道院長の書きたい放題

2003年12月01日(月) ◆可能性の種子達/26回 「フルモデルチェンジ」から

 月刊武道に連載されました、可能性の種子達も、そろそろ終盤を迎えようとしています。

今回は作山先生が中野先生から受けた特訓の様子が語られており、大変興味深い内容となっています。また、技術史的にも貴重な記述が含まれていると考え、皆さんに紹介します。

本稿については改めて感想を述べたいと思います。


『…2.国際親善大会

 一九八五年十一月、日本武道館で少林寺拳法国際親善大会が開催されることになった。『国際』と銘打った初めての大会とあって、実行委員会の編成も大がかりであった。関東地区各都県連盟の共同主管であり、実行委員長は、当時、東京都少林寺拳法連盟理事長であった板橋菩提樹道院の鈴木秀孝先生。ほか関東各県連盟の理事長が副実行委員長に就任した。親友の横浜根岸道院長、渥美紳一先生も、神奈川県少林寺拳法連盟の理事長であったため、副実行委員長の要職に就いた。

 その実行委員会から、私に模範演武をするようにとの要請があった。一つの条件が付いていた。三ヶ月に亘って中野益臣先生の特別指導を受けること、であった。これは実行委員会の方針だった。海外の拳士が多数参加するのを受けて、少林寺拳法の神髄を披露したいというのが、実行委員会のねらいだった。それで中野先生に模範演武の指導と監修をお願いしたのであった。大勢の候補者が上がったようだが、最終的に私に打診があった。先生もご了承とのことだった。そうであれば、私に否応はない。まして、中野先生のご指導を頂けるのなら尚更のことである。相手に誰を選ぶかが問題であったが、これは私に任された。いろいろ考えたが、中野先生のご指導を受けられるのなら、将来を担う若い世代にそのチャンスを与えたいと思った。

 私の門下生に広島靖則君がいた。彼は高校生の時に私の道院に通い、卒業後、本山にある武專本校(現在は禅林学園)に入学した。武專在学中に、全国大会四段以上の部に出場し、最優秀賞に輝いた新進気鋭の拳士であった。かねがね将来の少林寺を担う人材に育って欲しいと思っていたので、今回のことは良い機会であった。武專卒業後、彼は東京に住んでいたが、それでは稽古をすることが難しい。「道場に住んで、一緒にやらないか」と呼びかけると、喜んで了承した。その前年、私は、地元のバス会社社員寮を譲り受けて改築し、住居部分を備えた五十五畳の修練道場を建立していた。道場に二人で泊まり込み、共に中野先生の指導を受けることになったのである。

3.中野先生の公案

 稽古は、埼玉県の安行道院で始まった。今は故人となった土屋貞雄道院長は私と同年代で、中野先生の片腕として活躍していた。彼は親身になって私たちの世話を焼いてくれた。先生の指導を受けるのは四人。剛法演武を行う河西豊三鷹中央道院長と木村敏彦東京本郷支部長、柔法演武を行う私と広島君であった。それに実行委員長の鈴木秀孝先生が参加した。

 中野先生の指導は、足から始まった。少林寺では運歩法という。それも、大きく前に一歩踏み込むだけの練習である。それだけで道場を何度も往復した。次に、蹴り跳びをやった。蹴り跳びは、片足立ちになって、挙げた前足で蹴りながら、ケンケンをするように前進していくのである。時には、先生が胴をつけて、「蹴ってこい」と言う。胴を蹴りながらの蹴り跳びはきつい。力なく蹴ると跳ね返されてひっくり返る。後ろの軸足でぐっと床を蹴って前に跳び、その力を使って蹴ることが要求される。大きく前に踏み込む稽古と蹴り跳びに共通するのは、後ろ足でしっかりと床を蹴ることである。先生は、この二つの練習で後ろ足の使い方を教えようとしたのだ。

