道院長の書きたい放題

2003年02月26日(水) ◆松平頼明先生の思い出・1−2

【松平頼明先生の思い出】

■松平先生との出会いは、私が第九代全日本、第十二代関東学生連盟の委員長に就任直後。当時、少林寺拳法連盟の機関紙編集長をされていた滝田清臣先生/現・東京大学少林寺拳法部総監督に伴われ、“大会の改革を進めていた学生連盟と、学生拳士をずっと見守って来て下さった、関東学生連盟会長であられる松平先生との対談”というテーマでインタビューにお伺いした日でした。

場所は、先生が理事長をされていた本郷学園高校の一室でした。しかし実際にはそれ以前、関東学生新人大会の実行委員長に就任した三年次、連盟の先輩に連れられてご挨拶に伺っていた筈なのです。不思議なのですが、その時の記憶はありません…。

■記事が掲載された当時の機関紙を見ると、「襟を正して観戦」という見出しが目に飛び込んで来ます。真に先生のお人柄を表した素晴らしいお言葉であると、今でも感銘を受けます。ところでこのお言葉は、大会で競技している学生拳士達の“演武”に対するものなのです。

後年、先生に関し、開祖からお聞きした印象に残るお話は次のようなものです。

「…ある時、松平先生が少林寺の行事にお越しになられた。それで、みんなして綺麗に掃除してお出迎えしたのだが、どうしたことかタバコの吸殻が道に落ちていた(←もしかしたら“ゴミ”だったかもしれません…)。内心、しまった!と思ったが、先生は黙って拾われて、ご自分のポケットにそっとしまわれた。私は、参った!と思ったね!」(要旨)

■松平先生は本当にジェントルマン/紳士という表現がピッタリのお方でした。本郷学園にお伺いするとお茶が出されます。しばらくの間、先生と懇談して頂くのですが、その折り、茶碗の蓋を取り、飲む、被せる。また蓋を取り、飲む、被せる。この間合いと所作が…絵にも文章にもならないほどお上品なのです。

笑顔も素敵でした。これは開祖と共通しています。人間の笑い方は、泣き方より人柄が強く出るものだと思います。どう言いましょうか…つられて一緒に笑う、というのでは無くて…周りの人が吸い込まれる、というのでは無くて…確かにその人の傍に居られる喜びを感じる。こんな表現になるのでしょうか…。

■さて、私達の代の各地区学生連盟はそれぞれに大会の改革を断行しましたが、関東学生連盟の改革に対して、「渥美さん、今回の大会には私からカップを出しましょう」と、先生のポケットマネーで素敵なカップをプレゼントして下さいました。当時、高価なものでした。

(私達はこれに「松平杯」の名称を設けて後輩に引継ぎました。しかし何年か後、そのカップを紛失したとのことを聞いて、非常に残念に思いました。ただし、現在は復活しているようです…)。

先生が大会にカップを贈呈して下さったのは、関東学生連盟が発足以来初めてのことで、先生は私達の改革をこのように表現/支持して下さったのでした。

そして大会当日、競技乱取りを廃止した代わりに行った種目/胴着き剛法演武をご覧になって、「これはなんという演武ですか?」と私に質問されました。

「これは那羅延系演武と申しまして、剛法を主体とした演武です」大会会長席の背後からお答えしますと、「これは良いですねー」嬉しそうに頷いて下さいました。

■今から思えば、先生は競技乱取りに関して「良い」とも「悪い」とも仰りませんでした。それを言えば、これまでの先輩方を否定しかねないというご配慮が先生の心の中にあったのでしょう。極めて紳士的な方なのです…。

先ほどのお話。黙ってゴミをお拾いになり、ポケットにしまったように、先生は学生全てに優しかったのです。

ですから結果として、関東学生大会で死亡事故が起きなかったことは、他の大会でお亡くなりになられた方々には真にお気の毒ですが、松平先生に対しては残念な思いをさせずにすんだ、と思っています…。

