ATFの戦争映画観戦記



【File118】十七萬接続達成記念・・・再録/よろず観戦日誌〜男たちの大和

2006年04月15日(土)

ご存知の通り「大和ロケセット野戦OFF従軍記」を無事公開する事が出来たのですが、執筆に熱中し過ぎて十七萬接続記念の企画をうっかり忘れておりました・・・(大汗。何とかしなければ・・・と考えていたら、ふとある事を思い出しました・・・そう言えば、以前『よろず観戦日誌(現観戦武官長私室/更新停止中)』『男たちの大和』について書き込んだよなぁ・・・って事で早速過去記事を調べたらありました!・・・2004年8月9日(月)から8月18日(水)にかけての全10話(幕)。そこでこのままネットの奥底に埋もれさせるのも勿体無い・・・いえ、決して手抜きでは(自爆)・・・今回の十七萬接続記念に託けてサルベージして再度公開決定!・・・尚『男たちの大和』関連記事は全10話(幕)だったのですが、記載文字数の関係で内3話(幕)・・・大和ミュージアム開館時の市民団体の抗議行動の件・・・は割愛いたしました。また文中記載の日時は特に年の表示がないものは2004年のものです・・・それでは恒例【開演ブザー】・・・今回も携帯電話の電源はそのままで・・・【文中の様々な書き込みには資料的価値は全くありません・・・(^o^;A】

【男たちの大和・・・映画化決定・・・巻一】
角川春樹氏・・・と言えば『メディア・出版界の寵児』と言われた出版大手「角川書店」の元社長である。今から30年前の1975年、父である国文学者の角川源義氏が1945年に創業した「角川書店」の社長に就任するや、自社版権所有人気小説と、その映画化による販売相乗効果を狙ったメディアミックス戦略を打ち立て、翌1976年に「角川映画」を設立、横溝正史原作の「犬神家の一族」を映画化し邦画界に進出した。その後「人間の証明」「野生の証明」「セーラー服と機関銃」「時をかける少女」「戦国自衛隊」など次々にヒット作を製作。1982年の「汚れた英雄」では、自ら監督としてメガホンを取った。しかし、1993年にコカイン密輸による麻薬取締法違反などの容疑で逮捕され、2000年3月に最高裁で懲役4年の実刑が確定。病気療養のため一年間の収監保留の後、2001年11月より服役・・・2年5ケ月の服役を経て2004年4月8日に仮釈放された。逮捕裁判中に「角川書店」の社長職は解任され、社長職の後任には実弟でメディアワークス社長だった角川歴彦氏が就任した。裁判中から、新たに「角川春樹事務所」を設立し、出版業のみならずマルチメディア事業、映画・ビデオ製作・企画を手がけていた。特に「ハルキ文庫」のシリーズ名で人気作家の文庫諸作品を次々に発売している。角川春樹氏は現在「角川春樹事務所」の特別顧問職となっている。さて、その角川春樹氏が今日8月9日に、久方ぶりに公の場に姿を現わした・・・都内のホテルで行われた映画「男たちの大和/YAMATO」(佐藤純彌監督)の企画発表記者会見である。実は今朝未明に角川春樹氏の実母照子さんが亡くなっていた中での記者会見だった。「男たちの大和/YAMATO」は角川春樹氏の実姉で作家の辺見じゅんさん原作の小説(ハルキ文庫刊)・・・昭和20年4月に菊水水上特攻として沖縄方面に出撃、米軍艦載機の猛攻を受けて奮戦空しく鹿児島県坊ノ岬東方沖90海里の地点に沈んだ「戦艦大和」の生存者や遺族に取材したドキュメント小説・・・を映画化する作品。2005年秋公開を目指して製作が開始される。角川春樹氏は、この映画の製作に関して私財を投じて全製作費30億円の半分・・・15億円以上を負担する意気込み。過去の角川諸作品について「これまでの映画は本を売るためなどの別の理由もあったが、今回は映画への純粋な思い」で、初めて本気で映画を作るのだそうだ・・・が、こんな意気込みで映画を作る時に限って、良くコケルんだよなぁ〜コレが!

