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しもさんの「気になる一言」
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2014年09月29日(月)
訳もなく涙が出る曲「あの鐘を鳴らすのはあなた」

先日、静岡市清水区で開催された「サンライズコンサート」。
静岡県下を代表する、高校の吹奏楽部が一堂に会しての演奏会、
若い力を感じる、とても素敵な企画であった。
中でも、わが町唯一の高校、沼津商業高校吹奏楽部の演奏は、
何度耳にしても飽きることがなく、そのたびに元気をもらえる、
私にとって、貴重なエネルギー源なのであるが、
最近、私の体に異変が起きていることに気付いた。(汗)
演奏終盤、定番ソング(「情熱大陸」)「風になりたい」を聴き、
アンコール曲の定番(笑)「あの鐘を鳴らすのはあなた」を
一緒に口ずさみながら楽しんでいると、なぜか「じわ〜」と
涙が溢れてきてしまう。勿論、今回も・・。
たぶん、関係者以外では、最多で演奏を耳にしていると思うが、
「泣くような悲しい曲でもない」はずなのに、涙が出る。
かといって「楽しくてたまらない」といった曲でもない。
どうして?と訊かれても、答えは見つからない。
たぶんこの演奏を聴くと「どこかのスイッチが入る」のだろう。
「訳もなく涙が出る曲」、読者には、そんな経験はないだろうか。
この理由が知りたくて、毎回、演奏会に足を運んでしまう。
春の「沼商フレッシュ・コンサート」の後も、
冬の「定期演奏会」の後も、もちろん、その他イベントの後も。
「なぜか涙が止まらない」と同じようなことを書いている。
しかし・・未だ理由が掴めず、不思議な曲だよなぁ。



2014年09月28日(日)
雪は解けるけど、火山灰は溶けない

御嶽山の大噴火の様子をテレビで観て、思い出した講演会があった。
当時は、あまりインパクトがなかったが、今回の噴火を目の前にして、
整理してあったメモを引っぱり出してみたので、参考にされたい。
講師「小金澤保雄」氏(珠流河国文化財調査研究所代表)

演題「富士山のこと、どこまで知っていますか」から。
(美しい富士山は、いつまで続くのでしょうか)
富士山の誕生から、繰り返されてきた噴火を伴う火山活動は、
今までに38回ほど数えられる。
それまで100年に一度くらいの周期で噴火が起きていたのに、
1707年(307年前)の宝永火山の噴火以降、起きていないという事実、
これは、3倍のエネルギーが溜まっているとも考えられる、
そう気付かされた話だった。
東海地震を含めた東南海トラフの地震は、近年大きな話題となり、
その対応は、着々と進められているが、この話を聴いて、
「富士山噴火」について、もっと知らなくては・・と感じた。
特に、本物の火山灰を見せていただいたあと、
「雪は解けるけど、火山灰は溶けない。
それも、火山灰の正体は、すべてガラス」という解説は、
知らずに目をこすったら、眼球が傷つくことを意味する。
車のフロントガラスに積もった火山灰を、ワイパーで払おうとすれば
傷だらけになって前が見えなくなる、と言うことだ。
「夏に富士山が爆発すると・・火山灰は静岡県に積もるが、
冬なら偏西風に乗って、東京に積もる」って話も、
火山灰が精密機械を襲い、全てが混乱に陥ることを予想する。
その原因は「雪は解けるけど、火山灰は溶けない」だな。

P.S.
今回、私が一番最初にしたことは、
登山好きの親友に「登ってないよね」のメールだった。(汗)