 コツを言葉で説明するのではなく、練習を通して身体に直接植え付けさせる。そのための方法は示すが、解説はほとんどしない。先生の指導は、そういうものだった。足腰に前進の力がついてくると、次には、振り突きの練習であった。振り突きとは、腕を伸ばして後ろから前へ大きく振り回して打ち突く攻撃法である。一歩ずつ前進をしながら、身体が一回転するほど強く大きく振る。これを何度も繰り返す。とにかく回数が多い。数多くやっているうちに、途中ではっと気づくことがある。身体がコツを会得するのだ。すると先生にもそのことが分かって、次の練習を指示する。今度はサンドバッグを振り突きで叩く。バッグが大きく揺れるまで叩く。まだ弱い、まだだ、と言われるので、無我夢中で叩く。そのうちに、自分でも、感触の良い当たりだ、と思える打撃が出るようになってくる。するとこの稽古の意味が、自ずと分かってくる。振突という技を題材に、実は、腰の捻りを体得させるものであったのだ

 私は、先生のご指導は『公案』だと思っている。公案とは、禅修行で師が弟子に対して与える問題のことである。理屈で解ける問題ではなく、心の境地がそのレベルに至って初めて答えることができるものである。中野先生のご指導もまた同様であった。すぐには理解できない。自分の技がある水準に達して、初めてその真の意味が理解できるようになるのだ。

 中野先生はまず、自ら技を行って見せる。目標はどこかをはっきりと示すのだ。そのとき、先生は非常に特徴的な姿勢をとることが多い。それぞれの技に必要な身体の使い方を姿勢に現わしているのだ。それこそが先生が与えてくれる手がかりである。技はただ相手を制することだけでなく、そこに至る過程が大切なのである。その過程は、身体最善活用のための工夫、すなわち、基本諸法といわれる体捌きや足捌きの連係である。拳技は、武術としての実用性と同時に、精妙な身体の使い方を体得することそれ自体に、もう一つの目的があると言えるだろう。身体の使い方の中には、人間そのものを体験的、感覚的に理解するための多くのヒントが潜んでいるからだ。身体は、単なる脳の道具ではなく、精神活動と不可分につながっている。身体を使うのに精妙であればあるほど、精神を活性化し、純化させることになる。技芸の理想が『身心一如』と言われる由縁である。少林寺拳法に限らず、多くの身体活動が精神修養になり得るというのは、心構えのことだけを言うのではない。技を行う中に、すでに人間の潜在能力を引き出す仕組みが内在しているからだ。ただし、そのことに無自覚であってはどうにもならない。師たる者は、学ぶ者に自覚を促す工夫をしなければなるまい。

 中野先生の技の指導のねらいは、その辺にあるように思う。先生は、身体の使い方、技の要領は教えるが、なぜそうなのかは言わない。なぜかは分からなくとも、要領を教わり、先生の形をまねれば、技はそれなりにできるようには、なる。しかし、それではまだ技を『理解』したことにはならない。『なぜそうなのか』が分かることが、技を理解するということである。『なぜそうなのか』の答えが、法則である。つまり技を理解するということは、その技の法則を把握することである。一旦、法則を把握すれば、同種の他の技にもその法則を適用できる。そればかりか、身体の法則は、人間としての法則でもある。自分の生き方にも敷衍し、当てはめることができるのである。

 その最も大切なところを先生は敢えて言わない。学習者の体験に委ねるのである。自らの体験によらなければ、真の理解には至らないからだ。その代わり、技を見せ、ヒントを与える。学習者はそのヒントを手がかりに試行錯誤を繰り返す。そうこうしているうちに、「ああ、そうか!」と気づくことがある。自ら法則を発見する時だ。その瞬間に、それまでの先生の言葉や動作の意味が、はっきりと分かるようになる。その喜びは大きい。弟子に『自得』させることが、先生の指導である。そのような先生のご指導を、私は、『中野先生の公案』と呼ぶ。公案に答えを出すのに三年でできることもあれば、二十年かかることもある。それどころか、それが公案だと分るのに数年を要したこともあるほどだ。

4.フルモデルチェンジ

 中野先生のご指導を受けて、私は、自分の基本技の根本的な改造を余儀なくされた。それまで磨いてきた基本技が先生の眼には適わなかったのだ。先生の、芸術とも言える技を行うには、それを支えるに足る基本技でなければならない。先生は私に、先生の基本技を厳密なまでに教えてくださった。それは、拳技を本気で伝えようとして下さったからに他ならない。私は必死になって肩、腰の動き、足の運び、膝の使い方、等々に取り組んだ。まず、身体の部分部分が統合され、一体となって動くようになるのが目標であった。しかし、基本を変えるということは容易なことではない。長い時間をかけて身につけた自分の基本技である。気を緩めるとついそれが出てしまう。一本の突き、一歩の歩みに気を配り、先生の指導に沿うべく努力した。

