道院長の書きたい放題

2003年04月22日(火) ◇アレクサンドロス大王と誰かサン

■NHKテレビ、「第1集 アレクサンドロス大王 ペルシャ帝国への挑戦」<4月20日(日)21:00〜22:55>を見ました。古代の歴史にロマンを馳せながら休日の夜を過ごす。なかなか優雅?な時間でした。

シリーズの始まりはアレクサンドロスとペルシャ帝国の興亡戦からスタート。今後が楽しみです。番組に、アレクサンドロスの軍事力を30年間研究している方が出演されていましたが、紹介された彼の戦法が興味深かったです。

当時としては最新兵器であった長槍。専従の軍人。それにより(農業の)繁忙期にとらわれず、戦時体制を常時維持できた、等など。

■(あれ? 誰かサンと良く似ているな!)

番組を見ていて、そう思った方は多いと思います。そうです。誰かサンは織田信長です。信長は四間槍という長槍を戦闘に用い、後にその発想が鉄砲に行き着きました。また、織田軍団は専従の戦闘集団で組織された為、兵員の確保がスムースでした。

さらに信長は南蛮好みで、鎧や出で立ちも日本式にこだわる事がなかったようですが、アレクサンドロスもペルシャ風の衣装を好んで着たそうです。ただしこれは、征服民族との融和政策を図る為でもあったのでしょう。

■ところで信長の師(匠格?)は誰でしょう。舅・斉藤道三とか松永久秀とかの影響を受けていると言われますが、オドロオドロしい人達です。

師匠はともかく、秀吉や家康には優秀なブレーンがいました。秀吉の軍師としては竹中半兵衛、黒田如水が有名です。しかし信長の軍師というのはブレーン共々聞きません。

一騎駆けという習性が生涯抜けなかったのでしょう…。

■アレクサンドロスは異民族を征服しながら自身が変わってゆきました。異民族や異教徒、すなわち敵=異文明との共存という考えに辿り着きました。武力統一を愛撫統一としていったのです。

冒頭、生涯を戦場の最前線に生きた彼と信長の共通点について述べましたが、どうもここが決定的に違うようです。

私には、アレクサンドロスの家庭教師がアリストテレスという優れた先生であったことが大きく影響している、と思えてなりませんでした…。



2003年04月09日(水) ◆可能性の種子達/18回「嵩山少林寺」から

■一昨年の十一月号より月刊武道で連載が始まった『可能性の種子達/茨城高萩道院長・作山吉永著』は、いよいよ佳境に入ってきました。

今月号は開祖の崇山少林寺帰山に随行した際のものですが、またまた素晴らしい出来栄えです。

演武に関する作山先生の見識は大変高く、皆さんに是非読んで頂きたいと思いまして、三章と四章を紹介します。尚、2002年06月22日(土) にも本書きたい放題で“清々/「可能性の種子たち」から”として紹介しています。合わせてご覧下さい。



■――『志は気のすい帥なり、気は体の充なり』−孟子—

 「武芸百般、尚武の国と言われるこの日本に、私は、新たな武道の一派を興そうなどとはもとより考えていなかった。私が志したのは、心の在り方の改造によって、人間同士が互いに拝み合い援け合って生きる、自他共楽の理想郷をこの地上に作ることだったのだ」。

 少林寺拳法開祖、宗道臣先生は常にそう言い続けていました。

 社会各層に優れた人々を数多く擁する少林寺拳法の今日の隆盛は、開祖の志より発したものです。

 開祖の四十四年ぶりの嵩山少林寺訪問にお供をする機会を得て、今さらながらにその感を深くしました。――(筆者注:この文章は序章です)

3.少林武術と少林寺拳法

 鄭州より車で数時間、登封県に少林寺はある。この登封県に少林武術保存整理班という組織があるという。私たちは、少林寺に入る前に、このグループと演武交流会を開くことになった。

 私たち側の演武について、どういう順序で行うか、開祖からお尋ねがあった。山崎先生がいくつかの技名を上げてお答えすると、開祖は「よし、初めは単独で、次に相対でやれ」とおっしゃった。「演武は何をする?」と続けてのお尋ねに、山崎先生が「羅漢拳をやります」とお答えすると、開祖は「よし、羅漢拳でよい」と言われた。まさに我が意を得たりであった。実は私たちの羅漢拳は、大先達の中野益臣先生と三崎敏夫先生の演武構成そのままで、事前に山崎先生が中野先生にその使用の了承を頂いていたものであった。中野、三崎両先生の演武こそ嵩山少林寺にふさわしい、と思っていた。

 交流会は、登封県庁内の中庭で行われた。そこは既に大勢の観衆で埋め尽くされていた。

 少林武術班は、老、壮、青、少の各層で構成されていた。彼らの演武は、上海の武術大会でもそうであったように、多くは体操的であった。それでも古老が行ったステッキの技や、壮年者の力強い極めの動作などには興味が惹かれたが、その多くは単独で行う型であり、『少林武術は天下に冠たり』と謳われた昔日の隆盛は、もはや感じられなかった。しかしとにかく、滅びつつあると言われていた少林寺武術がまだ残っていて、それを古い世代から新しい世代に引き継いでいく試みが行われていることは嬉しいことであった。