【男たちの大和・・・映画化決定・・・巻二】
さて「男たちの大和」の製作記者会見において目玉となった発表は、なんと言っても実物大の大和のセットを作る・・・と言うものであった。実物大の大和・・・って言っても想像つかないが、簡単に大きさだけ書くと全長263m・最大幅38.9m・喫水線上高62.3mっていうとんでも無い大きさである。過去邦画戦争映画では軍艦の縮小模型や部分セットは数多く製作されているが、全体セットとなると例がない(・・・と言うか私は思いつかないのだが)。そう言えば「トラ・トラ・トラ!」では、福岡県芦屋の海岸に実物大の戦艦長門(全長213m・最大幅29m)の木造セットが作られた・・・が、これは勿体無い事に映画撮影終了後に撤去されてしまった。よく戦争映画ファンの間でも、このセットを取り壊さずに保存・・・まぁ今風に言えばテーマパークにでもしてしまっていれば良かったのに・・・などと言う声が聞かれる。しかし、この撮影用モックアップ長門だが、写真を見れば解る様に、洋上に浮かぶ雰囲気を出す為か海岸線ギリギリまで迫り出して設置されている。これでは波や風雨の被害を受け易いし、木材部品の腐敗も早いので、このままの状態での保存は不可能だ。如何せん内陸部まで移動させるとなると、一度分解して再組み立てとなり、その費用たるや想像もつかない。そして一番の問題は、仮にテーマパークみたく展示しても、維持保存する為の費用を捻出できるだけの収益が見込めたかどうか怪しいものである。ことに我々日本人(の一部)は、戦争関係の遺物や物品の保存や展示に妙な偏見を持っていたりするし・・・。閑話休題・・・話を実物大戦艦大和に戻そう。今回製作される大和がどんな材質で、何処に組み立てられるのかは想像出来ないが、撮影に使用される以上、長門の様に海岸線沿いに設置される可能性が高い。昨今のCG技術の発達からすれば、態々そんなところに設置しなくても、画面上では洋上シーンと組み合わせるのは容易であろうが、それならば最初から実物大の大和を作る必然性も薄い。あくまでも映画の為の話題作りの効果も狙っており、ともすれば映画撮影終了後に前述の長門では実現不可能だったテーマパーク化し、収益を得るという計画が無きにしも非ず・・・なんて事も角川春樹氏だったら考えていそうだし、共同製作は東映なので、いざとなったら変身・戦隊ヒーローショーと組んで公開すれば、大人も子供も楽しめるテーマパークって事になるかも・・・

【男たちの大和・・・沖縄水上特攻片道燃料異聞・・・巻一】
私は「戦艦大和」と言う言葉を耳にする度に思う事がある。それは大和最後の戦い・・・沖縄水上特攻(天号作戦)時における大和に搭載された片道燃料論争である。以前は、元学徒士官であった吉田満氏の著作を始め多くの著作において、大和以下第一遊撃部隊が沖縄に出撃した時点で、片道分の燃料しか搭載していなかった、と主張していた。しかし近年の研究では、大和始め第一遊撃部隊の全艦に、沖縄までの往復可能な燃料が搭載されていた・・・と言う説が一般的になっている。この説の根拠になっているのが、当時連合艦隊の補給担当参謀であった小林儀作元大佐の手記(「沖縄特攻艦隊の燃料/日本海軍燃料史(下巻988〜989頁)所載)によるところが大きい。これによれば、聯合艦隊司令部首脳陣は、この作戦に関して軍令部と種々協議を重ねたが、軍令部はこの作戦に関し極めて消極的で「現在日本国内の燃料貯蔵量は極端に逼迫しており、物資輸送船艇への護衛艦の燃料も十分とは云い難い状況である。従って燃料は極端に節約しなければばらない。この作戦の様な敵の制空圏下での艦隊行動は極めて危険である。例え沖縄に突入出来たとしても、その生還は期し難い。あくまでこの作戦を強行するのなら、燃料を片道分しか渡せない」との強硬意見だった。しかし聯合艦隊司令部としては「現状で港内に避泊したままで徒に敵機の攻撃を受けるよりも、日本海軍の名誉にかけて沖縄に突入して、その最後を飾るのが武人の本懐である」「本作戦の成功の算は極めて少ない。併しながら今海軍部内全般に亘って航空部隊はじめ全軍特攻として死闘を続けているのに、水上部隊のみ生き残って拱手傍観して居る。皇国存亡のとき、水上特攻をしないで良いのか」等の意見が強かった。結局、聯合艦隊司令部は、沖縄水上特攻作戦の決行を決定し、昭和20年3月20日に大海令作戦命令が発令された。しかし「例え生還の算無しとは言え、燃料を片道分しか渡さないと言うのは武人の情に非ず」との意見から、作戦命令を第二艦隊司令長官伊藤整一中将に伝達する為に、聯合艦隊参謀長草鹿竜之介中将が大和へ出向く折に補給担当参謀小林大佐が同行し、呉鎮守府に赴き機関参謀今井中佐と面談し沖縄特攻作戦の主旨を説明。帳簿外の備蓄重油(推定50,000屯)を第一遊撃部隊に補給する様に依頼した。その後、呉鎮先任参謀井上大佐、参謀副長小山大佐、参謀長橋本少将に報告し承認を得、第一遊撃部隊全艦への燃料満載補給が実施される事となった・・・。

