道院長の書きたい放題

2004年01月27日(火) ■八方目について・1

■年が明けて初の、自らの?書きたい放題です。年末、作山先生の「可能性の種子達/フルモデルチェンジ」、年頭、大橋先生の「拳禅一如の真意/少林寺拳法の修行法に関する私見」、宮田先生の「(中野先生の)拳法資料館・開館」やら、圧倒されていました。…なんて言うことはない、こういうの他人の褌で相撲を取るというのですね…。

で、エネルギーが溜まって来ましたので再開します。今年初の題材は「八方目について」です。実は年明け早々、以下のメールが届きました。要点のみ紹介します。

『…さて年初のお忙しいときに、突然で恐縮ですが以下の件につきまして参考となるご意見や考え、または文献などありましたらご紹介願えませんでしょうか?お尋ねいたします。

「八方目」について。中野先生との研修会その他で本部で開祖から御教授頂いたことなど、渥美先生の体験、経験上の観点よりお聞かせ願えませんでしょうか?急ぎませんのでもしお許しが頂けるのであればお願い致します。(以下省略)』。

この方は、以前にも質問/「2001年11月06日(火) 技法論・中野先生の目打ち!」された、 道院長の先生です。

■さて八方目について、中野先生からの具体的なご指導の記憶は作山先生とも話したのですが、実はあまりないのです。この点は宮田先生におまかせします。それで、開祖の八方目のお話を紹介します。

「…相手の顔の何処に黒子があるとか、そんな細かいところまでいちいち見ないでも良い。鼻は縦に付いていて、口は横に付いていると分かれば良いのだ。全体を見るのだ。普段でも街中を歩いていて、近づいて来る人達が何人で、どんな動きをしているかなど、八方目はいつでもどこでも練習できる。しかし君達はこの練習、ちゃんと新入門にやらせているか? 自分は知っている、出来るからと、基本の指導をおろそかにしてはいないか?こういうことはきちんとやらせなさい。」(要約)

と、実技指導に止まらない基本の重要さを説かれ、その後、相対での八方目の実技指導を行われました。実技は皆さんご承知のように、向かい合って手足を動かし、それを指摘し合うというものでした。

思い出した! しかし、開祖、中野先生のどちらでしょう…? その際、「普通の距離だったら、誰でも簡単に出来る。こうやって近づいて行くと難しくなるのだ」という指導がありました。

■私は、開祖の指導の中に非常に重要な部分が存在していると考えます。“鼻は縦、口は横”、つまり訓練により、相手の“形状”を素早く認識することが大切なのです。

足が体の横に出れば、回し蹴りが予想されます。腕が頭上に縦に伸びれば、手刀打ちが予想されます。下体に三角、ないしUの字状の空間が(必要以上に)開いていれば、金的に隙有りなのです。だから開祖は、武器を隠し持つ有効性を認めているのです。すなわち、相手に攻防用器の形状を悟られないようにするのです。「2003年09月03日(水) 技法と指導法を考える(4)/凶器接触考(を参照) 」。

ボクサーなどが養う“動体視力”とはニュアンスが異なるようです。以下の例はどうでしょう。

■学生連盟時代、副委員長となって共に活動したM大の○浦君は、乱取りの戦士?でした。関東大会の個人乱捕り戦優勝経験を持つ彼は、骨太の立派な体格をしていました。ところが彼は目が近眼なのです。

ある時、「○浦ョー、メガネ外して良く相手が見えるなー?」と質問しましたら、「なーに、どんなに恐ろしい顔をした奴が出て来たって、自分にはボーと映るだけだから関係ないんだョ。そんで、近寄って蹴ったり突いて来たら、そいつを目掛けて突蹴りを出すだけなんだョ」と、東北訛りの朴訥とした答えが返って来ました。

まあ、彼の謙遜だったのでしょう。当時の関東大会で優勝するのは、並大抵の素質と努力無しでは為し得なかったのです。ただ本題材を考えると、彼はナチュラル八方目?が出来ていた、と考えられます。

