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しもさんの「気になる一言」
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2011年11月24日(木)
談志さんに叱られるのが大好きでした。

落語家・立川談志さんの死を惜しむ芸能人が多く、
その存在感・影響力はすごいなぁ、と感心させられた。
スポーツ新聞の見出しは、談志さんが生前語っていた
回文「談志が死んだ」(だんしがしんだ)。(汗)
その多くの方のコメントの中で、
私が選んだのは、歌手・和田アキ子さんの談。
「談志さんの話を聞くのが大好きでした。
私が間違ったことを言うと、すぐに叱ってくれました。
談志さんに叱られるのが大好きでした。
もう一度、叱られたかった・・」
姉御として若手の芸能人を叱り倒しているイメージの彼女が
頼りにしていた人は、談志さんだったのかと納得した。
そしてまた、そんな2人の関係が羨ましいとも・・。
心の師・談志さんを失って、彼女がどう変わっていくのか、
非常に興味をもって、見守っていきたい。
日本人が忘れてはならない、いや取り戻したい師弟関係を
2人に見せてもらった気がする。
立川談志さんのご冥福をお祈りします、合掌。



2011年11月23日(水)
頑張った人生にご褒美を

もうすぐ18歳を迎える愛犬、ダックスフントの「ジェイク」が、
ほぼ老衰に近い状態ながら、必死に生きようとしている。(涙)
食事や水分も、ほとんど喉を通らなくなり、
今や、毎日の点滴で栄養補給している状態が続いている。
そんな状態でも、頑張っている彼に、
飼い主の私が、最近感じているのは「頑張った人生にご褒美を」。
家族全員が仕事や学校に行き、昼間、寂しく留守番をしていた時期、
彼は、どんな気持ちで、私たちを待っていたのだろう。
何度なく、2階の階段から転げ落ちながらも、ケロッしていたこと、
散歩に出かけ、ノミをいっぱいつけてきたこともある。
まぁ、私も彼も若かった頃は、散歩のラスト100mを猛ダッシュ、
勝ったり負けたり、お互い息をゼイゼイしながらも、
自宅の玄関にゴールした思い出が蘇る。
人間で言えば、もう88歳に近いと言われても、
私からみれば、まだ18年しか一緒に過ごしていない。
今日も朝からずっと一緒にいて「頑張った人生にご褒美を」と
考えているけれど、残念なことに未だに思いつかない。
休みの日は、朝から晩まで一緒にいることかな、今、出来るのは。



2011年11月22日(火)
飛距離の差が実力の差に思えてしまう時もある

ゴルフ漫画を読んでいて、ハッとしメモしたフレーズ。
そうなんだよ、ゴルフは距離じゃないんだ・・と
頭ではわかっていても、いざ、その場になると忘れる。
特に、自分より身体が細かったり、年齢が上の人に、
飛距離で負けると、ガッカリしてしまうから面白い。
「飛距離の差が実力の差に思えてしまう時もある」
仕事でも同じことが言える。
段取りよく仕事をし、定時に帰宅できる人をみると、
自分の事務能力の低さを感じてしまうのであるが、
実は、上司が求めているのは、仕事の速さではなく、
正確性であったり、現状の成果+αの提言であったりすることに
気付くと、落ち着いて仕事が出来るのであるが。(汗)
ついつい、目先の距離(仕事の速さ)に憧れるが、
ゴルフはあがってナンボ、仕事も成果が出てナンボ。
わかっているけど、なかなかなぁ。(笑)



