道院長の書きたい放題

2009年09月15日(火) 第八回 活人拳講義録/実技 上膊捕り

■上膊捕りは柔法合掌形の代表格?

では寄ってもらいたい。いや八畳間のこの部屋では必要がないか。 ―一同笑い― しかし開祖は五畳半でスタートされたのだから、凄いね! 

上膊捕りは柔法合掌形の一番良い例だ。まあ狭いので身構えないでするよ。後から、皆も片手で(右)上膊を握ってもらうとイイ。 

―右上膊部を捕らせる― 

鉤手をするね。で、目打ちの当身をするね。で、その手を掛け手するね。で、右手を自分の手の甲まで内旋しながら締め上げる。まるで片手合掌しているようだろう。掛けた左手も合掌しているし、見方によっては相手の左手もそうなっている。これから効かす。やってごらん。

―実技動作―

いくつかの注意点がある。一つは内旋して締め上げているつもりなのだろうが、力が下方に作用して相手の掴んだ手が離れてしまう。もう一つは内旋の角度が足りない。135度くらい捻る。これは何と同じ?

「上受けの最終形の捻る角度と同じです」(角度については第七回講義のブログに有り)

――そうだよね! 90度ではまだ足りないかな。それともう一つ。これは難しいが、締める際、右肩を前方回転するように操作する。つまり前腕と肩でサンドイッチにするわけだ。こうする! 

『書きたい放題/縦拳と横拳の話し』に書いてある。腕は伸ばして内旋すると身体の中心に寄ってくるが、しかし腕を90度に曲げて同様にすると身体から離れて行く。なので余談になるが、少林寺拳法の合掌が肘を張るのは、実は90度内旋しているからで、身体と相性が良い動作なのだ。もちろん135度内旋は指先が顔の方に向いて張り過ぎとなる。

後は技のコツのようなものだが、肘を横に回さない。出さないと言った方が分かりやすいかな。この失敗は上膊捕りに意外と多い。合掌形を固定したままで、両肩を意識し体を開く感じで捕る。肘を出してしまうと、これも相手の手が離れてしまう。ただし、上膊抜きの場合は肘を出し、表現としては肘を立て、肩を抜く。

この問題は複雑なので後述したいが、竜王拳は竜華拳の母とは言うものの、あるところまでで分離するね。そう言えば、いつか親は子離れ。子は親離れするものは自然の摂理だ…。最近は逆転構造とも表現している…。


■この技は思い出の技

実は上膊捕りは、学生時代、開祖に掛けて頂いた思い出の技なんだ。昭和48年、全日本学生連盟が主催した新行事、全国学生主将合宿の際、開祖が新本堂下の講義室で法話をして下さり、何かの拍子に「渥美出て来い!」となって掛けて頂いた。

写真では、僕がカッパブックスを片手に持っている。同著にある武勇伝のワンシーンを見せて頂いたわけ。ちょっと記憶が曖昧だけど、開祖の掛け手がとても柔らかかったことは鮮明に覚えている。これは先輩方の何方もが言われるね。僕の場合、アッと思ったらヘタッていた。激痛が走ったという感じはなかったような…。その点、中野先生は楷書に相当する基本技を掛けられている時は、硬質の感じがする。けっして硬いという意味ではないよ…。

―実技継続―

ただ、○○のは掛け手がきちんと小指球に掛かっていないだろう!? 掛け手の形状をしっかり作って、手首も生かして、中指、薬指をしっかり相手の小指球に掛ける。ロッククライミングを見ると分かるが、この指の形状は予想以上に強いようだ。それを柔らかく掛け、柔らかく締め上げる。 そうそう! 親指は掛ける人と重ねる人がいるけど、僕の場合は掛けなさいと指導する。送り小手はそうするでしょう!?