■卒業後も先生とは大会などでお顔を合わすことが出来ました。そして私が神奈川県連の理事長であった時、横須賀で行われた県大会(横須賀事件後、十年目という大切なものでした)の大会会長を快く引き受けて下さいました。

先生は横須賀のどこでしたか(←失念)と関わりがあり、懐かしがられたことも幸いしました。こうして二度目の神奈川県大会へのご臨席となりました(一度目は大会で講演をして頂きました)。

この大会は神奈川新聞で報道され、見出しには「技を楽しむ境地」と、先生のお言葉がまたしても載りました。開祖と共に少林寺拳法を歩まれた松平先生。当然ですが、先生は少林寺拳法の本質を的確に把握されておられました。

■先生がお亡くなりになられた日、日当喜澄先生と共に、夜分ご自宅にお別れを告げにお伺いしました。小雨が降っていました。先生のご遺体にご対面して、私は取りすがって泣きました。開祖がお亡くなりになられた時とは、また違った悲しみでした。

先生には二冊の教範に直筆のサインを頂きました。一冊には毛筆で、

「為渥美兄 力愛不二 松平頼明」。

もう一冊には、

「人多き人のなかにも人ぞなき 人となれ人 人となせ人 松平頼明」。

とあります。私の生涯の宝です。松平先生という方にお会いできたのは、私の人生において本当に幸運でした。

上手く言えないのですが… 少林寺拳法が“上品”という方向に向かったのは、開祖が松平先生と出会われたからだと考えています…。


本稿を、大好きであった松平頼明先生の御霊に捧げます。

(「新たな過ち!?/会報、乱捕り特集を読んで・2」)に続く


訂正:081202 非情→非常



2003年02月24日(月) ◆河口湖事件の補足・1−1

松平先生の思い出を述べる前に、河口湖事件に関連した(色々と聞いた)話を補足しておきます。

■打ち上げコンパが終わり、翌朝各校の拳士は三々五々帰って行きました。ところが、中身が整理されていない旅行バッグが二個部屋に残っていました。最初のうちは、「誰のだ?何処行ってんだ?」という始まりだったそうです。

それで、飲み屋で酔いつぶれたのか…。ケンカでもしたのか…。と手分けして一帯を探したり、聞いて回りました。しかし何処にも見当たらず、皆でだんだんと最悪の事態を予想していったといいます。恐ろしいので誰もそのことを口にできないでいましたが、とうとう…やはり桟橋か、ということになり、警察に届けました。

■作山先生は中島先生の所に泊まっていましたが、本山から学生の行方が分からないという連絡を受け、二人して直ちに引き返しました。そして到着直後、「今し方、遺体が上がりました」と告げられたといいます。私に連絡があったのはその後でした。

学生の中には浮かび上がったご遺体を引き上げる為、背中に担いだ者もいたといいます…。

また事故当夜、飛び込み合って引き返そうとしたある学生は、「そう言えば…泡が上がっていたようだが酔っていたこともあり、深く考えなかった」と言っていたそうです…。

■地元の人の談話としてある新聞記事に、「河口湖は水面の温度は暖かくても、ちょっと下の層は極端に冷たく、酔って飛び込むなんて無謀だ」と非難されました。

飛び込んだ瞬間、心臓麻痺を起こしたのでしょう…。

讀賣新聞の全国版/社会欄にも報道されましたが、その記事には事件の概要に触れた後、「…学生達の合宿態度は非常に真面目であった」という旅館のご主人の談話が紹介され、大きな救いとなりました。

■中島先生はその後、検察の人と話したようですが、「これは…事故だね」と言ってくれたと、少なからず安心していました…。

事件が一段落して数ヶ月後だったと思います。中島先生と私は開祖に報告に行きました。新本堂の石段の前でした。中島先生がどう言われたか思い出せません。しかし開祖のこのお言葉は覚えています。

