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| 2015年03月21日(土) ■ |
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| カワセミは、本当に「翡翠」(ヒスイ)だった |
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久しぶりに「カワセミ」を視た。 (見る、観る、とは違う、じっと「視る」を使いたい) 土曜恒例の早朝ランニング、沼津の門池公園でのこと。 柿田川公園でも何度かみかけだが、 遠くから望遠鏡か、カメラのズームを最大にして。(汗) それが、なんと今朝は、私のランニングコースのすぐ脇で、 青や緑色の鳥を見つけたので、もしかしたら、と走るのをやめ立ち止り、 注視したら、門池にいる小魚に狙いを付けている「カワセミ」だった。 その美しさに目を釘付けにされ、しばらく身動きができず、 じっと眺めていたら、突然、ホバーリングをしたかと思ったら、 ものすごい勢いで川面に顔を突っ込み、餌をゲット。 さらに、独特の青い羽を広げたかと思ったら、 次の瞬間、低空飛行で、私の目の前を横切り、飛び去った。 夢でも視ているのかと思うほどの、時間の流れがそこにあった。 きれいな水辺に住むということで、市町の「鳥」としている自治体は多いが、 果たして、どれだけの人が、本物の「カワセミ」を視たことがあるか、 考えさせられてしまった。 写真や映像では、カワセミの様子を目にすることがあっても、 本物を望遠鏡なしで目にする体験はなかなかできないからだ。 カワセミを「翡翠(ヒスイ)」と書き「渓流の宝石」と呼ばれる意味が、 実物の「カワセミ」を視て、納得させられたから、 「カワセミは、本当に『翡翠』(ヒスイ)だった」を残したい。 この被写体としての「カワセミ」を追いかけて、 水辺を渡り歩くウォッチャーがいるのも、わからなくない。 私が「ミニ皇居」と称して走っている「沼津・門池(かどいけ)公園」、 本当に、いい場所だよなぁ。
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| 2015年03月20日(金) ■ |
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| (柿田川は)今来ても、ワクワクしますね |
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私の2歳上の先輩であり、公私にわたりお世話になっている、 地元清水町出身の絵本作家、宮西達也さんの作品展が、 今、横浜高島屋で開催しているというので、足を運んだ。 (実は、明日行くつもりだったけれど、急遽、予定変更して(笑)) その「宮西達也ワンダーランド展」(横浜高島屋ギャラリー8F)から。 私はけっこう先輩の作品は読んでるつもりでいたが、 あれ?この作品知らない・・初めてみた、という作品もあり、 まずは、その作品の多さには驚かされた。 私のお目当ては、取材協力という形で、一緒に柿田川を案内した時、 先輩がはしゃいでいた様子がビデオになっているというので、 撮影当時を思い出しながら、繰り返して観賞することだった。 アトリエインタビューの一部であったが、 「宮西達也の原点 想い出の柿田川」というクリップとともに、 (頭の毛はボサボサだけど)子どもに戻った先輩の笑顔があった。 柿田川は「感動を味わい、感性を磨いた場所」と言い切り、 私が案内した「眼鏡橋」では、ここでカブトムシを捕まえたり、 これ以上近づくの危ないという、ギリギリの場所で楽しんだんだ、など、 話を始めたら、止まらないくらいの勢いで、原風景を語ってくれた。 そして最後に「(柿田川は)今来ても、ワクワクしますね」と、 大喜びの声で、取材陣に紹介している姿が、何ともいえなく可愛いい。 平日にも関わらず、多くの来場者が詰めかけていた会場で、 先輩が私を見つけ「しもちゃん」と声を掛けてくれたのは、嬉しかったし、 展示されている絵の横の壁に、自宅の襖とか壁にイタズラ書きするように、 絵本作家本人がマジックで書いている姿は、来場者が驚き、楽しかった。 もう一度、作品を読み直さなくちゃなぁ、宮西達也ファンとしては・・。 そして、作品の原風景となった「柿田川」を大切にしなくちゃなぁ。
P.S.(展覧会の「サブタイトル」と「キャッチコピー」) 「ヘンテコリンな絵本の仲間たち」「ドキドキ ワクワク 涙もポロリ」
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| 2015年03月19日(木) ■ |
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| 他人に危険を振り分けて、自分は安全でいられる |
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書籍「十二国記(図南の翼)」 (小野不由美著・新潮文庫刊・419頁)から。 (ファンタジーの世界を説明するのは難しいので、 いつものように場面設定は、曖昧になってしまうが) 獰猛な獣に襲われて殺されるかもしれないという危険、 そんな危険地域を通って、ある場所に向かう多くの人々。 こんな会話がある。「何のために我々は、 こうして集団となって蓬山に向かっているのか」 「臆病だからだろう」・・ さらに、場面が進み、同じような会話。 「そばに人がいたほうが安全だからだ。 なぜなら、横にいる人間が襲われている間に、 自分が逃げられる可能性があるからだ。 人が・・人に限らず、力のない生き物が群れるのは、 そのほうが安全だからだ。他人に危険を振り分けて、 頭数のぶんだけ、自分は安全でいられる」「酷い話ね」 「酷い?だからお前は甘いんだ、 これは酷いことじゃない、自然の摂理だ」 学校でも職場でも社会でも、どんな場面でも、 人が群れる理由をこう考えていれば、怖いものなし。 虐めというのは、自分が安全でいたいから起こるのだから。
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| 2015年03月18日(水) ■ |
