Rollin' Age

2004年10月29日(金)
 薄っぺらなカード

 206枚。

 きちっと整理もせず机の中に放り投げておいた名刺を、 ふと思い立って数えてみたのだった。記者として働き出しておよそ半年。 これまでに手にしたそれら名刺の数は、多いか少ないかというと、むしろ少ないかもしれない。上司には、最低でも1日1人、知らない人に会え、 名刺を交換しろ、と言われている。この先いったいどれだけの名刺がたまり、自分のものが他人の手に渡ることになるのだろうか。今手元にある他人の名刺と同じ数だけ、自分の名刺が他人のもとにあるかと思うと、不思議な気がする。

 名刺がいくら増えようとも、それは仕事の上での付き合いだ。 暇なときに電話をかけられる相手が増えるわけでもない。これまでほとんど縁の無かった関西で暮らし始めたこともあって、週末に一緒に時間を過ごせるような知り合いはきわめて少ないのだけど、今後もあまり増えなさそうだ。だからこそ、名刺のいらない出会いが欲しいと、思う。

 名刺というのは不思議なもので、持っていると誰かに渡したいと思うときがあるし、こんなものなけりゃいいのにと思うときもある。同じ時期に勤め人になった友人などから、名刺をもらったり、名刺をくれと言われることがある。複雑な気分になる。会社の名前と自分の名前がセットになったそのカードは、君と俺との間に、なんも関係ないじゃないか。そう、胸のうちで思う。

 そんなカードを必要としない、出会いと、関係を、欲しているんだ。





 <「文殊ざつぶん処」、2004年10月のテーマ「出会い」に寄稿しました>



2004年10月24日(日)
 悪が悪であるために

 溝口敦著「食肉の帝王−巨富をつかんだ男 浅田満」という本を読んでいる。牛肉偽装事件をはじめ政界や暴力団との癒着疑惑など、食肉卸大手のハンナングループと、そこに君臨する浅田満をめぐる黒い噂の実態をあばこうとした著作。ハンナンをめぐっては、今年4月に大阪府警が浅田満らに逮捕状を取ってからというもの、大阪の各新聞社は騒然となった。大阪で記者やってる以上、いつかこの本を読まねばならないと先日購入したのだけれど、なかなか読み進まない。どうも、実感がわかないという理由で。

 この著作は、牛肉偽装事件の際にどのようにグループ間で資金が流れたか、浅田満はどんな人物かなどについて、かなり詳細に調べ、鋭く切り込んでいる。警察や新聞が動き出したのよりも約1年早い03年5月に単行本化されており、独自に進めたその取材は、暴力団との関係も取りざたされるだけに、様々な困難もあっただろう。文章の端々に、真相を明らかにしようとする著者の信念が感じ取れる。ハンナングループを巡る実態について、「こいつはおかしいだろ」と訴えているのが伝わってくる、のだけれど・・・。

 「不正」の意味について考える。例えば、この牛肉偽装事件。被害者は、誰だったのか。偽装された牛肉に対して支払われた金は、税金。だから国民が被害者だということになる。ごく簡単に言うならば、ズルをして大金を国民から巻き上げたわけで、それは許されない、というのは、分かる。

 分かるけれど、例えば今も流れるハンナン絡みのニュースに接して、自分が被害者であるという実感はわくだろうか。牛肉偽装事件に限らず、例えば秘書給与流用疑惑などについても、自分が被害者だという実感はあるだろうか。もちろん、「俺たちが払う税金を騙し取りやがって」という怒りは正当なものだし、不正な振る舞いに対する正義感からの怒りももっともなことなのだけれど。少なくとも私は、「食肉の帝王」を読みながら、「許せない!」とか「けしからん!」とは思わず、どこか遠い世界の出来事の解説本を読んでいるようで実感がわかなかった。だから、どうも読み進まないままでいる。

 世の中を騒がす様々な「不正」について、真剣に怒る人というのは、いるだろうか。殺人とか暴行とか恐喝とかならばもっと分かりやすい、怒る人もいるだろうと思ってしまう。殺された被害者の遺族、狡猾な手段でだまされた人、などなど、「自分や身内が同じ目にあったら」という感じ方が容易になる。なにより実際に被害にあう人の怒りは、まぎれもなく心から発せられるものだろう。一方で、「不正」に対して、どう怒ればよいのだろうか。