【男たちの大和・・・沖縄水上特攻片道燃料異聞・・・巻二】
呉鎮守府首脳の了承を得た小林参謀は、呉軍需部長島田少将と協議した結果、重油タンクの底に溜まっていて動力ポンプでは汲み出せない帳簿外の燃料を、手動ポンプで汲み出し大和以下の第一遊撃部隊各艦に補給する事を決定。これが軍令部にバレ、万が一責任を追及された場合には、出航前の慌しい中で命令が正確に伝達されず、取り合えず積み込めるだけ積み込んで、過積載分の重油は後に戻すつもりだったが出撃時間に間に合わなくなった・・・という言い訳まで考えていた。その後、松岡第二艦隊参謀長及び先任参謀山本大佐に、この旨を報告・・・早速呉及び徳山の燃料廠で重油の積み込みが開始された。しかし呉及び徳山燃料廠では、直接大和が接岸して給油できなかったので、一度駆逐艦に給油し、洋上で大和へ駆逐艦から給油する方式が取られた。重油タンクから手動ポンプで汲み上げ、更に駆逐艦経由での給油の為に時間はかかったが、苦労の甲斐あって大和には4,000屯、二水戦旗艦矢矧に1,300屯、四駆及び十七駆、二十一駆所属各駆逐艦は満載、と合計で10,500屯が給油された。当初軍令部からの指示によれば第一遊撃部隊に給油される予定の重油は4,000屯であった。これは当時の海上護衛総隊司令部参謀大井大佐の著書「海上護衛戦」の中に・・・海上護衛司令部は、戦局がいよいよ厳しくなる中、極度に逼迫した国民生活に必要な物資を優先して日本国内に運び込む為に、海軍省と軍令部に懇願して海軍管理下の貯蔵重油から約7,000屯を護衛総隊艦艇用に確保していた。ところが「大和以下第一遊撃部隊の沖縄特攻出撃が決定したので、7,000屯の重油割当分から4,000屯を差し引く事が決定された」との連絡が大井参謀に伝えられる。慌てた大井参謀が連合艦隊司令部に電話で確かめると、応対した連合艦隊参謀が、その旨肯定した上で、以下の様な連合艦隊司令長官の訓示を伝えてきた・・・「光輝ある帝国海軍水上部隊の伝統を発揚すると共に、その栄光を後世に伝えんとするに外ならず・・・」それを聞いた大井参謀は、怒りが込み上げ「国をあげての戦争に、水上部隊の伝統が何だ。水上部隊の栄光が何だ!馬鹿野郎!」と叫ぶと受話器を投げ捨てた・・・と言うエピソードが伝えられている。当初は艦隊の片道分4,000屯の予定だったが、結局二倍半以上の量が積み込まれていたのだった・・・でもこんな事なら、護衛総隊艦艇用にも、帳簿外の重油を回せば良かったのに・・・これも旧海軍のロジスティック軽視の現われかと思うのは私だけだろうか?

【男たちの大和・・・沖縄水上特攻片道燃料異聞・・・巻三】
吉田満氏の著作や他の大和生存者の方々による著作では、殆んどに「片道燃料」という記述が見られる。この事から当時の下級士官や下士官兵乗組員の間には「片道燃料で出撃する」という事が当然の如く流布していたと思われる。他の航空機特攻について書かれた戦記を読んでも「片道燃料」という記述が多分に見られるが、この場合でも、実際は出撃しても接敵出来ない場合があるので「片道燃料で出撃」と言う事は殆んど無かったのだが、やはり一億総特攻が叫ばれる中で、特攻作戦従事者や国民の精神意識を高める必要から生まれたのが、この「片道燃料出撃説」ではなかったのか、と思われる。さて本題はここからである・・・大和以下の第一遊撃部隊の艦艇に、当初の作戦予定に対し二倍半以上の燃料が積み込まれた事は解った。これが多くの著作やサイトで「往復燃料積載説」の根拠になっているのだと思う。ところが大体にして、どの著述もそれ以上の事は言及されていない・・・往復分の燃料が積み込まれていた・・・とあるだけなのである。これでは「友だちの友だちのそのまた友だちから聞いた口裂け女や人面犬の話」と同じレベルである。以前にも書いた事があるが、仮にも軍オタの端くれを自称し、自分の意見をサイトで公表するのなら、物事をもっと物理的(数値的)に分析する目が必要である。そうでなければ「南京事件において、限られた時間内でたった数丁の軽機関銃で数万にも及ぶ捕虜を射殺した・・・」と言う話を鵜呑みにして、そのままサイトで発表しているのと同レベルとしか言い様がない。そこまで言うのならお前はどうなんだ、と言われる事を覚悟して、解る範囲で大和の性能緒元から数値を拾い、素人計算で「片道燃料説」を検証して見る事にした。

【大和片道燃料説の検証】
大和の燃料満載量は6,300屯で、公式航続距離は7,200浬(16ノット/時)である。1浬=1.852kmだから、単純計算で公式航続距離は13,334kmとなるので

航続距離13,334km÷積載燃料6,300屯=2.12km/屯(燃料1屯当りの航行距離)

となる。燃料1屯当り約2km進める訳だ。さて呉〜沖縄間の距離は、これまた正確ではないが約900km(沖縄〜鹿児島間は660kmある)なので、往復距離は約1,800kmとなる。この数値を基に計算すると、沖縄水上特攻出撃当時、大和は約4,000屯の燃料を積載していたので