 やがて少林武術班の演武が終わって、私たちの番になった。

 開祖が解説に立った。開祖の指示に従って、まず山崎先生が天地拳単独の形を行い、その後で先生と私が組んで同じ形を相対で行った。次に柔法の技を同じように行った。すると今度は開祖が前に進み出て、私たちが行った技の中から一つの動作を取り上げ、自らそのような動作をして見せた。その上で山崎先生の方に手を差し出した。誘われるように山崎先生が手を伸ばすと、その手に開祖のもう一方の手がすっと添えられ、同時に身体がわずかに動いた。次の瞬間、山崎先生の身体は宙に舞った。周りに大きなどよめきと、そして拍手が起こった。

 開祖の意図は、一人で行ったのでは何をしているのかよく分からない動作を、本来の姿である相対で行うことによって、その意味を明らかにしようとするものであった。

 それから私たちは、羅漢拳の組演武を行った。羅漢拳は、特に襟や袖を掴む攻撃に対して逆投げを行う技を主体にしたものである。技を一つ終える度に歓声が上がった。二人組手で、剛柔一体の技がスピーディーに繰り広げられる少林寺拳法の演武は、拳技のふる里の人々をも魅了したようであった。

 演武が終わると、開祖は再び立ち上がって、ご自分の袖を山崎先生に捕らせるように前に出した。山崎先生の手が開祖の上袖にかかった。その手に開祖の腕が乗ったかと見えた瞬間、山崎先生の身体は一回転をして落ちた。山崎先生は起き上がりつつ、今度は下から開祖の下袖を掴んだ。そのとたん、またも山崎先生の身体は宙に躍った。足も腰も払わずに相手を投げる少林寺拳法の逆投げの特徴が見事に表されていた。

 山崎先生の身体がどっと地に落ちると、観衆から割れんばかりの歓声と拍手が起こった。

 観衆に答えるようにもう一度技の形をしてみせる開祖は、その昔、あらはん阿羅漢の拳を伝えたという達磨が、再びこの地に降り立ったかのようであった。

 その姿には、この地を起源とする拳技に、独自の創案を加え、他に類を見ない人格陶冶の行法に昇華させた開祖の自信と誇りが現れていた。また、若き日、嵩山少林寺の白衣殿の壁画『羅漢練拳図』で見た、古の仏弟子達の相対演練の行法を現代に再興したという自負もあったに違いない。

 開祖が創出した少林寺拳法が、単なる武術ではなく、人格完成の『行』であると言えるのは、法形から組演武へとつながる修行課程を確立したからこそであると、私は考えている。法形は二人組手で行う攻防の基本形であり、組演武は、法形を連続的に組み合わせ、一つのまとまりとして構成し演練することである。拳士は幾つかの法形を習得すると、それからは自らの創意工夫によって自由に法形を組み合わせ、新たな演武を創造することができる。特に、突き、蹴り、受けの剛法と、抜き、逆、固め、投げ、などの柔法が巧妙に織り込まれた剛柔一体の演武は、演武者の技量によっては芸術の域にまで高め得るものである。また、攻者と守者は交互にその立場を変えて、互いに技を掛け、掛けられ、協力し合って楽しみながら上達を図ることができるのである。

 法形と組演武こそは、少林寺の基本思想、『自己確立』と『自他共楽』を具現する、少林寺の根幹をなす修行法なのである。それは取りも直さず、古代のあらはん阿羅漢たちの修行法であったであろうことは想像に難くない。

 少林寺お膝元の登封県庁の観衆の拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。歴史からすれば、分家である私たちの少林寺拳法が、本家に錦を飾る形で受け入れられた瞬間であった。

 開祖にとって四十四年ぶりの嵩山少林寺は、目の前にせまっていた。

4.嵩山少林寺

 達磨大師が住した禅宗発祥の地、そして拳技のふる里、嵩山少林寺は伝説の霧の中からついに私たちの前にその姿を現した。

 清朝時代に建てられたという立派な山門と、門に掲げられた『少林寺』の扁額が印象的であった。山門の前には、私たちを出迎える村の人たちが大勢集まっていた。その人垣の中から黄土色の衣をまとった老僧四人が現れた。中の一人が進み出て顔をほころばせながら開祖の手を取った。

 この僧の名は徳善和尚、六十年も少林寺にいる長老で、四十四年前に開祖が少林寺を訪れた時のことを覚えていたのであった。開祖と徳善和尚は共に手を取って山門に入っていった。

