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しもさんの「気になる一言」
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2014年01月16日(木)
自らの手で支えることのできるものを、我と呼ぶ

書籍「十二国記 黄昏の岸 暁の天(上・下)」
小野不由美著・講談社X文庫刊・
上巻 242頁・下巻 255頁 計497頁)から。
国が荒れたり倒れたりするのは、王様のせいだとは言えない。
「王様ってのは、手前勝手なものに決まってます」の台詞で、
妙に納得してしまったのだが(笑)、私のお気に入りは、
「そもそも自らの手で支えることのできるものを、
我と呼ぶのではないでしょうか。
ここで、戴(物語の中の国名)を支えることができなければ、
そのために具体的に何ひとつできず、しないのであれば、
僕たちは永遠に、戴を我が国と呼ぶ資格を失います」という表現。
私たちはそんなことを意識もせず「我が国」「我が町」などと
簡単に口にするが、自分たちの手で支えよう、という行動があって、
はじめて「我」という単語を使えることに、納得した。
裏を返せば、不平不満ばかりで、支える行動すらしない人たちは、
「我が国」「我が町」と口にする資格さえない、ということだろう。
なるほどなぁ、やっぱり「十二国記」は奥が深いなぁ。



2014年01月15日(水)
日本文化やおもてなしの心を体験するプログラム

たしか、川勝静岡県知事が、今年の新年の対談で
静岡県が目指す(知事が目指す)教育改革に触れた記事だったと思う。
「最先端の教育を行い、地域社会に貢献する人材を
育てることが、私たちの目標」としていたのを思い出す。
そのためには、どんな人間が必要なのかな、と考えていたら、
「小さな成功体験を重ね、打たれ強い人間を育てたい」と言い切り、
そのためには、どんなことが必要なのか、と考えていたら、
高齢者などが経験を生かし「教える立場になって、学ぶ授業」と
はっきりとしたイメージができていることに驚いた。
さらに「日本文化やおもてなしの心を体験するプログラム」を例示に出し、
具体的に「日本の伝統文化継承プログラム」と名称まで示していた。
さらにさらに、そのプログラムの内容は
・だしの授業・和食のマナー講座・茶道体験・囲碁、将棋、カルタなど
すぐにでも実行できそうな取組みが明示されたから、ど肝を抜かれた。
実はこれに似た取組みとして「日本文化体験コース」を、
わが町ではもう10年以上前に、文化協会会員が講師となり、
数年間、開講していたが、なかなか思うように進まなかった現実がある。
今考えると、時期尚早だったのかも・・と当時の仕掛人だった私は、
苦笑いをして、この記事を読んだ。
やっと時代が、わが町に追いついてきたか・・と当時を思い出しながら、
「おもてなし、和食、日本文化」、これだけの条件が揃ったのだから、
もう一度、挑戦してみる価値がありそうだな。
川勝知事も、バックアップしてくれるかもしれないしなぁ・・(笑)



2014年01月14日(火)
正論は正しい、だが正論を武器にするのは正しくない。

映画「図書館戦争」(佐藤信介監督)から。
図書に関する想いは、ここでは書ききれないほどあるので、
この物語の設定についての是非は、コメントできない。(汗)
内容とは関係ないかもしれないが、この台詞にグッときた。
「正論は正しい、だが正論を武器にするのは正しくない、
お前が使っているのは、いったいどっちだ」
この場面は、作品内だけでなく、私たち仕事でも同じことが言えるから、
ちょっと長くなるが、メモしたのでご紹介。
手塚「1冊に何分かかってんだ。一緒に仕事しているこっちの身にもなれ」
笠原「ごめんね、もう一度、探してくるから」
手塚「だめですね、あいつ。あれならいない方がマシです」
堂上「手塚、お前は優秀な人間だ。だが、自分のレベルに達しないやつを
切り捨てていったら、最終的に何人残る?」
手塚「お言葉ですが、自分が優秀に見えるのであれば、
それは努力しているからです。笠原のような人間は、怠惰としかみえません」
堂上「正論だな。だが、お前は笠原にどうして欲しいんだ。
辞めさせたいのか、それともおまえの方が優秀だと誉めて欲しいのか。
正論は正しい、だが正論を武器にするのは正しくない。
お前が使っているのは、いったいどっちだ」
一緒に仕事をしている人に対して、自分が迷惑をかけていることは、
なかなか思うように出来ない、本人が一番知っている。
それを、ちょっとばかり仕事が出来る人間が責めたところで、何も解決しない。
そんなところがお前の欠けているところだ、と諭したのかもしれない。
このシーン、けっこう私の中ではお気に入りかも・・。



2014年01月13日(月)
盛りがあるだけでもいいじゃないか・・

NHK大河ドラマ「軍師 官兵衛」から。
いくら「軍師」「参謀」をテーマにした物語だからといって、
毎回「兵法の紹介」では疲れると思ったので、今回は違う視点から。
蛍狩りをしている様子を眺めながら、小寺家の正室(お紺)が官兵衛に呟く。
「蛍二十日に蝉三日」(ほたるはつかに せみ みっか)
もちろん「物事の盛りが短いたとえ」であるけれど、
気になったのは「蝉」の盛りの期間。(笑)
書籍「八日目の蝉」(角田光代著)を読んだ時、たしか・・
「蝉は、何年も何年もの長い間、地中で生活するのに比べ、
地上に出てから7日しか生きられない」と学んだのだが、
あくまで「地上で生きている期間」であり、その7日間の中でも、
思いっきり鳴く盛りは3日程度、という事なのだろうか。(汗)
まぁ、そんなことにこだわる必要もないか、と苦笑いして、
インターネットで「蛍二十日に蝉三日」の意味など調べていたら、
多くの人がブログに書いていて参考になった。
そんな中で、私が思わず笑ってメモしてしまった書き込みは、
「意味は、盛りが短いたとえ」と書いておきながら、
「盛りがあるだけでもいいじゃないか・・」という呟きだった。
今の世の中、一部の人たちは人生の中で輝く時期をもっているが、
ごく普通の人たちには、盛りの期間もなく、人生を終える。
蛍や蝉より、人の人生はもっとはかない、そんな意味にもとれて、
ちょっぴり笑っていられないな、と思った。
(「人の夢」って書いて「儚い」だから仕方ないかな。)