積載燃料4,000屯×2.12km/屯÷往復距離1,800km=4.7往復

単純に計算すれば、なんと呉〜沖縄間を4.7往復する事が可能な程の燃料を積んでいた事になるのだ!・・・って、これじゃ小学生の算数だな・・・

【男たちの大和・・・沖縄水上特攻片道燃料異聞・・・巻四】
安直な計算で4.7往復なんて答えが出たが、世の中そんなに甘くない!さて艦船は完成して海軍に引き渡される前に、最終的な試験航海を行い様々な検査が行われる・・・これを「公試運転」と言う。当然大和も行っていて、その時得られた性能緒元では

公試基準速力15.91ノット/時(17,432馬力)毎時重油消費率7.71屯
公試全速力27.30ノット/時(151,707馬力)毎時重油消費率57.5屯

である。基準速力では毎時7.71屯の重油を消費する事から、単純航続距離は

積載燃料6,300屯÷毎時重油消費率7.71屯×基準速力15.91ノット/時=13,000浬=24,076km

となる。しかし、これは最初から最後まで16ノットで走った場合で、実際はこんな事は有り得ない。停止状態から基準速力まで加速するのにも燃料を消費するし、碇泊中でも各部動力源としてボイラー等が動いている・・・という事から

公式航続距離13,334km÷単純航続距離24,076km=55.38%

公式な航続距離は、単純航続距離の半分強の数値が設定されている事が解る。この事を積載燃料4,000屯に当てはめると

出撃時積載燃料4,000屯÷毎時重油消費率7.71屯×基準速力15.91ノット/時×55.38%=4,571浬=8,465km

しかし計算は、まだ終りではない・・・大和の最高速力・・・公試全速力時では毎時重油消費率は57.5屯となっているので

全速時重油消費率57.5屯/27.30ノット÷基準速力時重油消費率7.71屯/15.91ノット=7.46

なんと全速で突っ走ると、経済的速力である基準速力航行時よりも7.5倍もの燃料を消費する。大和は出撃時、既に豊後水道を出た時点から米潜水艦に察知されていたので、太平洋へ出た時点で既に全速に近い高速で突っ走っていたはずだ。

出撃時積載燃料4,000屯÷全速時時重油消費率57.5屯×全速力27.30ノット/時×55.38%=1,051浬=1,948km

と言う事で、なんと推定航行距離は1往復強と言う計算結果になってしまった。ところが、これでもまだ終りではない。実際には往復路とも空襲や雷撃が予想され、偽装進路や之字運動を行うので航行距離は格段に増大する。また戦闘により燃料タンクが被弾し、燃料が流出する可能性もある。こうして考えると最終的に得られた航行距離1,948kmでも「余裕ある往復燃料」とは必ずしも言えない。敢えて言わせて貰えば「多少余裕のある片道燃料」と言う方が適切だった、と思えるのである【ここでの計算式は多分に誤っている可能性大なので、修正のご指摘をお待ちしております】

【男たちの大和・・・沖縄水上特攻片道燃料異聞・・・巻五】
世の中に広まりつつある「沖縄水上特攻往復燃料説」について、敢えて逆説的な検証をしたが、結局燃料満載で出撃したところで、当時の状況・・・制空権無し・・・下で、多寡が10隻そこらの艦隊・・・いや戦隊程度か・・・が、沖縄まで辿り着く勝算は、当時の海軍首脳部・・・軍令部、連合艦隊司令部、二艦隊司令部、二水戦司令部の何れにも無かったのは確実だ。折角確保した燃料を横取りされた護衛総隊の大井参謀が怒った様に、嘗ての栄光と伝統に、この期に及んでまで固執し続けなければならなかった日本海軍の悲劇である。さて沖縄水上特攻作戦を語る上で、もうひとつ検証しなければならない事がある。それは、仮に大和が沖縄突入に成功した場合に「浮砲台」と化し、残った兵員は「陸戦隊」として第32軍に協力する、という作戦計画である。これについても「片道燃料説」と同じく、多くのサイト等で見られる記述であるが、実際こんな計画が立てられたという史料は、未だかって確認されていない。確認出来るのは「沖縄西方海上にて敵艦隊及び輸送船団を撃滅すべし」という電文くらいである。大体洋上に停泊または航行しながら砲撃するならまだしも、強行的に座礁などしても、上手い具合に水平に座礁して動力が確保出来ていれば良いが、少しでも艦体が傾いたり、動力が停止してしまえば、主砲による砲撃など全く不可能である。大体大和の46cm主砲塔は、一基が3000屯もの重量がある。動力源を断たれたら旋回すら覚束無い。ガ島における日本輸送船の様に、沈没を免れる為に座礁すると言う方法は考えられるが、如何に不沈艦たる大和でも、制止した状態でどれほど米軍の空と海からの攻撃に耐えられるだろうか?もうひとつ兵員を揚陸し陸戦隊として戦う、という話についても、大和だけでも3000名もの兵員が乗艦していたが、それらが完全に武装出来る程の陸戦用武器弾薬食料が積み込まれていたと言う記録はないし、しかも満足な揚陸設備も無い状況である。結局この水上特攻作戦自体「慶良間泊地突入」を意図して、万が一成功したら、その後の計画としては「帰還は無理なので、海岸に座礁させて沈没を防ぎ、生き残った兵員は上陸して第32軍に保護してもらえ」程度しか詰められていなかった作戦で「浮砲台」や「陸戦隊」は「片道燃料説」と同じく、当時から無謀な作戦を美化する為に流布され、語られていた精神論的噂話に過ぎなかった。しかし、それらを信じ多くの尊い生命が大和と運命を共にした事は紛れも無い事実で、永遠に語り継がれなければならないだろう・・・

