道院長の書きたい放題

2003年05月31日(土) コーネル・キャンプについて(1)

■この度、5月24日(土)から26日(月)の間、NY州Ithaka/イサカで開催されたコーネルキャンプに招かれて行って来ました。1985年、作山吉永先生と共に初参加以来、今年で8回目となります。今回は25周年という節目の年なので記録の意味を含め、また、道中記やら感想やらも書きたいと思います…。

コーネルキャンプは東大少林寺拳法部OBの(現)世界銀行支部長・大橋堅一先生がコーネル大学拳法部支部長であった時分に始まったものです。

氏やその門下生諸氏(アメリカ人でもこの表現が適当でしょう)の努力により、今日の伝統ある行事に成長しました。彼等は親しみと尊敬を込めて、氏のことを「Ken!」と呼びます。ですから私も、本稿では時々「Ken・大橋」と言う呼び名を採用することにします。同じく、親しみと尊敬を込めて…。

■【大橋先生について】

私と大橋先生は関東学生連盟の活動を通じて知り会い、今日まで友情が続いています。

開祖は、将来のリーダーとして活躍するであろう大学拳士が参加する学生合宿に臨み、特に力を入れて法話をする週が何度かありました。ひとつは、二、二六事件の日と合宿が重なる週。昭和史の証人を自認する開祖の熱のこもったご法話が行われました。

次は、防衛大学少林寺拳法部が参加する週。「ワシがもし革命を起こしたら、君達は戦車と飛行機を持って来てくれ!」と、半分冗談めかしに仰られていました。本気だったのかな…?

■そして、最後が東大少林寺拳法部が参加する週。…こんな事がありました。なにかのご法話で、「第一次世界大戦が起こった理由、分かる者はおるか?」と開祖が合宿生達に向かって尋ねられたのです。誰も答えないで沈黙していると、「どうした…東大生、分からんのか?」すかさず煽られました。

息を呑んで見守っていると決然と手を挙げた人がいました。「おゥ!」。開祖が低く唸って指名すると、「ポーランドの再分割です!」。澄んだ声が響き渡りました。一瞬のどよめき…。答えた人こそ、学生時代の大橋先生でした。

Ken・大橋にまつわる思い出は多々ありますが、このシーンは特に印象深いものです。

■後は…私が本山に居た頃、詳しくは覚えていませんが、(留学から一端帰国していたのかな…)大橋先生が合宿か講習会に来ていて、それを目ざとく見つけられた開祖が、「これに四段を取らせなさい」と鈴木義孝先生(現代表)に向かって命じられました。すなわち、即日昇段という意味なのです。

それでも一応実技試験があって、私が半日練習相手と試験の相手をしました。夜、奥村正千代先生が試験官になって、第三講堂の机を下げた場所で三人だけの特昇でした。懐かしい思い出です…。

■その後、1981年8月、国際部委員として初の海外巡回指導を山崎博通先生と共に行った際、アメリカ中西部のデラウエアの講習会で大橋先生と再開しました。

この時、私は初めてのアメリカであったので、感慨はひとしおでした。彼はすでにコーネル大学支部を設立していて、部員達共々の参加でした…。

コーネルキャンプに招かれる前年だったですか…。一度、ホテルオークラまで出向き、出張稽古?を行ったことがあります。何時間もやりました。練習の後も拳法のことについて語り合いました。その内容は、「何故、少林寺拳法は“行”足りえるのか」ということでした…。

■Ken・大橋は学生時代、クラブの主将を務め、演武と乱捕りの両方をこなす文武両道の人でした。そして開祖の波長としっかり合っている人でした。その伝えた拳技はまさしく人間完成の行法としての拳であり、彼の弟子には優秀で真摯な拳士が輩出しています。

友人としてKen・大橋を語る時、私はなにより彼の人格に見とれてしまいます。友人ながら尊敬しています。コーネルキャンプを語ること=大橋堅一を語ることなのです。

今回は残念ながら、任地ネパールからの参加はありませんでしたが、彼の弟子達により、合宿はつつがなく運営されていました。

(続く)



2003年05月16日(金) ◆師匠考!☆

■中国では「師匠」のことを「「老師」とか「師父」と呼びます。面白いですね、コレ!

