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しもさんの「気になる一言」
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2012年12月18日(火)
俺たち女の42歳は厄年だよね(汗)

ある懇親会で、現役バリバリで働いている女性が、呟いた。
部下の男性にも「お前たちなぁ」と叱りつけて、
私なんかが「男前だねぇ」と、褒め称える存在であるが、
そんな彼女が、今年はいろいろなことがあったよ、と振り返り、
同級生の女性に賛同を得ながら、口にした台詞。
「俺たち女の42歳は厄年だよね(汗)」
私の知識で「厄年」は、数え年で男は25.42.61歳、
女は19.33.37歳だったと思う。
特に、男の42歳と女の33歳を「大厄」と言い、
その前後の年も「前厄」「後厄」と言って行動を慎むとされていた。
(42が「死に」、33が「散々」という節もあるが)
基礎知識としては、体や心の変化が激しく、一番不安定な年齢、と
私なりに理解している。
それが、少しずつ少しずつ、生活スタイル・労働環境が変化し、
女性でも「42歳」が厄年となりつつあるようだ。
寿命・結婚年齢・出産年齢が伸びた分、女性の厄年も伸びたんだな。
こういうことは、時代が変わったのに変えようとしないんだね。



2012年12月17日(月)
食べ物ってのはね、目を閉じて

映画「レミーのおいしいレストラン」(ブラッド・バード監督)から。
確かに、料理が苦手な見習いシェフのリングイニと、
料理が得意なネズミ、レミーの友情と成長を描く作品だが、
私は、彼らの関係よりも、食に関する言葉のメモが多かった。
誰の台詞か忘れてしまったけれど「食べ物ってのはね」で始まり、
「目を閉じて、一口かじって、ゆっくり噛んで、味わいながら」
と続くフレーズになるほどなぁ、と思わずにいられなかった。
この作品鑑賞後、私はこの台詞を実行してみた。
驚くことにいつもの「食べ物」が違った味に感じられた。
視覚から入る情報が多すぎて、事前の知識や経験から、
その味を想像してしまう癖がついていたことに気付いた。
「僕の知る限り、食べ物は健康な体に必要なもの」
「1個ずつだと、独自の味。
でも、一緒に食べるとまったく新しい味になる」
「いいパンの見分け方は、香りでも見た目でもなく、
皮の音、聞いて」
「最も新鮮なものは、自家製か生産者を買収する」
「誰でもが、偉大なシェフにはなれない。
だが、どこからでも偉大なシェフは誕生する」・・・
さすがディズニー映画だなぁ、脚本がしっかりしている。



2012年12月16日(日)
やっぱり「生作」「生映」「生音」「生声」「生中」(笑)

ちょっと波乱含みの第4回の定例議会を金曜日に終え、(汗)
私の生活・仕事環境は、一気に年末へ突入した。
というよりも、やっぱり「コピー」より「本物」、
そう表現した方がいいのかもしれない。
伝統木版画家「風鈴丸」さんの作品展を、作家本人(生作)から解説を受け、
地元映画館の大型スクリーンで「007 スカイフォール」を鑑賞(生映)した。
さらには、週末の土日、巷で大騒ぎしている総選挙を横目に、
「ヴァイオリン」や「ピアノ」の「生音」を聴いたかと思えば、
「ソフトボイス」や「楽団ひとり」の若い人たちの「生声」「生音」で、
京都のお座敷気分的な、それはそれは贅沢な時を過ごした。
体調を崩しかけた、疲れ気味の体と心が、彼ら、彼女らのお陰で癒され、
元気を取り戻した気がする。
映画「スノーホワイト」ではないが、若い人たちとパワーが、
年を重ねた私の細胞に刺激を与えてくれた、といっても嘘ではない。
コピーは手軽でいいけれど、やはり「本物」(生)は、違う。
こればかりは、いくら文字で書いても伝わらないだろう。
面倒くさがらず、脚を運ぶ、これが「元気になる秘訣」に違いない。
病気の治療でお金を使うより「生」に触れることをお薦めしたい。
さて、これから続く「忘年会」、「生ビール」で乾杯だ。(笑)