今回は至って手抜きな観戦記ではありますが、十七萬接続記念と言う事で、平に平にご容赦の程を・・・【続く】


【File117】外伝・・・おたくたちの大和〜大和ロケセット野戦OFF従軍記・・・巻三

2006年04月09日(日)

遂に念願の大和ロケセット見学を果たした後輩伍長殿と私ATF・・・特に私ATFは軍ヲタ的願望の極地とも言える牾し鎧絢鏃柿を着て大和ロケセット上で記念写真に収まると言う目的を達成し、心地よい満足感にどっぷりと浸かっていた。しかし我々に残された時間には限りがあった・・・日帰りという時間の制約は、大和ロケセットとの名残りを惜しむ余裕をそれ以上与えてはくれなかったのだ・・・それでは【開演ブザー】・・・今回も携帯電話の電源はそのままで・・・【前々回及び前回同様、文中の様々な書き込みには資料的価値は全くありません・・・(^o^;A】

【大和ロケセット野戦OFF・・・さらば戦艦大和[作戦第二目標、宜候〜ッ編]】
名残りを惜しみながらも、大和ロケセットを後にした我々は、帰還のシャトルバスに乗車する為に、順路に従い乾ドックの水密性扉上に仮設された通路を進んで行った・・・そこには仮設テントが張られ折り畳み椅子が並べられた簡易休息所と、大規模なプレハブ建造物が建てられていた・・・
【画像30】
[画像上]大和ロケセットと乾ドックを挟んだ対岸にある土産物売店・圭ちゃん食堂・資料館・お手洗いの入ったプレハブ建造物・・・元は撮影時のキャスト・スタッフの食堂・控え室・休息所・床屋・宿泊所・シャワー室・洗濯室・倉庫が設置さられた建物である・・・映画撮影用に建てられたと言うよりは、元々の造船所作業員の為の事務所や休息所の建物を利用した様に感じられた・・・手前は前述の乾ドック水密性扉上に設けられた仮設通路・・・
[画像左下]シャトルバス乗り場前に設けられた仮設テントの簡易休息所・・・話の種に画像の中の爐里椶雖瓩暴颪れている蜜柑果汁ソフトクリームなるものを食べてはみたけれど・・・感想は省略させていただく(汗・・・
[画像右下]一階圭ちゃん食堂入口前・・・残念ながら爐里椶雖瓩暴颪れている大和ラムネソフトクリームなる物は食べなかった・・・

ここで後輩伍長殿と私ATFは、売店内の強硬偵察を敢行した(残念ながら店内は撮影禁止)・・・圭ちゃん食堂(名前の由来は不明・・・多分名物コックさんの名前か、賄いの看板娘の名前であろう)自体は、それ程混んではいなかったが、我々は別途小休止(食事)の計画を後輩伍長殿が立案していたので、ここで食事を摂る事はしなかった(何でも狢舅促レー瓩名物だとか)・・・売店では、大和や映画に関する様々な関連商品・・・大和に関する書籍やプラモデルは良いとしても、饅頭や煎餅など日頃から尾道市内の各観光名所でも売られていそうな商品に無理やり「男たちの大和」の商標ラベルを貼っただけの様なものまで・・・が多種多様に陳列・販売され狂ったように記念の土産物を購入しまくる観光客たちで溢れかえり一種異様な雰囲気だった・・・我々はと言うと、その場の雰囲気に負け、結局記念品を少々購入して(汗)、早々にその場から撤退した・・・その後二階に設置された資料館を見学する・・・ここも館内撮影禁止という事で画像は無い・・・撮影に使用された衣装や小道具、資料パネルの展示と兵員用の烹炊所や居住区のセットが再現され、さらに隣の部屋では、映画のメイキング映像が放映されていたが、特にコレを見なきゃ帰れないぞ・・・と言う程のものでは全くなかった・・・尚、資料館と圭ちゃん食堂の画像を見たい方は【原寸大ロケセット公式WEBサイト[ロケセット情報]】を参照の事・・・こうして、更なる作戦遂行に向け、後輩伍長殿と私ATFは早々に資料館を後にしたのであった・・・
※尾道観光土産品協会によれば、7月17日の一般公開以来、大和ロケセット会場内売店での売上は一ヶ月間で約2,000万円との事・・・