 心から怒るだなんて、そんなものは筋違いで不正は不正だという意見もあるかもしれない。だけど、アタマで考えて許せないと判断するものと、心から許せないと思うのとは、重みが違うんじゃないかと、考える。その「重み」なんて関係ない、不正は許せないものだと言われるとそりゃそうなんだけど。

 時代劇を思い浮かべて欲しい。越後屋と悪代官。彼らは「不正」をやっている。ただし、たいてい筋書きには「かどわかし」とか「殺人」とかがオマケで付いてくる。誰か特定の被害者がいないことには、越後屋と悪代官が悪者として印象付けられない。「不正」だけでは遠山の金さんも暴れん坊将軍も動かない。なんの罪も無い苦しむ人々がいて初めて、越後屋と悪代官が「悪」として際立ってくる。「こいつら許せない」という感情が生まれる。

 牛肉偽装や贈収賄などについて、被害者不在とは言わない。ただ自分たちが被害者であるという意識すら持ちにくい、このシステムの中で、単純に「けしからん」と言うだけで済むことなのか、そこを考えている。別に「不正」に限らず、「日本の財政」とか「環境破壊」とか「世界平和」とか、別のトピックに移し変えても良い。自分の身に降りかかる問題であるにも関わらず、実感などほとんどわかないこれらの事柄に、人はどう対処すれば良いのか。「選挙に行こう」とか「地球を大事に」とか「人類皆兄弟」だとか。そういうお題目を、どこまで身に引きつけることができるのか。私には分からない。



2004年10月22日(金)
 携帯哀歌

 ふと思い立って携帯の着信音を変えた。新しく登録したのは、東京エスムジカの「月夜のユカラ」。ちなみにこれまでのは、魔女の宅急便のテーマソング「海の見える街」だった。着信音に優しいメロディを選ぶ傾向がある。

 なぜかって、理由がある。

 携帯に電話がかかってくるのは、ろくな場合じゃない。上司の「今どこにいるの」というものか、とある友人がほぼ毎日かけてくる「今日は何時に起きたの」「今日はどこに行ったの」「今日は何食べたの」「なんか話そうよ」といった類のものしかないからだ。着信音が鳴るたびに身構える。怖い。せめて音色くらい、優しいものを選びたいと思うようになっている。

 それでも、一つのメロディを使い続けると、色あせる。色あせるというか、どれほど優しい音色であっても、嫌な感情が刷り込まれる。「海の見える街」という、あの牧歌的な優しいメロディですら、もう一種の脅迫めいた、恐ろしいメロディに変わってしまった。電話がなるたびに、心臓の縮む思いがする。本気で、電話に出たくない。恐ろしい。だから変えてみた。
 
 どうせまた、音色の優しさよりも、電話がかかってくることの怖さが勝るようになるのだけれど。そのときはまた、着信音を変えればいい。

 ちなみに、仕事とプライベートと、使っている携帯は同じだ。もともと自分から電話をかけないタチなため、かかってくる頻度も小さい。必然的に、仕事がらみの電話か、妙に電話好きな友人のどうでもいい電話かになる。「逃げられない」ということの象徴。この何グラムかの物体が奏でる音楽は、必要以上に重たい。正直、携帯なんて無いほうが良いと思うことが、多々ある。



2004年10月17日(日)
 紙くずよりもなお軽く

 ここ数ヶ月、読むことよりもむしろ金を使うことに喜びを感じているんじゃないかってほど新刊を買いまくってきたために、部屋の本棚からあふれるほどの蔵書が生じてしまっている。その蔵書は一見まとまりもないのだが、3つに分類することに決めている。1つ目は「また読むかもしれない本」。つまり、読んでみて良かった、好きだなぁという奴。2つ目は「もう読まない本」。一通り読んでみたけれど、もういいや、ふーんという奴。そして最後に、「買ってみたけど読まない本」。あれ、書店内を行きつ戻りつして選んだ本のはずなのに、つまらなく思う、もしくは、今の自分には必要ないと思われる奴。