2011年11月21日(月)
矜持とは、自分の能力を信じていだく誇り。

書籍「日本人の矜持(九人との対話)」
(藤原正彦著・新潮文庫刊・266頁)から。
「国家の品格」の著者、藤原正彦さんは、
私の好きな数学者であり、なおかつ教育に関する意見は、
賛同することばかりである。
そんな彼と、これまた経験豊富な学識経験者が語り合う対談集、
面白くないわけがない。
さて、内容の紹介前に、タイトルの「矜持」(きょうじ)に惹かれた。
「矜持」とは「自分の能力を信じていだく誇り。」
英単語では「pride」(プライド)らしい。
私としては「プライド」とはちょっと違う気がしているが・・。
「自負」と書かれている辞書もあったが、これも僅かながら違う。
電子辞書で調べた、以下の類語と比べて欲しい。
「自賛」(自分で自分をほめる)
「自尊」(自分を偉いと思い込むこと)
「自得」(満足して得意になる)
「自任」(自分に能力があると思い込む)
「自負」(才能に自信を持ち、誇りに思う)
「自慢」(誇らしげに話したり、見せたりする)
やはり「矜持」という言葉の響きが、断然と輝いている。
「自分の能力を信じ」それを「誇り」として生きていく。
そんな「矜持」を、私は大切にしていきたいと思う。



2011年11月20日(日)
僕は食事に行く。是非、御一緒に

映画「ツーリスト」
(フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク監督)から。
映画の中に、こんな会話がある。
女性から「食事に誘って・・」という、簡単なテストのシーン。
どういう誘い方が、女性にとってベストなのか、
いや、女性扱いが慣れているか、がわかる問答。
「食事をどう?」とストレートに誘うと
「女は質問を嫌うのよ」とピシャリ。
「僕と食事を・・」と言えば「命令調ね」と返し、
「一緒に食事を?」と言い方を変えても
「また質問?」と手厳しい。
最後に「僕は食事に行く。是非、御一緒に」。
そう、その誘い方よ、と言いたげな様子。
ストーリーにはあまり関係ないが、
私たちの日常生活には、非常に役に立つノウハウ。
女性に合わせるつもりで「どこへ行きたい?」
「何を食べたい?」と訊くよりも、
「僕は○○する、是非、御一緒に」という誘い方が
スマートで、女性にも好かれるようだ。
それでも、嫌なら嫌って言うものね、今の女性は。(笑)



2011年11月19日(土)
「Vサイン」と「サインはV」の違い

カメラを向けると、子どもから大人まで、日本人のほとんどが、
「Vサイン」でポーズをとる。
私には、不思議ではならない日本の光景の1つとなっている。
だって「平和」を意味する「ピース」の綴りは「peace」で
単語のどこにも「V」は、存在しない。
本来は「イギリスのチャーチルがドイツに勝つぞ」という意味で
「victory」の「V」を国民に示したとされるのであるが、
いつから「ピース」となったのかわからない。
もちろん、誰が始めたことかわからない。
ネットで調べれば、きっとわかるのだろうが、
私が心配しているのは、本来の意味を知って使うのと、
何も疑問を持たず使うのでは、大きな差があると思うから。
バレーボールのTVドラマは「サインはV」、当然「Victory」の「V」。
しかし、この頃から日本各地に広がったとも言われている。
関連があるのだろうか、ちょっと気になる。



2011年11月18日(金)
人生を味わうにはセンスが要ります

映画「100歳の少年と12通の手紙」
(エリック=エマニュエル・シュミット)から。
12日間を一生にたとえて、1日10年として過ごす、
白血病末期の患者、オスカー少年。
提案したのは、ピンク色大好きなピザ屋さんの女性。
1日目は1歳から10歳、2日目は11歳から20歳・・
「今、何時?」「じゃあ、何歳頃ね・・」という
そんな具合で、彼の余命を一緒に過ごしていく。
「15歳、勇気を出して告白する年頃ね」
「18歳の男の子は、疲れない」
「思春期は苦難の世代ですね、こんな時期は一度で十分」
「30代は厳しい、心配の世代、責任の世代だ」
「40過ぎると、男は魔がさすの」
「結婚生活はステキです。50代に近づき、試練を越えた後は特に」
「60歳を過ぎました、昨晩のツケを払っています、身体がだるい」
「歳をとると旅行が嫌いになります」
「人生を味わうにはセンスが要ります」「老いは不快だ」
そして100歳(10日目)を迎えて
「僕を起こしていいのは、神様だけ」と呟く。
そして、彼に関わった人たちが気付いたこと。
「オスカーと出会ったおかげで、私の心は一生愛に満たされます」
これに尽きる。フランス映画らしい作品だったな。