2014年09月27日(土)
秋と言えば「欲張りの秋・バランスの秋」

朝から久しぶりの晴天に恵まれて、秋まっ盛りって感じで、起床した。
秋と言えば「スポーツの秋」「芸術の秋」「読書の秋」「食欲の秋」等、
いろいろな表現がされるが、好奇心旺盛の私は、どれも捨て難い。
でも、今日一日を振り返ると、全て体験していた満足感が溢れている。
午前中、柿田川の外来種駆除で、写真を撮りながらも「ボランティアの秋」。
その後、静岡市清水区の清水駅前「清水文化会館マリナート」で
開催された「静岡サンライズコンサート」に、
わが町の唯一の高校であり、私がずっと応援し続けている
「沼津商業高校吹奏楽部」が演奏すると知って、清水駅まで電車で移動。
自宅から沼津駅まで「ランニング&ウォーキング」で「スポーツの秋」。
往復の電車の中は、読みかけていた本を持参し「読書の秋」。
県東部「県立沼津商業高校」、県中部「静岡市立清水桜が丘高校」
県西部「浜松海の星高校」の各校吹奏楽の演奏は「芸術の秋」に相応しく、
若い力を感じさせる素敵にコンサートであった。
また、三島駅に戻り、駅から自宅までのランニングは「スポーツの秋」。
しかし帰り道に立ち寄った、北海道料理「中むら」で、
充実した一日のご褒美で「十四代」を飲みながら「食欲の秋」。
たった一日で「全ての秋の楽しみ」を体験してしまったことを記録として
「秋と言えば『欲張りの秋・バランスの秋』」を残そうと思う。
どれにも偏らない、言い換えれば「バランスよく秋を体感」した一日。
万歩計は「17,944歩」、本は「1冊読破」、三校の吹奏楽は素晴らしく、
「十四代」(雄町・純米吟醸)でほろ酔い気分を味わった。
「スポーツも文化・芸術も」さらに「ボランティア」や「食欲」も、
大切なのは「偏らないバランス」だと気が付いた。
これも、きっと好奇心旺盛のいいところなんだろうなぁ。
さて、明日はどんな秋を体験できるのだろう、楽しみである。



2014年09月26日(金)
スマホはビジネスパートナー。手帳は戦友であり、師である

雑誌「DIME」の特集記事「手帳はアナログに限る!」から。
(たぶん26年11月号だったと思うけど)
私が気になったのは、泉谷直木氏のコメント。
「アサヒグループホールディング代表取締役社長兼CEO」の彼は、
「スマホはビジネスパートナー。手帳は戦友であり、師である」と
私がいつも感じていた感覚を、フレーズにしてくれた。
もちろん、わからないことを調べたりするのは、
スマホの方が便利だが、バッテリーを気にしながらの作業は、
やはり、違った意味で「ストレス」が溜まる。
一度、スケジュール管理も「スマホ」で試してみたが、
やはり、取扱いの容易さでは「手帳」の方が群を抜いている。
さらに、同じサイズの手帳が積み重なってくると、
それ自体が「自分史」となり、私の人生を一緒に過ごした「戦友」の
言葉が、ピッタリの表現だな、と頷いた。
また、何気なく書いた「メモ」が、生き方に迷った時に役に立つ。
私は、一日に20回くらい手帳を開くので、
単なる手帳というよりも、いろいろな役割を果たしているとも言える。
「僕の手帳は、記録、記憶、あんちょこの3つの機能があります」と、
手帳の魅力を伝えていた。拍手喝采の表現であった。



2014年09月25日(木)
100円玉は、お釣りが戻りません

長電話が予想される人に、外から緊急で電話をかけなければならず、
スマホのバッテリーも僅かだったので、公衆電話を探した。
まず、どこにあるのか、探すのに苦労した。
さらに、小銭がなかったので、傍の自動販売機でジュースを買い、
そのお釣りで電話を掛けたけれど、目に入ったのは
「100円玉は、お釣りが戻りません」
確かに、以前からその機能は気になっていたけれど、
当時は、テレフォンカード全盛時代で、あまり利用しなかった。
しかし、実際に「100円」のお釣りが戻ってこないことを体験したら、
本当に「損したぁ」という気持ちになった。
「この機械はお釣りが出ないのを承知して使ってね」って発想が、
今時の人たちに受け入れられるとは思えない。
たぶん、そういう仕組みだから仕方ないと思うけれど、
「公衆電話」のあり方を、もう一度、考え直す必要がありそうだ。
国際電話も出来るタイプとか、いろいろあったが、
パソコンを公衆電話につなげて利用する機能なんて、もういらない。
全国の郵便局の前に1台、お釣りの出る公衆電話があれば、
場所もわかりやすいし、便利だなぁ、とも思う。
(二千円札は使えなくてもいいけど・・(笑))
1円玉、5円玉、50円玉、500円玉の硬貨を始め、
千円札が使える公衆電話なら、もっといいのになぁ。