 それはさておき。今回は本の話を書くのではなく、金の話なのだ。

 いや、さっき夕方帰宅して財布の中をみると151円しか入ってなくて。夕食をどうするのか、二週間ためた洗濯物をどうやってクリーニングに出すのか、煙草をどうやって買うのか、と。クレジットカードの類は所有していないこともあり、頼みの綱はいつものように銀行のキャッシュカード。ATMまで行ったなら、「システム整備のため、ただいまお取り扱いしておりません」。あちゃー。居間の机の上に散乱した小銭をかき集めても1000円に満たない。

 んで、冒頭の本の話が出てくるわけで。「もう読まない本」と「買ってみたけど読まない本」を、近所のブックオフまで持っていき、2180円を手に入れる。これなら明日まで大丈夫とほっとしたのもつかの間、ためまくった洗濯物に2300円も取られた。惣菜屋でサバ煮とから揚げ、コンビニで牛乳と納豆を買って、久々の自炊。つっても、炊飯器のスイッチを押すだけの。・・・えーと、何の話だったか。最近、収拾付かなくなることが多い。

 つまりは、なんで預金があるのに、本を売って飯代にあてるなんてことをしてるのか俺は、という話らしい。普段から現物を持っておけばすむことなのだけれど、今住んでいる地域は空き巣が多く、あまり家に小金を置いておきたくない。そもそも、タンスの中などに小金があるならば、わざわざATMから下ろすまでもなく、先にそちらを使ってしまうだろう。面倒くさいから。そんなふうに、ちまちまと数万ずつ引き出しながら、日々を暮らしている。

 そんな暮らしを、どこか不気味に思ったりする。働いた対価としてお金をもらう。そのお金は機械の中にある。キャッシュカードを通じて手に入れられる。便利だけど、少し心もとない。別にいまさら物々交換がいいだとか、給料は封筒に入ったものを手渡されたほうがいいというわけじゃない。ただ、例えば昔居酒屋で働いてた時に、月末に渡される封筒の中の1万数千円と、今もっと働いて得ている給料と、どちらが有難いかというと・・・。

 ふと思い出すのは、「ドラえもん」の「デビルカード」の話。そのカードを一振りすると、300円が出てくる。ただし、1回につき1ミリ背が縮んでしまう。そんな話と同じように、キャッシュカードを使うたびに、金銭感覚か、もしくは、もっとさらに別の感覚を、少しずつ、失っているような気がする。

 だからまぁ、カードの類はあまり持ちたくないのです。便利だろうけど。



2004年10月15日(金)
 百を尋ねて十を書く

 いつものように仕事が行き詰ってます。「書きます」と言った記事がいっこうに進んでいないので、ハナキンの翌日の自主出勤は確実となりました。

 なんで書き進まないのかというと、それには理由があるのです。たまたま拾った小さなネタを精一杯に膨らまして、「こんな風に書きます」と大見得切ってしまったからなのです。別に好きで大きなことを言っているわけではないのだけれど、毎週毎週「今度は何を書くんだ」と尋ねられる以上、何かネタを出さざるを得ない、そのため「これはちっと書くのは難しいかなぁ」と思いつつ、「書きます」と言ってしまうのです。不可抗力。

 例えるならば。欠けた梅干が入ったおにぎりと、しなびたタクアンしか手元に無いけれど、どうにかしてパックに詰めて売らなければならない。炊飯ジャーの底にゴハンが半膳残ってた。台所の奥に時化たカツオブシがあった。んむ、これでオニギリ作って、とりあえず「梅干とおかかのおにぎりセット、タクアン付き」298円で売ってしまえー。当然、台所事情は苦しいし、ろくな品物にならない。そのようにして、生真面目な消費者や店長さんから、いつ苦情が来てもおかしくない、オニギリ屋で私は働いているのです。

 2個しかないものを3個セットに仕立てあげようとするのだから、根本的に矛盾しているのです。そんな矛盾を抱え、頭を悩ましているところ、ふと、先輩記者が言っていた言葉を思い出しました。「百を尋ねて十を書く」。

