道院長の書きたい放題

2002年04月25日(木) ◆(続続)乱捕りに関する資料を読んで

書いて行くうちに問題点がはっきりして来ました。

■ 深層心理というものを自覚したことはありません。心理学では言動や行動からそれを推測します。最近の若い人達、カップルの相性テストや性格判断などが大好きのようです。

少年部に入門を希望する父母(多くはお母さん)と電話でお話しすると、時々こう言われます。「…少林寺って守りの武道ですよね?」とか「…お寺と関係があるんですか?」などなどです。解答は省略しますが、世間一般の少林寺拳法に対するイメージ/深層心理?は、武道であるけれども攻撃的な武道ではない、と認知されているようです。

■ しかしこれは近年の事で、少林寺拳法では開祖ご存命の時から、(特に学生拳法界では)二元教義?がまかり通っていたのでした。「…私はカッパブックスなどで“少林寺拳法には勝敗を争う試合というものが無い”と書いてあるのに、学生大会に来ると、乱捕りを見た後援者の方々から『なんだ!? 試合があるではないですか!』と言われて、恥ずかしい思いをする」(要約)と、ある時期から開祖は学生の大会に出席されなくなりました…。私が大学二年生以後は記憶にありません。一年生の頃はどうだったでしょう…。

教範の変遷を眺めますと、開祖の思想が大きく飛躍するのは昭和30年から昭和40年の間(カッパブックスはこの間に刊行)で、ついには40年度版で「不殺不害」から「不殺活人」という哲学の境地に到られました。そして、競技乱捕りが廃止となった翌年の48年度版に「組み演武について」が加筆され、ようやく少林寺拳法は教義の一元化を果たしたのでした。(ここら辺の事情は、また改めて述べます)。

■ さて、話を今に戻して、「武道を学んでいる以上、顔面への当身は避けて通れない」は、“徒手空拳の武道”ということでしょうが全く同感です。それで今回のセーフガードの開発ということになったのでしょう。しかし、

◆ 試合で防具を付けて打ち合えば、所詮は日本拳法?防具空手?の亜流でしかないでしょう。修練方法を提示したのでは不足なのですか…。資料中、試合の評価法を読んでも、攻者、守者に分けてはいますが、攻者の攻撃技を得点にしてしまうと、結局は双方攻撃なのですか? それなら、なおさら上述の通りです。

二元教義の道をまた歩むのですか…。

◆ 具体的な問題にしても前回述べましたように、叩くルールが当て止めという力加減のみでは、精神性が欠如した“新たな問題(実際に行使した場合、相手の傷害・死亡事故)”が浮上して来ます。反撃者/拳士は面を叩いてはいけないのです。不殺活人拳を具現した乱捕り修練法でなければなりません。

◆ 対衝撃性能は何キロでしょう。体重百キロの人の当て止めと、五十キロの人のでは当然、力が違います。したがって、対衝撃性能の具体的な数値を示す必要があります。同時に、その何キロの衝撃例を実際に示すべきです。それにしても…頚部の、いわゆる鞭打ち症を起こす過重は、人によって大きな違いがあります…。

◆ 「書きたい放題/2001.11.8」で述べている様に、「…少林寺拳法の剛法、特に対蹴りの技法は“受け技有り”のようなんですね。(中野)先生の(頭の)中では…。確かに、足を掛け手で取ったり、流して倒したりすると、金的を蹴ったり、倒した後、蹴ったり叩く形となり、悲惨な戦い方になる恐れがあります。受けられたら痛い、中段攻防の法形は痛くて正解だったのです。ウーン、良く考えられていますね! でも、修練する時は、気を付けましょうね。」カッコ内は今回加筆。

少林寺拳法の法形に沿った攻防の技を真剣にすると、足を傷付けやすいのです。中野流?の中段返し、半転身蹴り、払い受け蹴り、十字受け蹴りなど、蹴りに対する受けは極めて攻撃的な受けです。フェイス・ガードに匹敵する足・肘のプロテクターを開発して下さい。

◆ それとも、新たな法形/掛け手、流し受け攻防の法形を創作しますか?