―だんだん技が効き始めて来た―

効かす直前まで一気に、ただし、形が決まったら力を緩めて相手の手首を壊さないように注意して方向を確認する。柔法でも剛法のように、ある種寸止めが必要だね。少林寺拳法ではこの概念が無いようで、修行中、関節を壊す場合があるようだ。もう一度片手で、今度は袖を掴んで行なってごらん。

イイね! 柔法の合掌形は上膊捕りとなって形に出てくることは理解できた?

「ハイ!」 

――関連するけど、掛け手の中指と薬指の形状は何と同じ?

「?」

――熊手返しの形状と同じでしょう!? 個人的には熊手守法と表現したい。合掌形とは、活人拳が関連性を重視することを象徴している、と理解を進めてもらいたい。

「ハイ!」




【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読まれる場合は数日後にお願いします。表現が異なったまま残るのは、私にしてみれば不本意であります。よろしくご推察の程をお願いします。尚、月日、年月が経て訂正を行なった場合、0908○○と断って訂正するのでご了承下さい。

良いものを残したい、伝えたい、と念じております。



2009年09月08日(火) 第七回 活人拳講義録/本題 活人拳!

■活人拳の変遷…

ようやく活人拳論に辿り着いた感があるのだけど、初期の頃は、不殺活人を不殺不害と言っていたのは、『書きたい放題』やブログで述べているので、知っているね。

「ハイ!」

――開祖は初期教範で少林寺拳法の特徴を、不殺活人(拳)ではなく不殺不害と記述されている。活人拳という言葉はあるのだが、○○の活人拳であり、行の概念と共に、言葉がまだ独立を果たしていないようだ。特に興味深いのは「金剛禅の拳は、殺人拳ではなく、活人拳である」の箇所(『復刻版・和27年度初版教範/少林寺拳法の特徴』参照)。

これは柳生宗矩の著した『兵法家伝書』中にある、活人剣/カツニンケンと殺刀/セツニントウに対応させて述べられておられるのだろうか…。まあ単純に殺人とすれば、活人は人を活かすということになる。イコール殺さない拳なら易しいが、活人拳となると、やはり両者の解釈は難しい。教範では柳生の言葉を取り上げていないので、また手にあまることもあり、活人剣と殺人刀について本講義では避ける。興味のある人は『兵法家伝書に学ぶ/加藤純一/日本武道館』を読んだらイイ。

昭和30年版の教範でも不殺不害という表現は変わらないが、「正統少林寺拳法の拳は殺人拳ではなく活人拳」となる。正確には「…邪道に入った殺人拳である。正統少林寺拳法は、あく迄活人拳」。そして少林寺拳法の特徴の項に、南拳北腿と入れ替わって力愛不二が入る(『昭和三十年度版教範/少林寺拳法の特徴』参照)。

「どのような違いと意味があるのですか?」

――当時の空気は分からないが、少林寺拳法開創当時はGHQの存在があり、禁武政策をおもんばかったのか宗教色が強いようだ。ところが世の中が落ちついてきて、宗門の行と押さえつつ、武の本義である矛を止める側の武道との融合を図られたのだろう。それで「正統少林寺拳法はあく迄活人拳」という表現になった。つまりこの表現によると、正統少林寺拳法とは、「宗門の行」と「(真の)武の道」が合体しているのだろう。

私はむしろ、力愛不二の概念が導入されたことが大きいと思う。

初期教範に「力無き正義は無力なり、正義無き力は暴力なり」と載っているとは五回目の講義で述べた(訂正100115:力の伴わざる正義は無力なり、正義の伴わざる力は無力なり)。しかし、力と正義が結びついているところに愛が加わって「力⇔正義 力⇔愛」となって難しくなった。力と正義の関係において、力を制御し、相手を改心させる為に愛が存在するのは分かる。しかし力と愛の関係において、正義はまったく必要がないのではないだろうか。私は、力愛の根源は慈悲心であると考える。たしかにキリスト教の無条件的な神の愛とは異なるようだが、比較論は手に余るので、これも避ける…。