 先日、研修のため珍しく同期が集まり、バリバリ一線で働く記者との懇親会がありました。その際に、同期の一人が投げかけた質問。「少ない情報で無理やり記事に仕立て上げねばならないことが良くあるんですが、どうしたら良いでしょうか」。あぁ、やっぱ新人の置かれた境遇は、同じようなものだなぁと思った。その問いへの応えが、「百取材して十書けばいいんだよ」というものだったのです。言ってみりゃ、当たり前なんだけど、その当たり前のことができないのが新人なのかもしれません。

 とにかく早く小ネタのストックを。なんとか年内には、立派な「おにぎりセット」を売り場に常備できるようにしたいものです。



2004年10月11日(月)
 すこし、ふしぎ

 「なんだあれは」と不思議に思い、遠めに見ながら、避けて通っていた。梅田の駅前を通り過ぎるたびに見かける光景。汚らしい格好をしたおっさんが、雑誌の束を抱え、そのうちの一部を振り上げて立っている。梅田駅周辺は「アンケートに答えてください」といった勧誘が多い。こいつもどうせマルチか宗教かの勧誘で、ここに立っているんだろうと、そう思っていた。

 その謎が解けたのは、先週どこかの新聞の夕刊に掲載されていたコラムを読んだ時だった。汚らしい格好のおっさんは、紛れもなくホームレス。手に持つ雑誌は、「ビッグイシュー」。これは、ホームレスの自立を支援する事業なんだそうな。1部200円のそれが売れるたびに、販売員であるホームレスは缶ジュース1杯分のお金を手にする。家を借り生活を立て直すことができるようになるのがゴールという。ほう、そうなのかと、びっくりした。

 なんか不思議だなぁと思いながらも気にせず通り過ぎていたモノに、意味や理由が与えられた瞬間というのは、実に楽しいものだ。さっそく買ってみた。別にホームレスに頑張ってほしいとか、そんな殊勝な気はない。雑誌の内容は、可もなく不可もなく、あれば読むという程度の内容だったけれど、通勤路の途中で売っているために、今後もなんとなく買うだろう。「こういう仕組みっておもしろいな」という気持ちだけで。そんなもんでいいと思う。

 似たような話で、「ハリーポッター」のこともある。最近どこの本屋でも九月からずっと、新刊「不死鳥の騎士団」が山積みにされているのを見て、少し不思議に思っていた。書店の一角を埋め尽くす、あのピンクの山。文芸春秋の11月号で、そのカラクリが明かされていた。単純に、売れてないのだ。そして、売れてないのに返品できないという事情があるらしい。詳しくは無いが、通常、本は返品可能で、売れ残った分は出版社に返って来る。ハリーポッターの場合は、それができず、いつまでも本屋に並んでいるという。

 これもまた、少し不思議に思いながら、そのまま特に考えもしなかった。事情通の人が、こういうことなんだと教えてくれて初めて、気づく。世の中は、なんかようけ分からんことがたくさんあって、特に気もせずやり過ごしてしまうものだけど、その裏のカラクリが分かったときに、少し見る目が違ってきたり。そういう発見は、嬉しい。人に教えられるのではなく、自分で探し当てることができるのなら、なおさらなのだけど。

 しかし、「ビッグイシュー」の活動は、日本では約一年前から始まっていて、メディアにも散々露出してきていた。調べてみると、最近でも、新聞紙上に乗っかっている。少なくとも毎日一通り読んでいりゃ引っかかるものだろうに。しばらく前、「新聞記者なのにそんなことも知らないの?」と言われて、「記者だからって何でも知ってるわけじゃねえっつぅの」と反論したこともあったけれど、最近、知らないことが恥ずかしいと思うようになりつつある。

 若造の張れるアンテナなんて、たかが知れているのだけれど。少なくとも、新聞に何度も書かれているようなことについては、見落としてはマズい。一時プロ野球の取材でとても忙しかった上司が、それを尻目にノホホンとしてた俺に、質問を投げかけてきた。「パリーグの6球団、全部言えるよね?」。「あたり前じゃないですか。西武とダイエー、近鉄とロッテに、えーと、あれ、オリックスと、えー、・・・」。上司、あきれた顔で、「日ハムな」。