 少林寺は思いのほか荒廃していたが、却ってそのために千数百年に及ぶ風雪の歴史を感じさせた。山門から碑林と呼ばれる石碑群の道を通り、往時を偲ばせる幾つもの堂塔の古址を経て、一番奥の本殿である千仏殿に着いた。中に入ると、煉瓦敷の古びた土間に直径三、四十センチほどの不思議なへこみが幾つもあるのに気がついた。聞くと、昔の拳法修行者が稽古で踏み下ろす足の力でへこんでしまったものだそうである。『点滴石を穿つ』という言葉があるが、何百年という時の中で、多くの拳士が立ち替わりここで同じ稽古を繰り返し、くぼみに一穿を加え、去っていったのであろう。その歴史の長さと重み、そして先人の修行の激しさに思いを馳せた。

 少林寺境内は、それ自体が歴史を物語っていて興味深かったが、私たちの最大の関心は何と言っても『白衣殿の壁画』であった。往時の建物がほとんど失われた今、白衣殿は残っているのだろうか。壁画はあるのだろうか。胸が高鳴った。

 千仏殿の前脇に、二本の太い柏の枝葉に隠れるようにして、白衣殿はあった。ときめく心で中に足を踏み入れた。正面に白衣観音像が置かれ、その左右の両壁に色鮮やかな壁画が描かれていた。四十四年前、開祖がここで天啓を受けたその壁画、『羅漢練拳図』は、そこにあった。壁は歳月の流れによって傷み、剥落を防ぐためだろう、桟が打ってあった。しかしそれでも、何十人もの修行僧たちが全て二人組み手になって、打ち、蹴り、受け、投げ合っている様子がはっきりと見えた。隆盛時の少林寺境内から激しい気合いが聞こえてくるようであった。しかも殺伐とはしていない。真剣ではあるがどこか楽しそうでもある。これは私たちが日頃道場で行っている稽古風景とほとんど同じである。開祖が日本に伝えたものは、この壁画で行われている拳法だったのだと、私は改めて確信した。開祖がこれを初めて見た時に覚えたであろう感動が、時を超えて私にも伝わってきた。鈴木先生や山崎先生もまた同じ感動を味わっていたに違いない。開祖はただ静かにそこに立っていた。

 山崎先生と私は、開祖の指示で、白衣殿の前の石畳で演武を奉納することになった。その様子は後日、中国政府発行の日本語雑誌『人民日報』に掲載され、その記事を開祖が法話で取り上げているので、法話集から抜粋して次に掲げる。

「『少林拳士の里帰り・日本少林寺拳法連盟訪中団』と題して、曽慶南という中国人の記者が随行して、まとめたもので、写真も入っています。

 少林寺の武術というものは,中国でも天下に冠たると言われておったんだが、昔の手、少林拳のもっと元の、天竺那羅之角と言った阿羅漢之拳、それを現代に生かしたのが僕だということを中国側が次に書いているから読んでみたい。

 『宗氏は,今年満六十八歳,日本少林寺拳法の創始者として、中国から日本へ少林拳をもたらし、これまでの人生三分の二の歳月を少林拳と共にしてきた。長年にわたって三法二十五形、六百五十六のすべての技を、整理、発展させ、中国の伝統文化を日本に根付かせ、花を開かせ、実を結ばせたのである』
 花を開かせるというまでは大抵使いますね。中国文化が日本で花開いた。碁も将棋もそうである。私については、実を実らせたと、こういう表現をしてくれておる。

 『少林寺の山門の前は、大きなエンジュの木に囲まれた広場ができている。いまは亡き師の恩を忍び、宗氏は随員の山崎博通氏と作山吉永氏に命じて門前の青い石畳の上で少林寺拳法の演武を捧げられた。
 この日のために日本から携えて来た稽古着を着用すると、拳士たちはサッと構え、あるいは攻撃し、あるいはかわす。その円熟した技は、柔剛相まって美しく味わい深い』

 これは私が書いたんじゃないよ.中国人の記者がこういうことを言っている.

 美しくて、味わいがあって、これを忘れるなよ。少林寺の演武は美しいということが一つの条件である。美しいとか強いとかいうものは、永遠に変わらざる強い願望なのだ。人類の願望ですね。強いだけじゃいけない、美しさが欲しい。その中には、強いけど優しさが欲しい。剛柔、ここには柔剛と書いてある。柔らかさと温かさと、強さと激しさと、そういうものが少林寺の技術にあると、ちゃんと彼らは見ている。中国人のほうがうまいこと見ているぞ。

 『日本拳士の見事な演武は居合わせた人々を魅了した。なお、中国側は歓迎の意を表すために答礼の演武を行った』。

 こう言って、いろいろ書いてくれておる」 (一九七九年夏期合宿での開祖法話より)

 開祖の里帰りという少林寺の歴史上重要な場面で、少しでも開祖のお役に立てたことは、私にとって本当に嬉しいことであった。

 嵩山少林寺訪問の後、私たちは、洛陽、西安を見学し、その後、最後の訪問地、北京に飛んだ。北京では、この旅の招待主である中日友好協会会長の廖承志氏の招待による送別の晩餐会が人民大会堂で盛大に催された。そして翌晩には、開祖が中国要人を招待して答礼晩餐会を開き、この旅を締めくくった。

 様々な出来事にもまして、開祖とご一緒した十日間の旅は、私の心に生涯残る思い出である。


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あつみ [MAIL]