避けてばかりで悪いね。

―一同笑い―

■開祖の集約的な教え/独立未宣言

ただ、力と正義に割って入るなら純粋な愛である方がイイ。背景に物理的な力が存在する二元化した力愛では上手くない。後年この混線が、横須賀事件(昭和52年)となって発露したと見る。そして事件後、先生は力と正義を結びつけた主張を薄められたように感じる。まあ平たく言えば、時代にそぐわないと反省されたわけだ(『少林寺拳法五十年史』参照)。代わって、より行を強調されたのだろう。ご遷化されるまであと三年。昭和47年の日本武道祭から紆余曲折を経て、最晩年期=『少林寺拳法奥義』発刊以降、説かれた「行」は、開祖の集約的な教えと考える…。

「同時に不殺活人から活人拳となる明確な堺ということですか?」

――うーーん! 開祖は活人拳を殊更強調されたわけではないんだ。不殺活人は昭和40年度版教範からこう記述される。ただし昭和38年発刊カッパブックスの中に、不殺活人拳、並びに一拳多生の活人拳、守主攻従の活人拳と出てくるから――後手必勝の活人拳♪の歌詞もかな、しかし、どこかに書いてあったような――開祖の胸中には、活人拳の独立概念が形成されつつあったのだろう。なので、行は独立宣言したけど、活人拳は独立を果たす前に指導者を失ってしまった、というところかな。

「だったら尚更、活人拳の独立は残された我々の仕事となるわけですね」

――嬉しいこと言ってくれるね! 活人拳は行の本分に則り、命に合掌・結手する=不害不戦=平和を愛する護身の拳法であり、卍を胸に秘めて修行に励む。ようするに少林寺拳法だね。

―一同笑い―

次回から、実技の説明と練習をしよう。



■本日のブログより

『流儀と流派 投稿者:今田三六 投稿日:2009年 9月 7日(月)15時05分13秒

ウキ釣りをやらない人から見ると分かりませんが、この釣りにも流儀があります。有名なのは、主にメジナ釣り?の阿波釣法とクロダイ釣りの遠矢釣法があります。

遠矢釣法はコマセでポイントを作り、底を棒ウキで狙うという個人が考案した釣り方です。一方、阿波釣法は徳島で発達した釣り方で、コマセを撒いてそのスジを狙う方法です。竿は右手、コマセは左打ち、小針を使う、円錐ウキを使うなど、かなり特徴のある釣り方です。


竿を右手で持つと、コマセの左打ちと同様リールも左巻きとなり、さらにタモも左手となり、専門家、アマチュアを巻き込んで是非の論争が止みません。ちなみに、遠矢名人は左手に竿を持ちます。面白いでしょう!? 私は竿左手持ち。

釣り場に行って、竿を右手に持っている人を見かけると、オッ阿波釣法の使い手!と見ます。ないし左利きなのでしょう。左手でコマセ、リール操作、タモ入れ動作をするのはかなりな修練を必要とします。


少林寺拳法にもそんな流儀?があるでしょう!? 例えば構え、突き方、受け方に、先生により独特なスタイルがあります。また技そのものに特徴がある場合もあります。活人拳にも特徴があります。主たる違いは意識の違いであり、拳技の違いは極端に表には出にくいでしょうね…。

流儀の違いがさらに大きくなると流派ということになるのでしょうが、一般的な釣り人にとってはどうでもイイことです。要は、魚が釣れればイイんです。』



『活人拳の一例 投稿者:今田三六 投稿日:2009年 9月 8日(火)11時49分39秒

◇活人拳の特徴として、「>主たる違いは意識の違い」と書きました。その一つの例を説明します。

当然、護身の技法ですから受け手を重視します。その際、内旋外旋の三角度(45度、90度、135度)をかなり厳密に指導します。実は攻防一体。例えば、0度は直ぐ突き。45度は三日月順突き。90度は鉤突き。135度は手刀腕刀切り。裏拳は外旋の90度で拳受けになります(逆に言うべきか)。側面打ちなら0度ですね。