■余談を許されたい。当時学生連盟に集まった人達は皆、乱捕りの正選手ばかりでした。その我々が中心となって競技乱捕りを廃止したのですから、不思議なものです。

それで、○浦君とはとても気が合って、第12回関東学生大会/昭和49年の大会で、乱捕り戦の代わりに設けた「那羅延系演武/胴付き剛法演武の部」に学生連盟代表として、二人してクリクリの坊主頭で出場しました(連盟代表として他大学の拳士が組んで大会出場したのは、関東学生連盟始まって以来ではないでしょうか。詳しく調べていませんが…)。忙しい連盟活動の合い間をぬって、武道館で練習したり、M大に出稽古に行ったりしたのです。

努力の甲斐あって、演武終了後、私達が「優秀賞」だと審判の先生方から告げられました。しかし…、○浦君と相談して辞退しました…。

もうひとつ不思議なこと。彼とは一度たりと、「乱取りの手合わせをしよう!」とはならなかったことです。むしろ本山に研修生として修行していた時など、彼の方がより少林寺拳法を面白いと喜んでいた節がありました。

もうひとつ余談。彼と共に開祖にお会いしたことがありました。ホテルの一室。なんか拳法の話になったのです。それで帰りし腕に覚えのある彼が、「先生の拳/コブシはでかいなー。軍手をニ枚もしているような拳だ(←そう言ったと思います)」と驚いていました…。

*当時は乱捕りの際、バンテージの代わりによく軍手を付けたのです。そこからかな? つまり軍手を二枚重ねたようだとは、彼なりの強さの喩えだったのでしょう…。

――(続く)

【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読む場合は数日後にお願いします。

表現が異なったまま残るのは、私にしてみれば不本意であります。いずれ、リニューアル?=改訂して行きたいと考えています。★印なんか付けますか…。



2004年01月15日(木) ◆世界銀行支部・大橋堅一先生からの寄稿文

【拳禅一如の真意/少林寺拳法の修行法に関する私見】

■序章

もう三十年以上前の話である。私は大学の拳法部に属する新米拳士であった。「拳禅一如」に惹かれたのである。しかしなんといっても大学生、知能的に物を見ることが本命という自負があった。

少林寺拳法ではどういう意味で拳と禅が一如なのかと考え込んだ。教範を読めば、少林寺拳法は単なる武術やスポーツではない、精神修養も同等に重視し、心身一体の鍛錬をする「宗門の行」と記してある。だから拳禅一如なのだろうか。しかし拳と禅を結びつける必然性は何処にあるのだろう。

何度も本部合宿に参加して開祖ご本人の法話を聞くたびに、少林寺拳法の拳と禅は開祖においては確かに繋がっていると確信した。しかし開祖以外に、拳と禅を有機的に結びつけている物が見えなかった。もし開祖個人の経験と哲学がその接点であり、少林寺拳法が拳禅一如である原点であるとしたら、開祖を抜きに拳禅一如が成り立つのだろうかと気になった。

この一問に満足な答えを出せないまま大学を卒業。その直後、私はアメリカの大学院に留学する機会を得た。留学先のコーネル大学で少林寺拳法の支部を創り、アメリカ人拳士と共に少林寺拳法の修行を続けた。その数年後開祖が他界された。

「ポスト開祖」の1980年の五月、コーネル支部の年次合宿で鎮魂をしている間に、私はハッと気がついた。開祖の法話を聞いた事も開祖を目にした事もないアメリカ人の拳士達が、明らかに少林寺拳法の本質を掴んでいるのである。力愛不二の哲学を体得している。少林寺拳法には開祖を超えたレベルで拳禅一如たる何かが内在しているに違いない。

それは一体何なのだろう…。

■少林寺拳法の特徴

少林寺の拳士は誰しも少林寺拳法の六つの特徴を記憶しているはずだ。一級試験の学科に出てくる。拳禅一如、力愛不二、守主攻従、不殺活人、剛柔一体、組手主体である。教範はこの順に六つの特徴を説く。