時刻は既に一三○○時近く・・・既に作戦開始から7時間近くが経過しており、我々の身体も些かの疲労に襲われていたが、その疲労は全く心地良い疲労感とも思えるものだった・・・その心地良い疲労感を味わいながら、我々は次なる攻撃目標へ向う為に名残りを惜しみながらも復路のシャトルバスへ乗り込んだ・・・
【画像31】
[画像上]資料館を後にした我々の前には、都合良く復路のシャトルバスが待機していた・・・バス待ちで並んでいる観光客がちょっと多い気もするが・・・ひょっとしたらこのバスには乗れないかも?・・・
[画像左下]予想に反してシャトルバスにはすんなりと乗る事が出来た・・・
[画像右下]しかし、流石に復路では座席に座る事は出来なかった・・・まぁ3分程度(実際の距離は752m)の辛抱なのだが・・・
【画像32】
[画像上]仮設駐車場横についたシャトルバスから降りた我々は、駐車(因みに普通車で駐車料金200円)していた後輩伍長殿の愛車シューマッハ三世号に再び搭乗し、日立造船向島工場跡を遂に後にした・・・さらば大和よ!
[画像左下]午前中とは異なり、向島市街の道路は非常に空いていて順調に進む・・・
[画像右下]さらば向島・・・尾道大橋を通過し尾道市街に入る・・・
【画像33】
[画像左]JR尾道駅付近より対岸の大和ロケセットを望む・・・画像中の中央やや左側の巨大クレーン基部に見える灰色の部分が大和ロケセット・・・
[画像右]そしてJR尾道駅・・・落ち着いた雰囲気の小さな駅舎だ・・・
【画像34】
[画像左上]尾道市街で多少駐車場探しに手間取ったものの、どうにか有料駐車場にシューマッハ三世号を駐車した我々は、第二攻撃目標を目指し徒歩にて進んで行った・・・その第二攻撃目標とは・・・尾道の名物と言えば、そう猗道ラーメン・・・我々は後輩伍長殿がネット情報にて検索し、その数ある尾道ラーメン専門店の中でも最も有名なラーメン店である犲覯擶爿を目指し、不慣れな尾道市街を一歩一歩前進していった・・・やがて前方に何やら行列が・・・
[画像右上]その行列の最後尾に並んでみる・・・微かに見える看板から、ここが第二攻撃目標だという事が判明した・・・平日とは言え、この行列である!・・・大体20m程の行列か・・・待ち時間は少なくても30分は覚悟せねばなるまい・・・
[画像左下]待つ事10分経過・・・行列は10m程前進・・・この分だと予定より早く作戦を達成出来るかもしれない・・・
[画像右下]結局我々は、当初予測した30分よりも早く店内に入店する事が出来た・・・が、流石は人気一番店である・・・食券を購入し座席に着くも、またも暫く待たされる・・・さてやっとの事でお目当ての猗道ラーメン瓩砲△蠅弔韻寝罅垢任呂△辰燭・・・残念ながら店内撮影禁止の為、画像はない・・・

【大和ロケセット野戦OFF・・・遥かなる北部九州軍管区[復路編]】
元来時間をせっつかれて食べる食事が美味いはずもない・・・今回の第二攻撃目標たる尾道ラーメン実食作戦も、残念ながら余り良い思い出とはならなかった・・・その感想はと言うと・・・やはり我々豚骨ラーメン圏で育った人間としては、豚骨ラーメンが最高だッ!という事を改めて実感させられた、と言うものだった(涙・・・
【画像35】
[画像上]第二目標攻撃を完了した我々は、再び車上の人となり、帰還の途に着く・・・尾道市街を順調に走り抜け、一路山陽自動車道を目指す・・・
[画像下]尾道ICに到着・・・時刻は一四五七時・・・さぁ諸君(?)北部九州軍管区へ還ろう・・・
【画像36】
[画像]帰還の途の山陽自動車道上の走行は、至って快調に進んだ・・・ただ流石に長時間の運転に後輩伍長殿にも疲れが・・・私ATFも運転免許は持っているが、ここ三年以上も運転していない身としては、流石に自分の所有でない車での高速運転には自信がない・・・結局全行程の運転を後輩伍長殿にお願いする事になり、誠に申し訳ない次第である(そう思いつつも、私ATFは座席で一人居眠りを漕いていたのだった・・・汗)・・・疲労を少しでも和らげようと途中の厳島SAにて小休止・・・SAに併設された展望台から瀬戸内海を一望する・・・残念ながら霞みがかっており、絶景を堪能出来なかったのが誠に残念の極み・・・
【画像37】
[画像左上]その後も風光明媚な瀬戸内海の景色を横目に見ながら、車は山陽自動車道を快調に進む・・・
[画像右上]我々は確実に九州へ向っている・・・その証拠に進行方向に太陽が沈んで行く・・・
[画像左下]沿線の景色も目まぐるしく変わって行く・・・瀬戸内海沿岸の平野部を車は走る・・・
[画像右下]その後も数度の小休止を取りながら、安全運転に務める・・・さあ本州もまもなく終わり、九州は目前だ・・・
【画像38】
[画像上]やがて我々の目前に懐かしい関門橋が姿を現した・・・さぁこの関門橋の向こう側は我が北部九州軍管区である・・・ホッと安堵の溜息が漏れる・・・
[画像左下]海上交通の要衝である関門海峡の対岸には、門司の街並みが微かに望見された・・・
[画像右下]北部九州軍管区の山並みが優しく我々を迎えてくれた・・・時刻は既に一八○○時を大きく過ぎていた・・・
【画像39】
[画像上]やがて高速道に別れを告げ、我々を乗せたシューマッハ三世号は一路北九州市街へ・・・
[画像左下]門司ICの料金所にて通行料を精算・・・遂に我々は還って来た・・・時刻は一六四○時・・・作戦開始以来、実に12時間を経過し総走行距離は620kmにも及ぶ一大遠征作戦・・・大和ロケセット野戦OFFは、ここに無事完了したのであった・・・(号泣