開手伸筋系の基本受けは6種であり、それが片手、両手、諸手、段、順逆の形状を現します。切り系2種は外旋、押し系4種は内旋が原則です。しかし、さらに大きな原則に従います。若干例外があります。

開足中段に構えた拳を0度とすると、合掌は何度内旋するか分かりますか? また、活人拳に於ける結手の内側の右拳は握りますが(握らないと指導する場合があります)、何度外旋するか分かりますか? これらは受け手の基本に大きく関わります。

左中段構えから行なう天地拳第一単演の後半(相対でも可)、結果右構えの右手上受けと内受け=同時受けは、内旋外旋の連続動作で、諸手輪抜きに連動します。中野先生がご指導される輪抜きではです。同じく五・六の内受けと払い受けは、外旋内旋の連続動作で、諸手引き抜きに連動します。これは私の解釈です。

面白いでしょ!?

まるで、頭部臀部の卍形と臀部足部の裏卍形がくっついているかの如くです。天地拳は何方が考案されたんでしょうね。いや、もちろん開祖でした。特に第一がとても興味深いです。

このように、技法においては合掌形から捻りを意識し、柔法とのリンクも意識して修練します。体と運歩の伴は省略しますが、最善の相性を取ります。』




【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読まれる場合は数日後にお願いします。表現が異なったまま残るのは、私にしてみれば不本意であります。よろしくご推察の程をお願いします。尚、月日、年月が経て訂正を行なった場合、0908○○と断って訂正するのでご了承下さい。

良いものを残したい、伝えたい、と念じております。



2009年09月03日(木) 第六回 活人拳講義録/卍を考える

■少し躊躇していた…

これまでの講義を踏まえて、やっと卍の説明に辿りついたのだが、実を言うと多少のためらいがあった。それは開祖の説かれた卍の教義と、あるいは見解が異なるやもしれず、どうしたものかと思案していたわけ。しかし、すでにブログに書いたこともあり、もし違っていたら、あの世に行って先生に叱られるだけのことだ、と観念したんだ…。

「褒められるかもしれませんよ!」

―一同笑い―

「卍について、このような新聞記事がありました。――日本経済新聞2009年3月5日号文化欄/名にし負う卍を探求/オヤジがかけた謎か、世界各地に多種多様の形態/植村卍=神戸学院大学教授――です。名前がマンジさんらしいですね。著者によると、ユダヤ人自身も昔は卍を普通に使っていた、とあります(後述)」

――少林寺拳法では承知の通り、2005年1月から胸章が卍からソウエンに変更となった。しかしこの印章は金剛禅の教義中に存在し、また日常の練習で卍の掛け軸を用いる道院もあり、大切なものだ。

ここで言う大切と言う意味は、私は、卍が生命の神秘を表現していると観じるので、命に合掌することが活人拳と主張すると、自然の成り行きで強く卍と結びつくことになる。それと、合掌形と共に技法にも大きな関わりがある(後述)。なので、変更は変更として受け止めるが、拳士は卍を胸に秘めて日々修行じなければならぬだろうね(『教範/ダーマの徳性と、人間の霊性の関係詳説』参照)。


■私の卍観

仏教のシンボルマークである卍は、命という観点から見ると、やはり大切なことを教えていると思える。私の卍観は、縦の線は時間=過去から未来に連なる命の連鎖であり、横の線は空間=生きとし生ける命の繋がりであり、鉤に飛び出ているのは流動よりも永遠と無限の彼方であり、その不可思議な縦横線が一瞬交差した点=現在に、「天上天下唯我独尊」たる我の命がある、と観じる。

「カッパブックスには――力愛不二の思想をあらわすものに、仏教の象徴である卍がある――とありますが…」(『秘伝少林寺拳法/光文社/絶版』)