2014年09月24日(水)
奴は犬だ。

映画「道(1954)」(フェデリコ・フェリーニ監督)から。
名作と言われながらも、まだ観ていなかった「道」。
多くの映画ファン・関係者が綴る作品解説を読みすぎて、
やや頭でっかちになっていたかもしれないなと感じ、
私なりの感覚でメモを取り、どの台詞に引っ掛かるのか、試したくなった。
綱渡り芸人「イルマット」が、主人公の娘「ジェルソミーナ」に語る
「この世の中にあるものは、何かの役に立つんだ。
例えば、この石だ。こんな石でも何か役に立ってる」のフレーズは、
この作品の根底に流れている考え方かもしれないが、
それ以上に、インパクトがあった台詞は、同じ2人の会話でも、
主人公のひとり「ザンパノ」に対する例えだった。
「奴は犬だ。お前に話しかけたいのに、吠えることしか知らん」
会話をメモしていても、言葉が単語だけであったり、長い台詞はない。
だから、彼女に対してどうしても命令調の口調になってしまっている。
他人とのコミュニケーションが上手に出来ないがために、
彼女への想いもうまく表現出来ない、そんな彼の性格を言い当てていた。
そんな彼の不器用さ、寂しがり屋な面が、浮き彫りにされた気がする。
そして有名なラストシーン、海に佇み、天を仰ぎ、声を上げ号泣する場面、
何を感じ、何に対して嗚咽したのか、その解釈はいろいろでいいと思う。
また数年後、この作品を観た時、違った感想を持つんだろうな、きっと。

P.S.
妻は「小学生の頃、映画鑑賞会の授業で観たよ」と言ったが、
こんな悲しい話、何を学んで欲しかったのかなぁ。



2014年09月23日(火)
1時間くらい待ちますが、よろしいですか?

今回の気になる一言、どこで耳にしたフレーズかわかるだろうか?
なんと、地元にある「献血センター(献血ルーム)」のカウンター。
私は「年4回ある『議会』が終わったら献血する」って決めている。
(実は、9月議会最終日は明後日だけど・・(汗))
いくら祝日とはいえ、10時スタートだからすぐ出来るだろうと思い、
9時50分に現地へ到着したら、施設内は、もう人がいっぱい。
そして、並んだカウンターでこう言われた。
「最初の9人が今からですから、
1時間くらい待ちますが、よろしいですか?」と。
もちろん、その後の予定は「午後1時からの講演会」だから、
「えぇ、いいですよ。雑誌でも読んでますから」と答えた。
私の後ろに並んだ人も、そのまた後ろの人も、同じ質問に
なぜか笑顔で「はい」とか「待ちます」と答えている。
「献血センター(献血ルーム)・満員御礼」の光景も驚きだが、
こんな長い「待ち時間」なのに、誰も文句を言わず、
老若男女が、ゆっくり順番を待っている光景も驚きであった。
この施設を訪れる人たちは「健康だから出来るボランティア」を
自分のライフスタイルにしているに違いない。
久しぶりに「心がホッとする光景」を目にして、私も嬉しくなった。



2014年09月22日(月)
重さを、体重計の数字ではなく、お米で実感する。

最近、会う人、会う人に「どうした? 病気?」と声を掛けられる。(汗)
それも以前のポッチャリしていた頃の私を知っている人がほとんど。
実は少しずつだけど、一番重たかった頃から比べて、
なんと8キロくらい体重が減った、いや、体が軽くなった。
昨年の6月「大人のスポーツテスト」で挑戦した「懸垂1回」が悔しくて、
そのあと児童公園で何回も練習したが、回数は増えず、
原因を真剣に考えたら「体重オーバー」に辿り着いた。(笑)
若かった頃に比べて20キロ、20年前に比べて10キロは増えているが、
どうも実感がなく、そのままズルズルと増えていった気がする。
衝撃的だったのは、妻と買い物に出かけ、お米5キロを持ったとき、
「えっ、10キロって、これ2つ分?」と、勿論、その場でメモをした。
この重さを常に身につけて、生活しているなんて・・と愕然とした。
しかし、急激なダイエットは体を壊すことも知っていたから、
時間をかけて、体を軽くすることだけを考えた。
ちょっと太ったな、と思ったら、お米屋さんで買う振りをして、
数キロの袋を持って、あの時のカルチャーショックを思い出すだけ。
重さを、体重計の数字ではなく、お米で実感する。
更に、家族の協力を得た「野菜中心の食事療法」が効いたのか、
長年の懸案だった「高血圧」も改善しつつある。
自分が太っていることを実感するには「お米○キロ」がいいかもなぁ。
たぶん、脳で考えている以上に、重たいはずだから。



2014年09月21日(日)
メーターは親友なんだろ?、どうして変われって言ったんだい?