「拳禅一如」は少林寺拳法の本質をズバッと言い切った極めつけの一言であろう。その哲学が第二の「力愛不二」に表されている。第三と第四の「守主攻従」と「不殺活人」はひとつ次元が落ちて、武道としての少林寺拳法の考え方の表現と言えよう。第五と第六の「剛柔一体」、「組手主体」になると少林寺拳法の技術と練習法の解説となる。

「拳禅一如」に比べるとずいぶんと次元の低い話で同等に扱うのはやや釣り合いを欠くという感じさえする。あるいは、六つの特徴は二つずつ、少林寺拳法の哲学、武道、技術の三つの次元で整理されているのであろうか。しかし長い間考えているうちに、一見見栄えのしない「剛柔一体」と「組手主体」に拳禅一如の鍵が隠されているような気がしてきた。

■少林寺拳法の技術体系・練習法とその影響

少林寺拳法のもうひとつの特徴は、競技としての乱捕りを排除した事にある。

この「競技性排除」と「剛柔一体」・「組手主体」を合わせると、武道としての少林寺拳法の修行法が見えてくる。この三つの特徴は拳士にどういう影響を及ぼすのだろう。

“競技性排除”の影響は、逆に競技性の強い武道のあり方を見ると良く判る。例えば柔道では得意技がいくつかあれば試合で結構勝てる。(むしろ、勝つ為には数少ない得意技に専念する必要さえあるのかもしれない。) 勝てば当然柔道選手としての評価が上がる。苦手な技を練習するよりは得意技に専念する傾向が出てくる。従って柔道の多様な技をむらなく習得した人よりは、数少ない得意技を磨いた人のほうが柔道界では「上」になる。

競技としての柔道のルールが逆に柔道のあり方だけでなく、柔道を学ぶ人間の関係・評価基準までを規定してしまうのである。逆に競技としての乱捕りを排除した少林寺拳法では、競技性の押し付ける歪んだ評価基準の影響を受けない。誰にも止められないような回蹴りが出来れば、競技性の乱捕りのある世界では評価されるかもしれないが、少林寺拳法の世界ではそれだけでは評価されない。多様な技を修得しなければ優れた拳士とは見られない。

■剛柔一体

ここに剛柔一体が絡んでくる。剛柔の技の多様性、剛に柔が含まれ、柔に剛が含まれる少林寺拳法の技の難度は、二つの重要な意味を持つ。

第一に、どんなに運動神経のいい人でも、そう簡単に幅の広い技の習得は出来ない。誰しも自然に謙虚にならざるを得ない。

第二に、一見運動神経の悪い人でも、多様な剛法、柔法、圧法の中に何か得意な技を見い出すものである。それが自信の基盤となり、苦手な技も練習する励みとなる。禅の本質が自分と他人に内在する可能性を認識し、それを十二分に引き出す事にあるとすれば、この辺に拳禅一如の接点がひとつ見えてくる。

剛柔一体の故、少林寺拳法において指導者になる為には広範な技を習得していなければならない。どうしても長年の修練が必要となる。しかし、誰も全部の技について指導を受ける拳士より長けていなければならないというわけでもない。全体的に少林寺拳法の技の理解度・習得度が高くなり、少林寺拳法の精神がある程度身についてくれば、(熱意があれば)誰でも指導者となれる。

従って指導者の評価は努力度の高さによる所が大きい。競技大会で数度いい成績を上げたから急に指導者になれるわけではない。指導者と被指導者の関係も絶対的上下関係ではなく、技術的には一部逆になる事も多い。従って、教える者が教えられる者からも学ぶという事も頻繁であり、相互尊敬の関係が生まれやすい。この辺にも他人の中によいものを見出し、それを尊重する禅の本質との繋がりが見えてくる。

■組み手主体

組手主体の練習法は少林寺拳法では当然のことであり、我々拳士は不思議とも思わない。しかし、この練習法には深い知恵が内在しているのではないだろうか。

まず、自分がより良い技を習得しようと思えは、相手にもしっかりと技を習得してもらわないと練習にならない。これは基本的な剛法の技を考えれば明らかであろう。いい加減な回蹴に対していくら十字受の練習をしても技は上達しない。従って練習相手にいい蹴の仕方を教えるインセンティブがある。