2012年12月15日(土)
僕らは波じゃない、海の一部だ

映画「モリー先生との火曜日」(ミック・ジャクソン監督)から。
作品の中で紹介している「海と波の話」、メモ取りましたか?
そんなメールをいただいたので、皆さんにご紹介。
ある波は、陽光と風に戯れながら、
上へ下へと波打ち、幸せな時を送っていた。
でも、ある波が岸にぶつかるのをみて怖くなった。
そんな波をみて、別の波が聞くんだ。「何が悲しいの?」
小波は答えた。「僕らは岸にぶつかり消えてしまうんだ」
別の波は「バカだな」と呟いたあと、こう言った。
「僕らは波じゃない、海の一部だ」
ただ、これだけの話だけれど、私も胸が熱くなった。
ついつい、自分が犠牲になることばかり考えがちだが、
自分が波だと思うからそんな取るに足らない悩みを抱える。
最初から、自分は海の一部だと考えられれば、
砕け散ってもまた活躍の場が用意されている。
いや、砕け散る、という発想さえない。
単に海としての動きであり、砕け散ったわけではない。
砕け散ったように見えるだけではないか、と。
素敵な話が詰まってます、是非、ご鑑賞を。



2012年12月14日(金)
恐るべし、平たい顔族

映画「テルマエ・ロマエ」(武内英樹監督)から。
くだらない・・と思いながら、知らず知らずのうちに
観続けてしまった、古代ローマの公衆浴場作品。(笑)
歴史が変わっちゃうから、未来のものを持ち込んじゃだめ、
そんな言い訳は関係なく、ちょっとアレンジして
日本の風呂文化を、古代ローマに活用するなんて面白い。
特に笑えるのは、キャスティングの妙。
古代ローマ人役の俳優は、外国人と間違えるような、
やや日本人離れした彫りの深い俳優陣たちで揃えたのに対し、
現代日本人役は、・・・(汗)なるほどな。
「彫りの深い顔」とは、彫ったような凹凸のある顔だが、
典型的な日本人の顔はどんな特徴があるだろうと考えていたら、
「恐るべし、平たい顔族」の台詞が跳び出し、大笑いした。
「日本人」イコール「平たい顔」ねぇ、
もちろん私も、典型的な「平たい顔族」の仲間だな。

P.S.
ローマ人(のはず)なのに、彼らの台詞が時代劇調で可笑しい。
「ありがたき幸せ」「御無礼は、重々承知致しております」
「大儀であった」・・



2012年12月13日(木)
青空高く・・「ミサイル」と「ふじの山」

久しぶりに、私の雑感である。
今日は偶然にも「青空高く・・」の映像をふたつ目にした。
1つは、青空高く発射された「北朝鮮の人工衛星」
(事実上の長距離弾道ミサイルらしいのだが・・・)
冬の青空に轟音を響かせて、自分の力を鼓舞するような勢いで、
昇っていた。
もう1つは、いつも見慣れた「ふじの山」であるが、
今日は雲1つない青空に、威風堂々と、高くそびえ立っていた。
この対照的な光景は、単なる偶然だろうか。
さらに偶然は続く。午後から、知人の母親の告別式に参列したが、
彼女が「明治45年生まれの100歳」だと知って驚くとともに、
生前好きだったという歌「ふじの山」を参列者全員で合唱した。
「あたまを雲の 上に出し 四方の山を 見おろして
かみなりさまを 下に聞く 富士は日本一の山
青空高く そびえ立ち からだに雪の 着物着て
霞のすそを 遠く曳く 富士は日本一の山」
歌い慣れているはずのこの曲に、なぜか胸が熱くなった。
告別式を終えて外に出たら、まだ「青空高く」そびえ立っている
「ふじの山」が雪化粧で真っ白だった。
やはり青空には、真っ白な「ふじの山」が似合うよなぁ。



2012年12月12日(水)
「ピン札にして」「はい、新券ですね」

娘の同級生が結婚するというので、御祝儀を準備することとなり、
私が金融機関に出向いて、窓口でこうお願いをした。
「(結婚式の祝儀にするので)ピン札にして」
返ってきた返事は「はい(かしこまりました)、新券ですね」
この違いが面白くて、その場でメモをした。
もちろん、正式の呼び名は「新券」。
しかし、私たちはシワのない、ピンと張ったお札をイメージして
「ピン札」と呼ぶ。「新品のピン」って意味かもしれないが。
さすがに教育されているなぁ、と感心させられたのは
「私が『ピン札』にして」とお願いしたら
「はい『ピン札』ですね」と返事があると思っていたら、
「新券」という単語がサッと出たから。
「ピン札」という単語は、業界用語ではないだろうが、
生活・友達同士では使う単語だと思うので、驚いた。
会話の基本は、オウム返しだけど、間違った単語は使わない、
そんな姿勢が感じられて、嬉しくなった出来事であった。



