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しもさんの「気になる一言」
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2015年04月09日(木)
「清明」は「すべてのものが清らかで生き生きする頃」

書籍「旧暦で楽しむ日本の四季」(二十四節気と七十二候)
(別冊宝島編集部編・宝島社刊・319頁)から。
先週の日曜日から19日の日曜日まで、二十四節気では「清明」。
「すべてのものが清らかで生き生きする頃」
この頃は、天地が清々(すがすが)しく、明るい空気に満ちる、と言う。
転じて「清く明らかなことの意味に使われる」。
実は、我が家の玄関に、正月からずっと飾られていたのは、
世界的な木版画家・牧野宗則さんの「清明」という作品。
富士山と太陽が描かれ、自然の生命の輝きが感じられるから、
毎朝、この作品に送り出されて仕事に出かけるのが嬉しかった。
しかし「清明」が、今の季節を表わす言葉と知って、思わず苦笑い。
正月の凛とした空気とはちょっと違う、明るい空気の感覚は、
確かに、いまどきのほうが「清明」のタイトルに相応しい気がする。
このままもうしばらく飾って、田植えの時期に合わせて、
木版画家・前田光一さんの作品「水鏡の家」に、衣替えをしたいな。
そう言えば、この季節に話題になる、沖縄の「シーミー」ってお祭りは
「清明祭」のことって、どこかで聞いたことがあったなぁ。(汗)

P.S.
「清明」を過ぎれば、次は「穀雨」。
最近の「小雨の長雨」(菜種梅雨)、ちょっと早い気がする。(笑)



2015年04月08日(水)
書籍と映画、犯人が違うのなら観るけれど(笑)

以前、私の住む町に映画館ができた時は、嬉しくて嬉しくて
「映画は映画館で、野球は野球場で」という一言を残した。
当時は、1年に154作品の映画を「映画館のみ」で観たが、
最近、どうしたことか、映画館で鑑賞していない。
既に800作品を超え、今年も既に20作品を鑑賞したが全てDVD。
この気になる一言で、映画の話題が多いからだと思うが、
時々「あの作品観ましたか?」というメールが届くことがある。
それもなぜか、推理小説の映画化に関する問合せが多い。
例えば「映画『謎解きはディナーのあとで』は観ましたか?」
「映画『真夏の方程式』は観ました?」という形で。
ちょっと悩んだけれど、返したメールは、
「推理小説の映画化は、基本的には映画館で観ませんね。
書籍と映画、犯人が違うのなら観るけれど(笑)。」
ただし、公開後しばらくして、DVD化されたら、
原作とどこが違うのだろう?と確認の意味で観ることはある。
小説を読んだ時のメモと、映画を観た時のメモが、
ぴったり重なるのを楽しんだりする場合もあるし、
小説にないフレーズを映画に発見すると、これまた嬉しい。
時には、呆れられることもあるけれど、
これまた「私流の書籍と映画の楽しみ方」となっている。
今は、今まで鑑賞した映画の原作を読むこと、
映画の主題歌に使われた曲を、ダウンロードして聴くこと、
そんなものもセットにして、楽しんでいる感じかな。
ただし私の場合、監督名、俳優名はあまり覚えていない。
映画評論家になりたいわけじゃないので・・。(汗)



2015年04月07日(火)
君は大人になっていない!

映画「ヤング≒アダルト」(ジェイソン・ライトマン監督)から。
生まれ育った田舎を捨て都会へ行き、ある程度、成功した。
しかし、都会の生活に疲れた主人公の彼女は、
既に結婚している学生時代の元カレと寄りを戻そうと帰郷し、
色気を振りまきながら、あの手この手を使うがうまくいかない。
それもそのはず、長い年月が、田舎に残った同級生たちを成長させ、
昔のイメージで「自分が最高に魅力的」と突っ張る彼女を
懐を広く迎えながらも、幸せの定義の違いを見せつけたと言える。
「僕ならそんな話は人にせず、精神分析に行って医者に話す」
「何があったのか、君の想像かは知らないが、過去は過去だ」
「君に人の幸・不幸が、わかるのか?」
「何をする気だ? どうかしている。帰ってくれ」
「君は正常じゃない。孤独で理性を失っている」
こんな台詞が散りばめられているのに、彼女は気付かない。
いや、気付こうとしない、気付きたくないのかもしれない。
そんな彼女に、古い友達たちはこう言いたかったのだろう。
「君は大人になっていない!」