映画「カーズ2」(ジョン・ラセター監督)から。
数年前、夏休みの子どもたちを対象にした映画上映会で鑑賞したが、
作品はスピード感溢れ、大騒ぎしている子どもたちとともに
画面に釘付けとなってしまった。(汗)
ただ、その分だけ大切な「台詞」が聴きずらかったのは事実。
DVDで観直すことも考えたが、暗闇で残したメモを頼りに
場面を思い出しながら、レビューを書こうとしたら、
意外と、大人を意識した作品であることがわかった。
「擬人化」と言うより「擬車化」した天才レーシングカーの
マックィーンと、おんぼろレッカー車メーターの珍コンビを通して
「友情」の大切さを語っているようにも見える。
メーターのドジな行為に振り回されて、疲れ果てたマックィーンが、
今のままではダメだ、これから世界のレースに参戦するためにも
ちゃんと礼儀正しくできるよう変われ、と罵倒する。
しかし、それでも変わらないメーターに呆れて、遂に離れ離れに。
そんな時、ある仲間(車)が、天才レーシングカーに語りかける。
「メーターは親友なんだろ?、どうして変われって言ったんだい?」
親友なら、親友の全てを受け入れてあげればいいじゃないか、
そんなアドバイスをするシーンが、心に残った。
(早く仲直りしなさい)「友情より大切な喧嘩なんてないから」と。
アニメとはいえ、胸が熱くなるシーンであった。
そんな天才の悩みも知らず、親友のメーターは天才が大好き。
マックイーンがぶつかって出来た凹みだらけの車体を修理もせず、
「この凹みは宝だもの」と誰にでも言い切れる車同士の友情関係。
これはやっぱり、大人に向けた作品だな。



2014年09月20日(土)
彼女の「書」が「絵画」に見えた。

ほぼ毎日「金澤翔子」さんの書に触れた時間が、今日で終わった。
彼女が書いた、この「書」と毎日毎日向き合うことで、
なにか私の心の中で変化が起きるのか、楽しみに通い続けた13日間。
最初の4日間、実は何もわからなかった。
どうしてこの「字」が評価されるのか、素直に受け入れられなかった。
会場で観ている人たちは「凄いねぇ」と口にして帰っていくが、
私には、その凄さが何なのか、見えてこなかった。(汗)
次の4日間、どうして毎日眺めても飽きないのか、不思議だったが、
やはり、その「魂」が伝わってこなかった。(すみません・・(汗))
そして、最後の4日間。「書」なのに、近づいたり離れたり、
鑑賞の仕方が、美術館で絵画を観る動きと同じことに気がついた。
私のくだらない先入観から「字」としてその意味を考えてしまい、
彼女はこの「字」(単語・熟語)の意味が、本当にわかるだろうか、
そんな感覚で観ていたから、なにも伝わってこなかったんだ、と
気付いたとき、彼女の「書」が「絵画」に見えた。
まさしく「あっ、わかった!」という瞬間を味わうことが出来た。
白い半紙というキャンパスに、黒の墨で描かれた絵画、
いや、黒いはずなのに、かすれた部分に色を感じたのは、
私の錯覚ではない気がする。(墨絵とはちょっと違う感覚だけど・・)
「空」という字は、死んだお父さんの笑った顔、という解説をみつけ、
今回展示された迫力のある作品の中では、目立たない小さな「空」が、
私を惹き付けて離さなかった理由がわかった。
私にとっては、とても素敵な「金澤翔子絵画展」だった。

P.S.
京都・建仁寺に、彼女の描いた「風神・雷神」がある、と知った。
俵屋宗達の「風神雷神図屏風」と並んで・・。
また、京都に行きたくなってしまった、この「絵」を観るために。