「皆で協力して解決してくれたそうだな。ありがとう、ご苦労さん」。

こう仰いました。細かいやり取りは覚えていませんが、先生は我々の苦労を分かっていて下さったと、熱いものが込上げました。

■おおよそ以上が、私が経験した河口湖事件の全てです。書こうか書くまいか迷いました。しかし、乱捕りに限らず死亡事故の悲惨さを伝えておきたいと、敢えて私の知ることを書きました…。尚、この事故に対し全国の道院、支部からお見舞金が送られました。

本件は『少林寺拳法五十年史/第一部正史、P479』に記録されています。

(松平頼明先生の思い出に続く)

訂正:081202 非情→非常



2003年02月18日(火) ◆新たな過ち!?/会報、乱捕り特集を読んで・1

■乱捕りに関する特集を組んだ会報2月号が配布されました。読んでみて、感じた事を書きたいと思います。

この件は掲示板にも、「…昨日、道場で会報を配りました。その中に運用法/乱捕りに関する特集記事があり、『二度と同じ過ちは繰り返さない』と書いてありました。大変嬉しく思いました。次回の“書きたい放題”でこの件に触れたいと思います。」(2003/02/05 13:03:38)と書きましたので、約束?を果たします。

ただし本論の前に、二件の出来事に触れておきたいと思います。この二つの出来事は乱捕りに関し、私の心の中に大きく影響しているものです。

ひとつは河口湖事件です。会報中で「二度と同じ過ちは繰り返さない」と声明を出したことを、何故、私が嬉しく感じたかを書きたいと思います。

もうひとつは松平頼明先生の思い出です。先生のお話を語るのは、本題名の「新たな過ち!?」に関わります。ふたつとも是非述べておきたいと思います。

尚、今回の「書きたい放題」はちょっと長くなるかもしれません…。お付き合いをお願いします。また、回想は当時の記憶を遡るので、交わした会話はまったくその通りでないこと。また、記憶違い、喪失があったらご容赦下さい。

■【回想、河口湖事件/1979年7月】…夏の蒸し暑い日の午後だった。全日本学生連盟の幹部合宿から帰宅した翌日、(自営業である)店内で、ホッとして冷たいジュースを飲んでいた。そこへ電話が鳴り、当時はまだ黒い電話機でベルもけたたましい音であったが、出ると声の主は本山の上野和博先生であった。

「先生、合宿お疲れ様でした…」とねぎらいの言葉。しかしその声は重く沈んでいた。「何か起きましたか?」。異変を感じ取って、すかさずこう聞き返した。

「学生が2名死亡しました…」

「えぇー!」

「打ち上げコンパで、ふざけ合って湖に飛び込んでいた学生が2名溺れました。他の先生方も現地に向かっていますので、先生も行って下さいますか?」

■おおよそこんな会話を交わした後、取るものも取り合えず家を出た。前日までの肉体的疲労に加え、これからの精神的疲労を予想し、マイカーは避けた。しかし夏のシーズンの最中、果たして直ちに引き返せるかどうか分からなかった。

案の定、新宿のバスターミナルは人で溢れ、座席も満席であった。仕方が無いので、数珠を手に列の最前列に行き、「急な不幸があって行かなければなりませんので、どうか席を譲って下さい」と係りと乗客の皆さんに深々と頭を下げてお願いした。こんな時の人間は皆親切なようで、「不幸があったんだってよ!」と、どうにか次のバスに乗せてくれた。私の坊主頭と黒ずくめの、しかも支那服姿が幸いしたのかもしれない…。

到着前後の記憶は定かではない。中島通雄先生がすでに現場の指揮を取っていた。指揮に従い私は富士吉田署に出向き、夜まで警察の事情聴取を受けた。

合宿は全日本学生連盟が主催している行事であること。指導依頼があって指導員(中野益臣、新井庸弘/現会長、作山吉永、中島通雄、東山忠祐/当時OBの諸先生と私)として参加したこと。指導が無事に終わったので当日に帰宅したこと、などを話した。当時の警察署長はこの事故を“事件”とみていて、厳しい対応だった。結論的には検察の段階で不起訴であったが…。