P.S.(今回の兵法)
半ば進みて半ば退くは、誘うなり。(「半進半退者、誘也。」)
敵が進んでは退き、退いては進むのは我を誘い出そうとしているのだ。
出典は、孫子「行軍篇」。
行軍篇では「敵への接近方法」などが説かれている、と覚えておきたい。



2014年01月12日(日)
いやいや、アンカーには届いてるよ、きっと

年明けの一大イベントである「成人式」を無事に終え、
やっと「2014・箱根駅伝」のメモを読み返すことが出来た。
「流れを決める1区」「花の2区」「山登りの5区」等、
区間ごとに、簡単なフレーズがあるのには笑えた。
今年は、選手と祖母との関係を示す解説が多かったのだろうか、
私のメモ帳には「おばあちゃんネタ多い」と書かれていた。(汗)
また「3区『だいじゅ あやは』の看板は邪魔」のメモは、
1年間の練習に耐え、力いっぱい走る、駅伝ランナーを無視して、
コースにはみ出してまで、テレビに映りたがっている人たちに、
警告を示したメモだった、と思う。
「山下りの6区」のメモは「1〜2秒、画面より早いスタート」
「7-8区に人材の厚さに差が出る」「9区、花の2区の裏返し」等、
くだらないメモも、時間が経って読み返すと面白い発見がある。
「9〜10区のタスキ渡しとなる、鶴見中継所」の場面、
繰り上げ一斉スタートで「想いは届かなかったぁ〜」と、
絶叫するアナウンサーの台詞をメモしたかと思えば、
その横に「いやいや、アンカーには届いてるよ、きっと」と、
やけに冷静に走り書きをした、自分のコメントをみて、大笑い。
今年も多くのドラマで私たちを楽しませてくれた「箱根駅伝」。
一番下に「関西もやればいいのに・・」のメモと、
「折り返さず、箱根を超えて三島に下りて、浜松ゴール」なんて
わけのわからないメモを見つけて、酔っぱらっていたな、と反省。
1月も既に12日が過ぎた、あっという間に2月を迎える。
しかし、自分のペースを確認しながら、焦らず生活していこうと思う。
前半は慎重に入ってますね、と瀬古さんに解説してもらいたいからな。



2014年01月11日(土)
映画は「上映時間」、書籍は「頁」を追加

毎年、年の始めに目標の数字を決めるのが、数字好きの私。
映画なら年間120本、読書なら50冊という目標があると、
「テレビを観ない」等のちょっとした努力と工夫で、
意外と簡単に達成できることが、ここ数年の実績でわかった。
映画なら、タイトル、書籍なら、書籍名・著書など
メモした気になる一言などと一緒に管理しているが、
今年から、入力項目を増やそうと考えている。
それが「映画は『上映時間』、書籍は『頁』」
映画によっては短い映画、長い映画があるし、
書籍にしても、絵本から長編小説まで、頁数に大きな違いがある。
だから本数や冊数だけでは、目標数を達成しても、
満足がいかなくなってきたのかもしれない。(汗)
その代わりの成果指標として、今年は「上映時間や頁」を選んでみた。
「1年間に画面を何時間、観続けたのだろか?」
「1年間に、何頁、めくっただろうか?」
そんなことが何になるかは、自分でもわからないけれど、
実際、どれくらいの数字なのか、見当もつかないからこそ、
試してみる価値があるかな、と思っている。
来年の今頃、映画の鑑賞作品数や書籍の読破数とは別に、
新しい数字が発表されると考えただけでも、ワクワクするな。

P.S.
実際は、私の場合は、メモするために映画の映像を止めたり、
本から書き出したりする作業が加わるから、倍以上の時間が費やされる。
それでも、どれくらいの数字か出るか、楽しみだな。



2014年01月10日(金)
あれ?「新聞記者」が「若者」に変わってる・・

映画「永遠の0」鑑賞後、原作のメモを読み直して、
比較してみて気付いた点、その違和感を文字にすると
「あれ?『新聞記者』が『若者』に変わってる・・」。
「特攻隊」と「自爆テロ」は、所詮は洗脳されていて同じだ、と
いう主張をするのが、原作では「某新聞社」、映画では「若者」。
実はこの設定変更が、とても気になっている。
原作者の百田尚樹さんが、納得したのなら仕方ないが。(汗)
マスコミの報道の在り方や、考え方を痛烈に批判する場面が、
映画になった途端、こうも簡単に取り除かれているからだ。
このシーンは、物語の核心に触れる部分ではないが、書籍では
戦争を美化し、国民を洗脳した責任の一端はマスコミにある、
そんな百田さんの叫びを感じたのだが、私の錯覚だったのだろうか。
逆に、若者にすり替わったことで、この問題がとても簡単に
片付けられている気がしてならない。
「悪いけど、自爆テロと特攻とは違うよ」と主張する三浦春馬くんは、
「なにをムキになってるんだよ」と言い返されて、
「ごめん、やっぱり俺、帰るわ」と席を立ったシーンに感激したが、
その姿をみて「面倒くせぇやつ」という若者たちの罵声が・・。
いいのかな、私はこの部分、とても大切だと思ったんだけどなぁ。

P.S.
たしか書籍では「カミカゼアタック」の章です。