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| 強くあれ、誘惑に負けぬよう |
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映画「ナルニア国物語 第3章:アスラン王と魔法の島」 (マイケル・アプテッド監督)から。 欲望を満たす「誘惑」に対して、私たちは弱い。 それをどう克服して、真の幸せを掴んでいくか、 そんなテーマの作品だった気がする。 ある賢者が、主人公たちに諭す。 「お前たちは、みんな試される。剣が7本並ぶまでは、 『悪』が優位にあることを覚えておけ」と前置きして 「強くあれ、誘惑に負けぬよう」と。 「闇の力に勝つためには、心の闇に打ち勝て」 「自分の価値を疑うな、自分から逃げていかん」 「きっと何者かが、僕らの心を操っている」 同じような意味を持つ台詞が、私の心に引っかかった。 しかし、辞書によると、 「誘惑」とは「人を迷わせて、悪い道に誘い込むこと」。 「人を迷わせる」ことはわかるけれど、 「良い道へ誘い込む」ことは「誘惑」って言わないのかなぁ。
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| 2015年03月17日(火) ■ |
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| 自然をたたえ、生物をいつくしむ |
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今週土曜日、今年の「春分の日」を迎える。 こんな時でないと、目的や意味を考えることがないから 「国民の祝日に関する法律」(昭和23年法律第178号) 定められている15の祝日をじっくり眺めてみた。 生活の中では「春分の日」と「秋分の日」の意味は同じで、 お彼岸だから、祖先を敬い、墓参りをしなくちゃ、と 勘違いしがちであるが、実はそれぞれに意味が違うことを知った。 春分の日(春分日)は「自然をたたえ、生物をいつくしむ。」 それと対になっている、秋分の日(秋分日)は、 「祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ。」 法の目的が「美しい風習を育てつつ、よりよき社会、 より豊かな生活を築きあげるため」なのだから、 「春分の日」は、気のあった仲間たちとピクニックにでも出かけ、 日本の四季を肌で感じながら、自然の中に生かされていることに 感謝する日、としたほうがいいようだ。(笑) 何十年も勘違いしていた「国民の祝日」の意味だけど、 どうして学校で教えないんだろうなぁ、と思う。(私が忘れている?) 今後も出来るだけ、当日ではなく、事前に紹介していきたい。
P.S. 「ぼた餅」を食べるのも、そんな意味があるのかなぁ。
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| 2015年03月16日(月) ■ |
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| おまえたち、夫婦(めおと)になれ |
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NHK大河ドラマ「花燃ゆ」より。 「想い合う」・・というキーワードを取り上げようと、 今回のメモ整理したら、意外な漢字変換を発見してしまった。 吉田寅次郎(松陰)が、松下村塾の塾生、久坂玄瑞と、 自分の妹・文に、結婚するように勧めるシーン。 「久坂、文、お前たち、夫婦(めおと)になれ」 何気ない台詞だが、文字として入力して変換すると、 私にとっては、どうも違和感があったので、気になる一言。 「めおと」、もちろん夫婦のことであるが、 「妻夫」(つま・おっと)で「めおと」だと覚えていたので、 「めおと」と入力し「夫婦」と変換されることに納得できなかった。 どちらが先だっていいじゃないか、と思うかもしれないが、 当時は、むしろ「妻」の方が大切にされていた証ではないか、 そんな気持ちでいたので、言葉として「夫婦」では違うと感じている。 考えすぎだよ、と言われるのを覚悟で、取り挙げてみた。 本当に「めおと」=「夫婦」でいいのだろうか。(汗)
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| 2015年03月15日(日) ■ |
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| その1割に、プロかアマチュアかの違いが出る |
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親友が後援会長をしているので、一緒に応援している 沼津市出身の落語家「三遊亭橘也」の会報「みかん」から。 (噺家って呼び捨てでいいのかな?) この会報の一部、橘也本人が執筆しているのだろう、 師匠(三遊亭圓橘)との会話を楽しく、判りやすく紹介している。 その中で「落語は、聴くものか、観るものか?」と訊かれた話が 印象に残っている。 テレビっ子で育った私たちは、落語家の顔・容姿をはじめ、 寄席などにも「落語を見に行く」と言ってしまうが、 2人の会話から知ったことは、(圓橘師匠曰く) 「落語は9割は聴く、あとの1割が観る。 1割は、扇子や手拭の使い方、仕草や表情などであるが、 その1割を、ちゃんとやるかどうかで、 プロかアマチュアかの違いが出る」ということ。 基本的には落語は聴くもの、と言いつつ、耳にする声以外の部分を 大切にすることが出来るかできないか、にプロ意識を求めるところは 思わず、頷くしかなかった。 ラジオやテープなど、声しか聞こえない媒体でも、 高座に上がる時と同じように、扇子や手拭の使い方、仕草や表情まで、 しっかりやっていることが理解できた。 名人と呼ばれる人たちの落語は、雰囲気が違うんだな、きっと。
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