富士吉田署には静岡県の元道院長・竹森好美氏、東京からは鈴木秀孝先生も駆け付けてくれた。その他にも来られたと思うが今は記憶にない。

■現地には二泊したと思う。どうも二十数年前のことで…繰り返しになるが印象的な記憶以外、定かではない。

次の日、死亡者二人のご両親をお迎えした。ご遺体が近くのお寺に安置してあったので、新井先生と私が九州学生連盟、田中勇吾拳士のご両親をご案内した。

夕暮れの日差しが差し込む座敷に棺が置かれていた。その前にたたずんだご両親を私達は痛々しくて正視できなかった。そっと棺の蓋が開けられた。

「親よりも先に逝って…」

どちらが仰ったのか覚えていない。だが、夕陽の赤い色と対照的に、ご両親が組合そうとして現れたご遺体の白い手が目に焼き付いて離れない。私達は、ただただこのむごい場面に嗚咽した…。ヒグラシが鳴いていた…。

前後の記憶は定かではないが、当時、全日本、関東学生連盟の委員長であった津田君が、何処であったか号泣していて、それを中島先生が一生懸命慰めていたことは覚えている。もしかしたら、田中君のご遺体とご両親の対面の後だったかもしれない…。

■河口湖から帰って、中島先生の依頼で私は東海学生連盟委員長であった藤原裕史拳士の葬儀に参列した。実家は兵庫で、兵庫県少林寺拳法連盟の方々が参列していた記憶がある。作山先生は九州の葬儀に飛んだ。

辛い葬儀だった。当時、遺族の感情が…なんというか収まっておらず、そんな最中に出席したのだった。地方によって葬儀の方法が異なるのだろうが、主な焼香者の肩書きを大きな声で参列者に紹介されたのだ。

「指導員どのー」と呼ばわれて、背中に突き刺さった皆の視線が、今思い出しても痛い…。

■私は『私の主張/人命を失った反省が足りない』の文中で、「私は過去、学生拳士6人の不慮の事故に遭遇し、4回の葬儀に出席している。内、乱捕りの死亡事故に関しては2回である。」と述べている。

河口湖の事故は乱捕り以外の死亡事故であったが、ご両親とご遺体との対面の場面、その腕の白さ、藤原君の葬儀が辛かったことは、私は生涯記憶から消し去ることができない…。

私は思う。少林寺拳法創立50周年を祝った傍ら、少林寺拳法を修行したが為に失った命があることを…。彼等の遺族を嘆き悲しませたことを、決して忘れてはなるまい。

だから…「二度と同じ過ちは繰り返さない」と言ってくれたことが、本当に嬉しかったのである。

今年の夏で事故から24年目が来る。少林寺拳法の創立記念行事等は今後も70周年、100周年として皆で祝われるであろう。しかし果たして、彼等の失われた命を、この先、誰か思い出して上げることができるであろうか…。

(松平頼明先生の思い出に続く)



2003年02月05日(水) ◆勝負の世界の情と非情

■勝敗を決着する世界に生きている人達を「勝負師」と言います。スポーツ選手、格闘家、棋士(囲碁、将棋)、騎手などが一般にはそう言われますが、世の中の人はある意味、勝負の世界に生きていると言えます…。

良く「勝負の世界に情けは禁物/非情であれ」と言われます。果たしてこれが本当であるかと思う時、はなはだ怪しいのです。

■端的な例が大相撲。周囲は取り組みを面白くする為に同部屋対決を望みます。しかし(多分理事会で脚下?され)、なかなか実現されません。

何も知らない人達は、それこそ無責任に「やれ!やれ!」と迫ります。しかし、相撲の勝負は大変厳しいのです。流血、脱臼、骨折…、驚いたのは以前、若乃花が稽古中、相手の頭からの当たり/頭突きをアゴに受け、奥歯が2本吹っ飛んだ!?と何かの記事に書いてあったことです。普通抜けます…?