 先生が要求する動きは、限界までのひねり、伸ばし、移動、であった。『フルモデルチェンジ』と言ってもよいほどの大幅な変更には、身体が悲鳴を上げた。強く硬かったはずの足指の皮が破れた。稽古途中で息が上がり、身体が自由に動かない。広島君は、と見ると、変わらず元気に動いている。この時初めて、自分の年齢を意識した。スタミナが落ちていることを自覚した私は、家に帰って、ランニングを開始した。普通の道だと平気だったが、街の高台にある高校の上り坂を上がろうとしたら、苦しくて最後まで行けない。一、二度止まりながら、やっと正門まで駆け上がった。これを止まらずに上がれるようになるまでやろうと決めた。走りながら、アメリカ映画の『ロッキー』を思い出した。

 体力の落ちたロッキーに、チャンピオンとの試合のチャンスが訪れ、ランニングを開始する。始めは息を切らしていたロッキーが、ついには街を疾走する。何度もそのシーンを思い浮かべて走った。頭の中で聞こえる『ロッキーのテーマ』が、自分への応援歌であった。そしてとうとう私にもその日がやってきた。一ヶ月ほど走り込むと、鉛のように重かった脚が軽くなり、息も苦しくなくなった。そして、両手に一キロずつのダンベルを持って走ることができるまでになった。体重は三キロほど落ち、動きに切れがでてきた。ただ、八年前にサンフランシスコの坂を駆け上がったような、身体に羽根の生えたような感覚を味わうことはついにできなかった。体力の衰えが忍び足でやって来ていることを自覚した。

 その間、安行や埼玉武專、時には三鷹にまで足を伸ばし、何度も先生の指導を受けた。少年部の稽古が終わって、車で夕刻七時頃に出発し、九時頃到着、休む間もなく稽古を初め、十二時、時には午前一時頃までやった。道院に帰るのは、午前三時頃だった。先生には、高萩の私の道場にも来ていただき、三日間の合宿稽古を二回やった。最初の合宿の時は本当に疲れた。マンツーマンで先生に教わっているので、気がまったく抜けない。三日目の朝には身体が動かず、稽古時間になっても、誰も二階の道場に上がる者がいない。すると道場から、ドスン、ドスンというサンドバッグを叩く音が聞こえてきた。中野先生である。上がって来いと呼びかけているのだ。背筋に電流が走り、階段を駆け上がった。いざ稽古になれば、身体は動く。疲れた、限界だ、などと思うのは、弱気からくるまぼろしだと知った。

 この頃には、意識して行うと、先生の基本の形に何とか似たものにはなった。しかし、それが身体化するには、さらに三年ほどの修練を要したのだった。演武として行う技を構成し始めたのは大会の一ヶ月前ぐらいになってからだった。技をやればやるほど基本の体捌きと足捌きの重要さが分かってきた。しかし、基本技こそが技の深奥であることを本当に理解したのは、さらに後になってからであった。

 大会当日、私たちは、五分間に亘る柔法模範演武を行った。一挙手、一投足のたびに心気力の充実を感じた。最後の技、『半月返し』を行った直後、自分の身体の中から突然、強い気力が湧き上がってきた。気合いをかけたい衝動に駆られたが、調息によってこれを抑えた。すると今度はその気力が身体中に波紋が広がるように行き渡り、それまで味わったことのない不思議な充実感を覚えた。これが私にとって、初めての『気』の自覚であった。

 演武を終えて外の通路に出ると、中野先生ご夫妻にお会いした。開口一番、奥様はこう言った。「作山君、うちの先生の若い時にそっくりだったわよ」。それは私にとって本当に嬉しい言葉であった。思わず絶句していると、先生が続けた。「当たり前だ。わしが教えたんだから」。

 お二人の言葉は、私の一生の宝になった。』


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あつみ [MAIL]