危険な柔法の技になれば、相手にいい技を習得してもらう事は、自分の安全にも繋がってくる。力任せの外巻落しか知らない拳士の練習相手など危なっかしくて迷惑である。

競技性の高い武道では必死に体得した技のコツは競争相手に教えたりしないだろう。しかし、少林寺拳法の練習では技のコツを秘密にするどころか、一生懸命に他の拳士に教えている姿をよく見かける。競技性を排し多様な技の習得を要する少林寺拳法ではインセンティブが違うのであろう。半ばは他人のことを考える金剛禅の精神が自然と身につくのだ。

組手主体にはさらに深い意味があると思う。

少林寺拳法を長く練習した拳士なら誰しも、いい演武相手に出会った経験があるだろう。たとえば剛法の時、攻者であれは、相手の守備に信頼を持てるので、本気で虚を衝く攻撃をかける練習を出来る。守者になれば、正確だが本気の攻撃が何時来るか油断が出来ない緊張感を感じる。同じく柔法の時なら、上受投のような危険を伴う技でも相手がきれいな技をかけてくれるという信頼を持って思い切った攻撃をかけられる。

こういう関係こそ、少林寺拳法の練習の醍醐味であろう。そして、そこには、お互いを尊敬し大切にする人間関係が自然とはぐくまれる筈だ。「力愛不二」にも通ずる。逆に、そういう関係があるからこそ自信を持って思い切った技の掛け合いが出来るようになるのだろう。拳禅一如の接点がここにもありそうだ。

■結論・拳禅一如

「競技性排除」、「剛柔一体」、「組手主体」を基礎にした少林寺拳法を忠実に修練すると自然と、謙虚でありながら自分の可能性を大切にし、それを最大限に伸ばす自己努力をする個人。そういう拳士同士の「力愛不二」を体現する人間関係が出来てくるのだと思う。

少林寺拳法の原則にのっとった練習さえきちんとしていれば、無意識に金剛禅の精神が身につくのである。この技術体系と練習法そのものに内在した力こそ、少林寺拳法が拳禅一如だと標榜できる根拠なのではないだろうか。

今、私は、開祖が拳と禅の基本的な接点だったという考え方はしない。少林寺拳法は開祖を超えて、拳禅一如足りうる基盤があると確信したからである。

自分を超えて存続できる少林寺拳法を我々に残してくれたところに開祖の本当の偉大さがあったのだろう。逆に、「競技性排除」・「剛柔一体」・「組手主体」の三原則は拳禅一如の本質に直結した重要性を持っているといる事でもある。この三原則を安易に曲げる事は、少林寺拳法の基盤を揺るがす事につながる重大なミスであろう。

2004年1月4日

大橋 堅一

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◇年が明けた5日、仕事場でHPを開くと、現在、カトマンズに長期出張中の大橋先生より、上の寄稿文が以下のメールと共に届いていました。

「…(12月、ヴァカンス中)海に潜って魚を見ているうちに、前から一度文章にまとめろと言い付かって懸案になっていた少林寺拳法の修行法と拳禅一如の関係についての私論のことを思い出しました(渥美注:言い付けたりなんかしていませんョ)。

週末に草稿を書いてみました。なにしろ日本語で物を書く事に慣れていないので、読みつらい文章になったのではないかと心配です。しかし内容が少しでも役に立つようであれば、日本語で書くのに慣れている渥美君に推敲していただけると、もう少しは読みやすくなるかもしれません。その辺の判断はお任せします。」…。

◇なんたって…、大橋先生の文章を推敲?するとは恐れ多い??ので、緊張しました…。

たまたま、月刊武道連載中の「可能性の種子達/茨城高萩道院長・作山吉永著」の12月号ではコーネル合宿が紹介されていて、そこに作山先生、大橋先生、私のスリー・ショットが載りました。

私達は気の合う拳友です。なにより、少林寺拳法に対する考え方/理解が一致しているのが嬉しいのです。同志相集い来たりて、開祖がお示しになられた道を共に歩む喜びを感じています。


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あつみ [MAIL]