◆ スポーツ・チャンバラという新しいスポーツが脚光を浴びています。たまたま本部が横浜にあり、発想に感心しています。少林寺でも徹底的に痛くない、安全なスタイルで、とことん殴り合う方法も一方です。しかしそれは、まさしくスポーツですね…。

■「行」について、少林寺拳法では「苦行」ではなく「養行」という言葉で表現されます。これは、誰にでも楽しく出来る修行方法という意味です。したがって昇段試験において、「乱捕り」に年齢制限があることが問題点を象徴しています。つまり、誰にでも出来ない科目/修行方法であることの証明となるからです。二元教義なのです。

一見、学生の問題であるようですが、乱捕りの問題に限らず、財団法人の拳士、宗教法人の拳士などという区別はありません。事実、私は道院長でありながら学生支部の監督であり、彼等を教育していかなければなりません。最近も、新入学した拳士が大学に支部を作るのだと言っています。

地域、人種、世代、性別、職種を超え、あらゆる拳士が共に修行している少林寺拳法。もっと広い視点からの論議を望みます。

開祖は教範中に、「新しい」という言葉を随所で使用されています。しかしこれは、武技としての新しさではありません。開祖没後、何をもって「新しい道」と表現されたのかを、拳士の叡智を集めて深く掘り下げようではありませんか。



2002年04月22日(月) ◆(続)乱捕りに関する資料を読んで

続きです。

■ きわめて驚いた記述(目を丸くした!)は、11ページ中にある“フェイスガードを使う前に”で述べられている以下の文章です。

「武道を学んでいる以上、顔面への当身は避けて通れない。そして、武道を志す以上、顔面に当身をしてみたいという気持ちがあるのもまた自然なこと。でも(当たり前の話だが)、顔面への当身は危険極まりない。ちょっとでも間違うとたいへんな事故につながりかねない。」(以下省略)。

いかがですか? 私はふたつの疑問が湧いて来ます。

■ ひとつは、「…武道を志す以上、顔面に当身をしてみたいという気持ちがあるのもまた自然なこと」と、私の心?まで勝手に決めつけていることです。

この文章を書いた方はずいぶんと攻撃的(良く言えば積極的?)な性格なのでしょう…。それとも部外者/業者の方ですか? 旧乱捕り経験者としても、当時、そのような気持ちは持っていませんでした。上段の当身…それは練習しました。しかし現在でもそうですが、人の顔を叩きたいとは一度も思ったことはありません。多分、多くの拳士は同じ思いでしょう。

深層心理の中で、剣道を習ったら人を切りたい気持ちになるのですか? 弓道を習ったら動物を射たい気持ちになるのですか? 射撃の訓練をしたら人を撃ちたい気持ちになるのですか? 違いますよねー。性善説、性悪説、白紙説に例えると、武道修行/修業者は性悪説に立ってしまうのでしょうか。恐い事を言います…。

■ 顔を叩いてみたいという気持ちをスポーツとして発散させるのがボクシングで、これは一つの選択肢です。一方、その気持ちを克服する為にさらに厳しい修業を積み重ねるのが寸止め派・伝統空手です。また、日本拳法では防具を着用して上段を含めて打ち合うことで積極的な性格を造るとしています。これも選択肢です。ユニークなのは、フルコンタクトと上段寸止めを組み合せる流派もあります。

対して少林寺拳法では、入門時(武道を志したその日)から上段の当身は極力避ける。あるいは三日月、目打ちに止めるように指導されます。私の道院ではそうしています。

武道を習う人の殆どの動機は、「自分の身を守れるようになりたい」からで、少林寺拳法でも「強くなりたい」という入門の動機の意味は、ケンカに強くなりたいと思う人はまれで、実は護身なのです。もしケンカに強くなりたいのなら、昨今の潮流では馬乗りになって人を叩く格闘術を習うでしょう。なにか…心の出発点が違うようです。

■ 二つ目。「でも(当たり前の話だが)、顔面への当身は危険極まりない。ちょっとでも間違うとたいへんな事故につながりかねない」と安全に配慮しています。これは結構なことです。しかし、この大変な事故とは相手の拳士のようであり、拳技/上段突きを行使される側の安全は考慮されていないようです。

練習相手への安全の考慮は、乱捕りに限らず当然です。そして、叩いた(相手への)結果も同様に考慮されなければなりません。これが欠落していませんか…?