――表卍と裏卍は、生命誕生の神秘を便宜上、平面に図示したので陰陽二対となったのだろう。例えば、表卍を平面上ではなくて、後ろでも前でもかまわないからイメージで回してごらん。自転車のペダルのように、表卍と裏卍が立体的に順繰りに現れるね。このように、二対は仮の姿で不可思議な宇宙時間と宇宙空間を象徴していると思える。

永遠の生命体と無限の生命体が交差して命が誕生すると云う、宇宙の大時空を表現したのであって、単に表卍と裏卍では平面的に認識しやすいので注意を要する。命は対立して生まれるのではなく、調和協調して生まれるものだ。もちろん開祖はそう教えていらっしゃる。「我等は魂をダーマより受け、身体を父母より受けた事に感謝し、報恩の誠を尽くす!」という心情は、卍の真理を観じた時、おのずと湧き上がってくるものではないかな…。

「力愛不二を平面的に認識するとはどう云うことですか?」

――講義を進めてゆくと、だんだん岩盤にぶつかるような気がするね。

―一同笑い―

――かい摘んで言うと平面的に認識するとは、不二なのに二にすることだ。例えば自分を見詰めると、良いところも悪いところもあるだろう。誘惑に打ち克つ、誘惑に負ける、善を為す、悪事を働く、すべて自分であるわけだ。しかし結論的には、修行者は「悪しきを為さず、善きことを実践する」に向かう。

力愛不二は、実は自己の内なる問題と捉えるが、傾向として外に出して論じているように思える。内にあるから不二なのに、外に出すから力と愛の二つになってしまう。変だね。もっとも、人間は言葉で事象を認識する必要があるので、致し方ない部分がある。哲学的には形而上とか形而下の問題となるのかな。まあこれまでにしよう。力愛不二については改めて論じたい。開祖は心の問題として、我の字で説明されている(『教範/武道とそのあり方について』参照)。

話しが卍に戻って、命は見えないが生き物として見える。心は見えないが、力はウェイト・リフティングや暴力となって、愛は抱擁や子供を甘やかすなどの盲目愛となって見える。卍は――古くは紀元前のインダス文明のモヘンジョダロやトロイの遺跡、黄河文明、現在の中国・天安門広場の故宮博物館など至るところに見つかる(前出新聞記事)――のだそうで、古今東西を問わず、宇宙神秘を表す形状として人類に現れたのだろう。UFO好きだったら、宇宙人が伝えた文字だ!と言うかもしれないね。

「本当にそうかもしれませんね!」

―一同笑い―


■冒頭の新聞記事―結構長いので要点・記事を箇条書きにする―

まとめようと思ったが…長すぎて降参する。ご容赦! 著書の紹介と著者の願いが書いてあるので、最後の一文を紹介しておく。

「…いずれにしても生成変化する自然の現象であり。聖なるもののシンボル化だ。シンボルを扱う能力は人間の人間たるゆえんでもあり、卍はまさに人間性の根幹にかかわるともいえる。だからこそ世界各地、至るところに卍がある。ただエジプトではいくらさがしても卍が見当たらない。これは不思議で仕方がない。

まだまだ分からないことは多いし、もっと調べなければいけないことはたくさんあるが、ひとまず十年間の成果を昨年十月『卍・裏卍(注:フォント無し)の博物誌』(晃洋書房)という本にまとめた。しかし書くことが多すぎて、分量が収まらず、日本だけの話しか盛り込めなかった。今年中には第二部として海外編を刊行したい。これらを踏み台に、若い研究者が卍の謎をより深く探求してくれることを願っている」(うえむら・まんじ=神戸学院大学教授)




【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、書き上げると即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読まれる場合は数日後にお願いします。表現が異なったまま残るのは、私にしてみれば不本意であります。よろしくご推察の程をお願いします。尚、月日、年月が経て訂正を行なった場合、0908○○と断って訂正するのでご了承下さい。

良いものを残したい、伝えたい、と念じております。


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