どちらの言葉も師と弟子という関係でしょうが、微妙にニュアンスが異なる感じを受けます。少なくとも、先生と生徒の関係ではないようです…。

弟子が、師匠のことを先生と呼ぶことはあります。しかし、師匠は弟子を生徒とは呼ばない=認識しないようです。生徒と認識するのは…(ややこしいですが)先生としての場合のようです。

私たち山門衆は開祖を先生、ないし管長先生と呼びました。しかし、開祖は私たちに対して「君達は内弟子である」と言われました。また、盟杯を受けた新道院長に対しては「君達は直弟子である」とも言われました。

つまり開祖は、拳士を生徒とは見ていなかったのです…。

■先日火曜日で終了しました『剣客商売/池波正太郎原作、藤田まこと主演』。その一週前の放送内容、人の道を踏み外した愛弟子と、それに苦悩する師匠のストーリーでした。

最後の場面で対決する師弟。交差する剣。ドウと倒れた弟子に歩み寄り、「師匠に切られて本望であろう…」と引導を渡します。

「…先生」の一言を発して事切れる元弟子。しかし長い間、悪の境遇に浸かっていても、師匠だけは父のように慕っていたことを後日に知り、深く瞑目する秋山小平。

(ワシは師でありながら、弟子の心の中を何一つ分かっていなかった…。今だったら、彼の心の中を知り、救えたであろうに…)、苦い慙愧の念が起こります…。

■武道の世界、あるいは社会一般では、武道の先生を「師範」と呼称します。歴史的な呼称の推移は分かりません。開祖も草創期はそう呼ばれていたようです。

昭和三十年代、旧道場の頃までは師範だったのでしょう。初期の学生拳法の先輩方はそう呼んでいたようです。私が入門した昭和四十三年頃は、すでに「管長先生」でした…。

さて、師(師匠と師では、私の中ではまたニュアンスが違います…)にも色々なタイプがあるようです。開祖は、やはり厳しい師でした。その後に優しいが来ますか…。

何月号か前の会報で、「…もし開祖が生きていたら、茶目っ気のあるおじいさんになったと思う」というようなことを、総裁・宗由貴さんが書かれていました。これは当然ですが、お父さんとしての開祖なのでしょう。

ちなみに、中野益臣先生も開祖のことを「親父!」と表現されます。

■人間国宝であった落語家・柳家小さん氏が亡くなった時、誰でしたか高弟の一人が、「…どんな世界だって、優しい師匠なんかいやしません。師匠は厳しいもんなんです…!」と泣きじゃくりながらインタビューに答えていました。

師匠の基本は厳しさにある…?

柳家小さん氏に関しては、立川談志氏との関係も面白いです。破門にしながらも、どこかで通じている/認めているフシが見受けられたからです。

将棋の世界の師弟関係はどうでしょう。大山康晴、升田幸三両名人を育てた木見金次郎八段(三人共に故人)は、内弟子に将棋を教えることはなかったそうです。

大山名人談。「…私が内弟子でいる頃、通いのお弟子さんが羨ましくて仕方がありませんでした。私たちは全然将棋を教えて頂けませんのに、通いのお弟子さんには先生が優しく教えていたからです」(要旨)。

先だって放映された『ウルルン滞在記/楊州チャーハン道』。ゲストとして特別扱いされる日本人男優に向かって、「いいなー、お前は…。俺なんか八年もいるのに、未だに先生から直接教えてもらったことは無いんだよ…!」と嘆く中国人のコックさんがいましたね…。

■私たちも山門衆として本山にいる時、開祖から特別に少林寺拳法の技がどうのこうのと教えて頂いたことはありません。学生時代には直接教えて頂きました…。

しかし、逆のケースもあるようです。また将棋の世界の話。森下卓八段の師匠であった(故)花村元司九段 は気さくに弟子と平手で将棋を指し、「師匠には千局くらい平手で指してもらっています」と森下八段は述懐しています。

禅の世界でも、確か…道元(空海だったかな…)も中国の老師に、「お前は尋ねたいことがあったら、いつでも私の部屋に来て質問しても良いョ!」と言われています。その人柄、実力が余程に凄かったのでしょうが、これも気さくな師匠ですね。

師匠のタイプが違ったら、こうは行かなかったでしょう。人の出会いの妙と言えます…

どうも、師匠にもそれぞれ指導(というか存在?)のスタイルが主張されるようです。しかしその根本は、厳しいとか、優しいとか、技芸の上手下手とかを越え、弟子が正しく成長するよう導く為に存在する人が、「人の師」ということになるようです。

釈尊は弟子が師に対する心構えを説かれ、驚くべきことに師の弟子に対する心構えも説いています。

そこには弟子、生徒に対する慈愛の精神が求められ、同時に正しく育てるべく厳しい精神が求められていると感じられます。

あえて…少林寺拳法の言葉で言い換えません。


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☆050504訂正:森下卓名人→森下卓八段


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あつみ [MAIL]