上策の拳技と下策の拳技の違いを、開祖は良く学生拳士に説かれていました。「乱捕りの様に相手の顔を叩いて、鼻血は出るわ、服は破れるわで、もうワヤや! こんな殴り方をしたらいくら相手が悪かったとしても、君等の方が捕まってしまうことがあるのだよ」(要約)。

それくらいで済めば良いのですが…叩いた相手が死ぬ事があります。実はこれを心配しています…。相手が死ぬということは、現在の日本では自分が死ぬことと同じだからです。

■ 昔の友人(少林寺拳法三段)の話をしましょう。彼は小柄でしたが気が強い人で、上達と共に?ケンカを良くしていました。その性格を社会人になってからも引きずっていた様で、ある時、会社の慰安旅行で酔って別のグループといさかいになり、一人を殴ってしまったそうです。

ところが深夜、ドアを叩く音で目を覚ますと、そのグループの人達が立っていて「お宅に殴られた者が目を開けないから来てくれ!」と告げられたと言います。付いて行った部屋にはケンカ相手が横たわっていて…幸い事故にはならずに済みましたが、「俺は…あの時ほど肝が冷えたことは後にも先にもなかった…」としみじみと述懐し、その後、プッツリとケンカをやめてしまいした…。

武道を教育する場合、不慮の事故はこの問題も大変なのです。ですから、無意識のことを考えると、少林寺の乱捕りは上段は止めるで良いと思います。(続く)



2002年04月19日(金) ◆運用法(乱捕り)に関する資料を読んで!

久しぶりにアップしました。かなり重大な問題です。

■ 先月、本山合宿に行って来た学生が乱捕りの指導要領のコピーを持って来てくれました。全部で16ページ、かな? 表紙がありません…?

中身を拝見しました。言葉になりません…というより、私の考えと大きな隔たりを感じてしまいました。これを論じる前に素朴な疑問として、何故この文章が先に学生に渡ってしまうのでしょう。監督、指導者へ事前に配布されてしかるべきと考えます。そうしたら、ここの表現、あそこの疑問と、より良い意見が吸収されたでしょうに…。

■ さて、本文の始めのページに、演武についてこう記されています。「少林寺拳法のすべての要素を取り入れ、相手と共に上達を楽しむ『自他共楽』の精神を学ぶプロセス」と…。

そうでしょうか? 私は「(演武は)少林寺拳法の精神を具現したもの」と考えます。演武を、乱捕りの指導要領の冊子中でこんなに簡単に規定してもらいたくありません。なにより、演武の指導要領/研究をこそ、先に作成すべきでしょう。

ご承知の通り、『自己確立』『自他共楽』『理想郷建設』は少林寺拳法の掲げる三大スローガンです。この目標を、少林寺型の人格を通じて達成しようとするのが開祖の目指されたもの/金剛禅であり、つまり、個人格の理想像と組織の目指す理想は不可分の関係なのです。もし、それに乱捕りが大きく貢献するなら、開祖は教範中に4ページにもわたっての警鐘は書かれなかったでしょう…。

本文からは、法形・演武が主行という位置付けが感じられません。もっとも、現在では「基本→法形→乱捕り→演武」という位置付けですから…こうなるのでしょう。

■ 対ロシア外交における基本政策/四島返還論に、いつのまにか二島先行返還論が浮上し、それがロシア側から二島返還で決着になりかねない事態を引き起こしています。S代議士は論外として、国家を思うもうひとつの政策であったせよ、二元外交はしてはならないのです。それでも基本を変えるなら、全国民の意志を反映させることに、どなたも異論はないでしょう。

法形・演武を主行とする修行形態/人格完成の行はどの武道にも見られないもので、乱捕りに偏重しかねない「基本、法形、乱捕り、演武」という修練論は、我々拳士に大きく関わる重要な政策変更であると強調しておきます。(続く)


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あつみ [MAIL]