督が意識したのか、 さらっと、名前が表示されて、監督だから・・という特別扱いがなかった。 これもまた「出汁と同様、私は引き出し役、引き立て役ですから」と 口にしそうな、柴田監督の粋な計らいなのかな?
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