2015年04月06日(月)
新宿御苑がある。それだけで、東京で暮らすことは楽しい。

書籍「東京公園散歩」(矢部智子著・P-VineBooks刊・143頁)から。
紹介しているのは、私が知りたい・・と望んでいる
「大人がゆったりとした時間を過ごすことのできる20の公園」。
さすが「東京」と、その規模やコンセプトに唸りながらも、
もしかしたら、自分の住む街の小さな公園にも活かせるかも・・
と思わせてくれた、貴重な資料として大切に読み込んだ。
どの公園にも共通した、公園の持つ「癒しのイメージ」は、
写真や映像にするより、文字にしたほうが伝わる気がする。
例えば「新宿御苑がある。それだけで、東京で暮らすことは楽しい」
「いつ来ても、どこを歩いても『楽しさ』を見つけることができる」
「みんなまるで自分の家にいるみたいに、気ままにくつろいでいる」
「歴史の足跡が、今も園内のあちこちに残されている」
「新緑の頃に裸足で歩けば、さらさらとした芝の感触が気持ちいい」
「濃密な緑の匂いがたちこめる、90年の時が生んだ壮大な森」
「ケヤキの足元につくられたベンチは、ランチや読書に最適」
「季節の移り変わりを感じながら、つかの間の休息を楽しむには最高の場所」
「それは一瞬で、東京にいることを忘れてしまう風景」
「夏場の気温は、街中より6〜7度も低いそうで、
その涼しさと気持ちよさは、一度体験するとやみつきになる」
「ここにいると、子どもは本来の子どもらしさを取り戻し、
大人もまた、自由な空気のなかで幸せな気分に包まれる」
「このあたりは、近所の子どもたちの格好の遊び場」
「きょうも台場公園は、孫の活躍に目を細める『ご老人』のように、
静かな周囲のにぎわいを見守っている」
「住宅地の中の小さな公園が約束する、幸せなひととき」
「その存在を知っているだけで、ちょっと人生を得したような気がする」
「絶えず誰かが訪れて、それぞれの時間を過ごしている」
「あの公園に行けばきっと現実から少し離れて、幸せな時間が過ごせる」
「晴れた日に、仕事を携え図書館に出かけ、ときおり気分転換に外に出て、
森の中のベンチで、近くの屋台カフェで買ったコーヒーをすする。
その幸せなひとときと思うと、自然と顔がほころんでくる」
う〜ん、どれをとっても、役立ちそうなフレーズばっかり。(嬉)
目指すは「柿田川公園がある。それだけで、清水町で暮らすことは楽しい」



2015年04月05日(日)
ピンク三昧・山梨

事前の天気予報では、奈良に続いてまた雨か、と落ち込んでいたが、
夫婦で行くバスツアー「甲斐善光寺御開帳と甲州三大桜」は、
曇天であったが甲斐(山梨)で、傘を広げることはなかった。
恵林寺・慈雲寺・甲斐善光寺・武田神社と予定された桜の名所は、
前日の雨と風で心配されたが散ることなく「見頃」であったが、
桜だけで言えば、規模は違えど、私たちの周りでも鑑賞は出来る。
わざわざ、バスツアーで行かなくても・・と思いがちであるが、
バスが山梨県に入った途端、車窓から見える景色が「ピンク一色」。
この景色は「静岡県」では、あまりお目にかかれない。
薄いピンクは、ソメイヨシノを始めとした「桜」、
それにアクセントを付けたのが、もう少し色が濃いピンクの「桃」、
道中、目の中には必ず「ピンク」があり、その色の豊富さに驚いた。
今回のバスツアーをワンフレーズで表現するなら、
間違いなく「ピンク三昧・山梨」。
7月〜9月のイメージがある「もも狩り」の主役、桃の木は、
桜に負けじと、この時期、精いっぱいのピンク色で輝いていたから、
桜の「ピンク」と桃の「ピンク」の競演、と言ってもいい。
いや、観光客をもてなす宴、と言う意味では「饗宴」かも知れない。
緊張しがちな年度始めの最初の週末、今回もまた自然に癒された。
「自然」って、本当に素晴らしいな、と心から思ったツアーである。