 ・・・これはもう、アンテナを張るとか新聞を読むとか以前のお話。



2004年10月08日(金)
 流行の正体

 ああいったテレビ番組が、主婦のお買い物の羅針盤となったのは、いったいいつの頃からなんだろうと、常々疑問に思う。みのもんたに始まり、爆笑問題やらビートたけしやら芸能人やら繰り出して、これは体に良いだのこれは体に悪いだの、と。黒豆、アミノ酸、にがり、ポリフェノール、納豆、黒酢、イソフラボン・・・。どれもこれも、小売店に販売動向を尋ねるたびに、「この前テレビで取り上げられて何倍にも売り上げが伸びました」。

 「消費者の健康志向の高まり」というのは良く言われる。一方で、メーカーは特売の対象にならない、付加価値が高く利益率も高い商品を求めている。その消費者とメーカーをうまいこと繋ぐのが、テレビをはじめとするメディア、そういう構造。それにしても、一回の報道で売り上げが数倍になるなんて、主婦をはじめとする消費者の方々、踊らされすぎじゃないだろうか。

 健康に良いとされる食品は、なるほど確かにその成分は一定の効能を持つのだろうけれど、いくら特定のモノを多く摂取したところで、他の様々な栄養素も含めバランスよく取ることこそが大事だろうに。もちろんそんなこと、賢い消費者の皆様は分かっているのだろうけれど、それにしても、なぁ。

 そんなことを思いつつ、今度また、「こんな商品が健康に良いとして注目されはじめてますよ」という記事を書く。嘘を書いているわけじゃない。だけどこれが何百万の人の目に晒され、「兆し」を「流行」に仕立て上げるのに関わっているのかと思うと、世の中の流行りなんてそんなもんかと小ばかにする気持ちと、そこはかとない恐ろしさと。

 だって、俺は、自分が紹介した商品を、一口も食べていないのに。 
 コンビニおにぎりで栄養を摂取している身分なのに。

 何が健康。何が栄養。



2004年10月01日(金)
 半年目の青臭さ

 1年前の今日、とある部品メーカーの内定式に出てて、本当ならいまごろ海外営業職というので働いているはずだったのに。1年前の明日、1本の電話で人生変わってしまった。当時の人生かけたネタ日記が今はもう見られないのが少し残念だ。あぁそうか、あれから1年か。

 入社して5ヶ月目を超えた先月辺りから、加速度的に仕事に慣れてきた。ずっとかなわぬ目標だった記事の出稿ペースもクリアできるようになり、先輩からは「そろそろどういう記者を目指すのか考え出したほうがいい」と言われる。大別すると、雑報を量産するタイプか、特ダネをコツコツ書くタイプか、その2種類なんだそうな。正直、どっちでも良いと思う。

 けっきょく今の仕事に就いて何をしたいのか。未だに見えてこないのが問題だ。正直なところ、どこそこの会社が新製品を出すとか事業を強化するとかM&Aだとか、どうでもいいやとも思う。だってそれは誰が書いたって同じ記事になるのだから。かといって社説とかエッセイとかコラムとかを書きたいわけでもない。別に何かを表立って主張したいとは思わない。

 ここから先は、夢物語だ。

 かつては、現場を見れば何かが分かると信じていた。だけどそうじゃなかった。野菜畑の中で農家の話を聞いても、おにぎり工場の中で従業員の話を聞いても、年商一千億の経営者に話を聞いても、どこかで見た日常の1コマに変わりはなかった。農家だろうが従業員だろうが経営者だろうが、それぞれ立場は違っても、それぞれの日常を過ごしているにすぎなかった。

 この半年で、はたしてどれだけ印象に残った取材があっただろうか。夢を語る人もいたし、悩みを抱える人もいた。だけどそれは、隣にいる友人と話すこと以上に、特別なものでもなかった。

 世の中は、どこかへ向かって確かに動いているのだけれど、実は単に、何十億かの日常が同時並行で進んでいるだけのことなんだろう。そしてそれを、未来の学者は歴史と呼び、細かい名前を付け、幾つもの貌を与えるだろう。私たちが生きている、この時間を、直に過ごしたわけでもないのに。

 今を紡ぐ言葉が欲しい。それは単に、どこかで何かが起きているというものじゃなくて、うごめいている、とでも言えばいいだろうか、毎日毎日生まれるニュースたちの、更にその奥にあるものを、顕わにしたい。今生きているこの社会、この時代は、一体なんなのか、と。そんな、青臭い想い。


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