2011年11月17日(木)
通称・親不孝横丁

先日、いろいろな飲む理由を考えて、飲みに出かけたが、
1次会の焼肉から、2次会へ向かう途中、
やけに狭い路地と、くねくねした道を歩かされた。
両脇には、いっぱい呑み屋のようなお店がズラリ。
「へぇ〜、三島にもこんなところがあるんですね」と言うと
歳の離れた先輩が、自慢げに、そしてちょっと淋しそうに
「ここは、昔、通称・親不孝横丁、と呼ばれていたんだ」と
説明してくれた。
この横丁に入り込んだら、楽しくて、なかなか家には帰らない、
親には、お金をせびる・・そんな意味も含めて、
「親不孝横丁」とみんなが呼んでいたらしい。
きっと、全国にそんな「親不孝横丁」があるんだろうな、と
ひとりで苦笑いしてしまった。
勿論、カラオケもなく、カウンターしかないような呑み屋って、
全国チェーンの居酒屋よりも、その土地の風土が感じられる。
土地にあった「親不孝横丁」、大切にしたい文化かもしれないな。



2011年11月16日(水)
2人とも身勝手すぎるわ

映画「恋するベーカリー」(ナンシー・マイヤーズ監督)から。
メリル・ストリープ主演の「恋愛コメディ」との解説だが、
私の感想は、ちょっと違う。
10年前に離婚した夫婦が、10年後に再会し、
お互い惹かれあい、ラストは結ばれる、という展開であるが、
あまりスッキリとした話には感じられなかった。
それを象徴する台詞は、成人した2人の子どもたちが口にした。
「2人とも身勝手すぎるわ」
一番多感な頃、父親と母親が離婚した事実は、
子どもたちにとって心の傷となって残る。
そんなことも忘れて、また寄りを戻すと言い出した両親に、
言い放った台詞こそ、この映画に対する私の感想に近い。
この台詞を言いたくなった人たちは、彼らの子どもだけでなく、
彼と結婚した若妻、彼女の魅力に引かれた建築士も同じだろう。
心のままに動くのはいいけれど、多くの人たちを巻き込んで、
自分たちだけ、やっぱり元に戻りました・・は、いただけない。
全体を通しての感想も「2人とも身勝手すぎるわ」である。



2011年11月15日(火)
学校へのお礼の気持ちが学費納入

書籍「夫婦口論」(二人で「老い」を生きる知恵)
三浦朱門&曽野綾子著・扶桑社新書(育鵬社刊・229頁)から。
最近、静岡県がクローズアップされている、教員の不祥事。
もう策がない、と悩むのもわからなくないが、
それって個人の病気だから・・で片付けるのも、あまり進歩がない。
解決になるかわからないが、本著のメモにヒントを見つけた。
正式には、もう少し長い。「学校に教育してもらうことに対する、
ささやかなお礼の気持ちが、学費納入」とある。
先生と生徒、さらに保護者との理想的な関係を、表現していると思う。
大切な自分たちの子どもを、一人前の人間として教育してもらうから、
学校に、いや先生方に、ささやかなお礼として、学費納入をする。
これが、本来の「学校」と「家庭」の姿なのかな、と思う。
お礼に価する「教育」は、簡単には出来ないけれど、
先生方の一所懸命な姿がなければ、
セクハラ等の不祥事を起こさないがやる気の見えない教師に、
お礼の気持ちは湧いてこない。
それは、公務員の私たちでも同じことが言える。
「まちづくりへのお礼の気持ちが税金」なのだから、
お礼がいただけるように、頑張らなくちゃな。