P.S.
「善光寺」に行くにしては、ゆっくりした日程だな、と思っていたら、
「信州善光寺(長野県)」ではなく「甲斐善光寺(山梨県)」だった。
もう少しで、恥をかくところだったなぁ、ほっ。



2015年04月04日(土)
ローマはあなたの街、あなたが街のイメージを創った

映画「NINE」(ロブ・マーシャル監督)から。
フェデリコフェリーニ監督の自伝的映画
『8 1/2』(はっかにぶんのいち)のリメイクでミュージカル版、
そう説明されても、実はよくわからない作品だった。
ずっと意味不明だったタイトルの「NINE」は、
ラストで「仮題NINE」というシーンを観て、
タイトルも脚本も決まっていない映画タイトルだとわかる。
舞台はイタリア。数々のヒット作を飛ばしてきた、
主人公のグイド・コンティニ監督9作目の映画ということなのだろう。
ラストで「アンソニー・ミンゲラに捧ぐ」という字幕が気になる。
アンソニー・ミンゲラ氏は、ネットで調べてみると
イギリスの映画監督・脚本家・映画プロデューサーとある。
これまたどういう意味なのか、判らずに終わった。
(数少ない脚本も書く映画監督、という意味だろうか?)
さて、今回の気になる一言は、単純にストーリーの中から。
自信をなくした、主人公の映画監督を励ます言葉。
「ローマはあなたの街、あなたが街のイメージを創った。
あなたの映画がね」
この発想は、まちづくりの手法としても使えるな、とメモ。
具体的な将来的なイメージ、映像があればあるほど、
住民は、その街のイメージに向かって努力していく。
震災で被害を受けた東北地方で大切なのは、将来の東北は、
こんな街になるんだ、という復興後のイメージ。
近未来的な将来都市像を、文字ではなく映像として提示する、
それこそ、イタリアという国、ローマという都市のイメージを
全世界に向けて、映画を通して情報発信すると同じように、
近未来の日本という国、東北という地方のイメージを、
世界に向けて、情報発信して欲しい、と願う。
飛躍し過ぎだろうか?(汗)



2015年04月03日(金)
背伸びをした仕事と向かい合うための、栄養源だ。

静岡県内の著名人が書く、静岡新聞夕刊のコラム「窓辺」に
前・国土交通省沼津河川国道事務所長の野坂周子さんが載っていた。
「伊豆マラソン」と題し、私も一緒に走ったコースを、
本当に短いフレーズながら、わかりやすく纏めていて感心させられた。
天は彼女に二物どころかも多くの才能を与えたようだ。
さて、コラムの後半「走る」ことについて、こう記している。
「戦後の厳しい時代を生き抜いた母には、『走る』なんて、
なんでそんな無駄なエネルギーの使い方をするのかと問われる。
確かに、この走るエネルギーをもっと建設的な事象に使えばと思う。
ただ、これは私のぜいたく。
背伸びをした仕事と向かい合うための、栄養源だ。
これからも、きっと走り続ける。」
この部分だけ読んでも、うんうんと頷き、思わずメモをした。
以前「なぜ走るのか?」と問われたとき、
「もっと強い自分に出会うために走り続ける。」と答えたが、
緊張感の続く仕事をこなしてきた彼女が表現してくれた
「背伸びをした仕事と向かい合うための、栄養源」も素敵だなと思う。
走ることは「エネルギーを使うのではなく、蓄える手段」という感覚、
走り始めて7ケ月だけど、少しずつわかってきた。
「これからも、きっと走り続ける。」と言い切った彼女は、
4月1日付けで異動してしまったが、この気持ちは私たちに残された。
「これからも、きっと走り続ける。」・・いい言葉だなぁ。