【大和ロケセット野戦OFF・・・[野戦OFF後日談編]】
観戦OFF実施の翌日から観戦記執筆の準備に取り掛かったのだが、前述のとおり、まずその膨大な撮影画像の整理に手間を取られた・・・観戦記で画像を紹介するには、まず画像をネット上にUPしなければならないが、私が使用しているインターネットサーバーのデータ容量は元々余り大きくなく、今回撮影した画像を全てUPする事は不可能だった。そこでUPする画像を厳選して加工・縮小した。またサーバーへの不可軽減の為、Yahooフォトフォルダーへの画像UPも考えたが、画像へリンクするのに必要な画像アドレスが矢鱈と長くなり、今度はこの観戦記の書き込み字数制限の方に大きな負担となる為、敢え無く断念・・・結局画像のサイズを更に縮小し画質を落としてサーバーへUPする事となった・・・そう言う訳で画像が見難い点はご容赦いただきたい。さて後輩伍長殿が撮影した画像等も一部提供いただき、公開する画像の準備が完了し、いよいよ観戦記の執筆に取り掛かる。ネット上での大和ロケセットに関する情報を検索しながら観戦記の執筆を進めるも、いやぁ〜ネット上には大和ロケセット見学に関する情報のなんと多い事か・・・改めて驚かされる。そして画像も数多く溢れているのだが、結局みんな撮影するポイントは同じなので、どれも似た構図の画像になっている・・・そんな訳で、私ATFが撮影した大和ロケセットの画像の殆んどは、それ程珍しくない(汗・・・まぁ三種軍装で写った記念写真は別だが。そこでネット検索中に見つけた幾つかの画像も紹介させていただく・・・ますは食べ物や土産物に関するもの・・・
【画像40】
[画像左上]これが簡易休息所で私ATFが食べた蜜柑果汁ソフトクリームである・・・見た目は美味そうなのだが・・・
[画像中央上]圭ちゃん食堂の名物大和カレーである・・・他のカレーと何処が違うのか・・・食べてないので味は解らないが、ネット上で食べた人の感想よ読んだ限りでは爐泙襪燃い硫箸離レー瓩世辰人佑・・・しかし軍艦旗ってのも何だかなぁ〜これじゃまるで爐子様ランチ瓩・・・
[画像右上]売店で売っていたレトルトの狠砲燭舛梁舅/YAMATO カレーなる商品・・・なんでも狢舅促曠謄覘瓩量を再現した物だとか・・・これって圭ちゃん食堂のカレーと同じ物なのだろうか?
[画像左下]これが圭ちゃん食堂前の爐里椶雖瓩暴颪れていた狢舅促薀爛優愁侫肇リーム・・・これも食べていないの何とも言えない・・・食べた人の感想では、余り炭酸っぽい味はなく、逆にまったりとした食感だった・・・とか。
[画像中央下]これは後輩伍長殿が購入した狎鏨和舅造隆脇眇なる商品で、中に何が入っていたかと言うと、何と映画の中でも登場した乾パンと氷砂糖・・・後輩伍長殿曰く「乾パンは慣れ親しんだサイズではなく、クラッカーサイズの大きい分でした。自衛隊で使っている分と同じサイズかもしれません。白いのは氷砂糖です。こちらは市販分と変わりありません。しかしちょっと食べるのが惜しい。」との事。確かに乾パンは画像を見ただけですが美味そうです・・・
[画像右下]これは私が購入した狢舅促薀爛有なる商品。入れ物はガラス瓶ではなくペットボトル・・・上に巻かれた紙は、なんと複製された当時の新聞と言った凝り様!何でも旧海軍の艦艇に搭載されていたラムネ製造機は、呉市のラムネ製造メーカーで大正14年創業の中元本店と言う会社の創業者が考案したものだそうで、この狢舅促薀爛有は、その創業当時のレシピを基に再現されたらしい・・・兎も角お陰さまで「ラムネ」という名称の語源は「レモネード」だと言う事を始めて知った私ATFであった・・・
【画像41】
[画像]これは私ATFが購入した牾し海気鵑類麾蝓崔砲燭舛梁舅臓彜間限定オフィシャルバージョン・・・広島県呉市で珈琲一筋46年の昴珈琲店のオーナーが、常連だった元大和乗組員の方の話を基に試行錯誤と試作、試飲の繰り返しの上にようやく再現に成功したコーヒーとの事・・・昴珈琲店サイトにて通販可能です