2012年12月11日(火)
死に方さえわかれば、生き方がわかる

映画「モリー先生との火曜日」(ミック・ジャクソン監督)から。
映画の話をしていると、この作品が話題に上ることがある。
えっ、この人も?と思うくらい多くの人たちが口にする。
モリス・シュワルツ教授の最後の講義というものらしい。
たしかに、大学の講義を受けているように、
私の残されたメモも多かったのは、事実だし面白かった。
その中で私が選んだフレーズは、意外にも
「死に方さえわかれば、生き方がわかる」
自分が年を重ねてきたからだろうか、
今までも何度も耳にした台詞のはずなのになぜか新鮮だった。
それはたぶん、自分自身の死に方として、
病気や老衰で死ぬことしか考えていなかったからだろう。
しかし、最近の事件・事故をふり返ると、
突然の事故や自然災害によって死ぬことも充分考えられる。
だから選択肢の多い「死に方」を意識すればするほど、
今の生き方を大切にしなければならないと再認識した。
「死ぬ覚悟ができていれば、人生は変わる」

P.S.
あっ、この映画の影響かな?と思われるシーンを紹介。
・大学の試合で(バスケット)「僕らがナンバー1」と応援したら、
モリーが立ち上がり言った。「ナンバー2だとダメなのか」
・「詩の朗読」
彼が死んだら、星の代わりになり、天を美しく飾るだろう。
きっと世界は夜を愛するようになる。



2012年12月10日(月)
「話し合う」も体験学習のひとつ

演題「教室を協室・響室に育てる指導」
(講師・教育ジャーナリスト 梶浦真氏)から。
これは、気がつかなかった・・という視点を紹介。
今の子どもたちに大切なのは「体験」、それは理解し、
いろいろな角度から、体験プログラムを計画してきた。
「非日常体験」「防災体験」「キャンプ体験」・・
これでもかっ、というくらいに「体験」を組み込むが、
子供同士で「話し合う」という時間が、今回の先生の講話と
「公開事業」を拝見して、どれほど大切かを知ることになった。
たしかに、子どもが複数でいてもゲームばかりやっていて、
「話し合う」ことができない子どもが増えた。
「東京赤門の大学生も、テストに対応する言葉は持っていても、
人に伝える言葉を持っていない」・・そんな話も参考になる。
大人の研修で「グループ討議」や「ワークショップ」が増えたのも、
それが原因かもしれないなぁ。



2012年12月09日(日)
「ブサイク」は、心の中に育つもの。

映画「ヘルプ 心がつなぐストーリー」(テイト・テイラー監督)から。
アメリカの黒人差別時代を採り上げた映画作品は多くある。
主人公が、男なのか女なのか、スポーツ選手なのか家事手伝いなのか、
そんな違いはあるが、最後は黒人が白人をやっつけるパターンや
お互い手を取り合い1つのものを作り上げるなど、さまざま。
私が今回注目したのは、黒人のHELP(お手伝い)が、
自分の子どものように愛し育てた白人の子どもに、
生き方のアドバイスするシーン。
「自分を憐れむのはおやめなさい、それこそ『ブサイク』ですよ。
『ブサイク』は、心の中に育つもの。
イジワルで人を傷つける男子そっくり」と励ましたり、
仲間外れにされていると悩む少女に
「自分に問いかけるのです。『私は信じるのか?』
『今日、あのバカどもが私に向かって言う悪口を?』と勇気を与える。
家事全般の家政婦としてでなく、一人の大人として助言をする姿は、
貧しさ・人種差別のため、自分の子どもを他人に預け、
白人の子どもを育てる、というだけではない、深い愛情を感じて、
私の心は大きく震えた。
ラストシーン、本来の母親に「あたしの子供、頼みます」と言って
行っちゃいや〜、と泣き叫ぶ子どもにも振り返らず去っていく。
「黒人家政婦のプライド」を教えていただいた映画だった。