「部屋の中は家族なのだから、兄弟同士が争うようなことは絶対させない」(要旨)。反対の理由を述べた理事長(名前は失念)の談話でした。この言葉/気持ち、私には理解できます。しかしやむ負えず、優勝が掛かった一番で同部屋決戦が行われたことがあります。

私の記憶では三番あります。「千代富士(勝ち)vs北勝海」「貴乃花vs貴ノ浪(勝ち)」「貴乃花vs若乃花(勝ち)」です。

■『週刊ポスト』は大相撲の八百長疑惑に厳しい目を向け続けている週刊誌です。それで、当時も疑惑の取り組み/無気力相撲に対する世間の目が厳しくなっていた最中の勝負でしたが、この3番はどうだったでしょう。八百長があったとは思えません。が、やはり力が入らず、情が入ったんでしょう…。

後年、千代富士がこの勝負に触れ、「…それは嫌なものです。普段、一緒に稽古している者同士が闘うのですから…。土俵の上で二人とも目を合わせられませんでした。二度とやりたくありません」(要旨)となにかのインタビューに答えて述べています。解説者達も、それぞれの取り組みについて歯切れが悪かったですね。観客は沸きましたが…。

相撲以外で、一昨年の槙原投手、斉藤投手の引退場面。長島監督の粋は計らいで登場した両投手に横浜の各バッターは公式試合にかかわらず連続の三振。槙原投手なんか130km台のスピードしか出ないのに、バットとボールの差が数十センチもある空振りでした。まあ、点差があって横浜勝ちの結果が見えていたからでしょうが、明らかに情が入っています。いや、先輩への敬意/同情かな…。

■昔、ボクシングのヘビー級でとても印象に残る試合がありました。ラリー・ホームズがジョー・フレージャーの息子と戦った試合です。コーナーに追い詰め連打を浴びせながら、ホームズがレフリーに何事かを叫び続けるのです。どうも「もう止めろ!」と催促していたようなんです。

実力の差があり過ぎる打撃系の試合はとても危険で、相手選手を死に追いやる危険があります。でも理屈から言えば、レフリーが止めない限り相手を叩き続けてもかまわない訳です。あの試合、野獣をイメージするヘビー級の世界にあって、ホームズ選手はそうしなかったのです。彼が勝負の世界で見せた情/善性が鮮やかでした。

昨年の暮れ、総合格闘技に出場した吉田秀彦氏も初戦、ホイス・グレーシーと対戦した際、同様な情/善性を見せています。

締め技を決め、参ったを言わない相手が失神しかかったのを感じ取って「落ちた!落ちた!」と審判にアピールしました。戦力を喪失した相手に対し、さらなる攻撃を躊躇したのです。次に2戦目。ドン・フライとの対戦では、前回、相手サイドの抗議(落ちていないから無効試合)を受けたからか、腕ひしぎを厳しく決めます。が、レフリーが止めた直後、すぐ相手の肘を整復しようとしました。好感が持てるシーンでした。

■我が国では「武士の情け」という言葉があります。これは様々な解釈が考えられますが、私は戦う相手に対する敬意であると思います。ですから、戦い振りは正々堂々が理想なのです。

人間は善性を備えていて、だから人が人と殺し合う姿があさましいと映るのです。殺し合うとは言わないまでも、よん所なく争った場合、もちろん職業的勝負師達も含み、敗者に対しての情、同情の心を失ってはなりません。

非情に徹することは人間であるが故に実は大変難しく、言い換えれば、勝負に非情で勝ってはならないのです。人間性/情を秘めた勝ちが理想です。


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あつみ [MAIL]