続いては大和ロケセットに関するもの・・・
【画像42】
[画像上]少年特年兵たちの大和着任シーンの撮影風景・・・画像からも解る通り第一副砲塔は、この時点ではまだ製作されていない・・・
[画像中左]これは大和ロケセットの2005年3月25日完成当初の画像・・・完成当初は第一主砲塔は無くまた艦首部や第一副砲塔も無かった・・・この段階で4億円もの費用が注ぎ込まれていたが「映像に奥行きを出したい」と言う角川春樹氏の一言で、更に2億円の経費と一ヶ月以上もの時間をかけて艦首部及び第一主砲塔、第一副砲塔が製作された・・・
[画像中右]大和の前部木甲板・・・画像ではよく解らないが、結構痛みが酷い・・・実際の材質は防音性や断熱性に優れたチーク材が使用されており、防腐剤として濃茶タールが念入りに塗り込められていた。沖縄特攻時には不燃性塗料で黒く染めていたと言う記録も残っている・・・
[画像下左]対岸の尾道側から撮影した画像・・・大和ロケセットの後部構造が良く解る一枚・・・
[画像下右]更に遠景より望む・・・この画像の方が造船所ドックと工場建造物、巨大クレーンと大和ロケセットの位置関係が良く解る一枚である・・・
【画像43】
[画像左上]追加製作された第一副砲塔を正面から望む・・・やっぱ恰好良いなぁ・・・
[画像右上]艦橋左舷対空兵装区画を正面から望む・・・もう堪らんなぁ・・・
[画像左下]これはネット検索中に偶然発見した画像・・・なんと第二主砲塔って、ちゃんと旋回出来るんだぁ〜ッ!
[画像右下]前回観戦記「従軍記巻二」の【画像20】右下の画像の遠景に写っていたお城の天守閣らしきものの正体とは・・・ネット検索の結果、尾道市内にある標高137mの千光寺山頂から中腹にかけて広がる狎藐寺公園(桜の名勝地)瓩瞭鄒消爾砲△猗道城なる建造物である事が判明。ただし由緒ある歴史的建造物ではなく、昭和39年(1964年)に建てられた全くの観光用の施設。時の尾道商工会議所会頭が観光名所化の一環として、近世城郭の天守閣を模した展望台を建設。建築は鉄筋コンクリートの三層三階、入母屋造りの体裁を取っている。尾道駅の北側の丘陵上にあり、目立つこともあって一時は尾道市のシンボル的な存在ともなったが、結局は歴史的な背景が全くなく、逆に景観を損なうものとして賛否が問われ、1990年代に閉鎖された。現在では公開をやめてしまったため、廃墟と化している。尾道市ではこの建築物の今後の利用法に関して議論をしているが、未だ結論は出ていないそうだ・・・城郭マニアや廃墟マニアの間では結構有名なスポット・・・
【画像44】
[画像上]大和ロケセット上の見学コース順路図・・・今までに紹介した画像は殆んど青い線上の青●地点にて撮影したもの・・・他のネット上に溢れる大和ロケセット画像も大体同じ地点で撮影されている・・・
[画像下]大和ロケセットと呉の大和ミュージアムで展示されている1/10の大和模型との装備配置図をほぼ同率の画像縮尺にて比較したもの・・・如何に大和ロケセットが実物に忠実に再現されているかが、皆さんにも良くお解りいただけると思う・・・

さて、以上で今回の狢舅促蹈吋札奪般鄒錚錬藤峠招概は終演です!全行程約620km、総時間12時間にも及ぶ超駆け足な大強行軍野戦OFFとなりましたが、十分に元の取れた野戦OFFとなりました・・・長大なる全行程を運転に専念していただいた我が後輩伍長殿には感謝の気持ちで一杯です。本当にご苦労様でした!時間があれば大和ロケセットの周辺に点在していた他のロケ地(‐年特年兵常田とその母が最後の別れを交わした古い港町「鞆の浦」⊂年特年兵神尾の故郷「岩子島」少年特年兵神尾が幼馴染の少女妙子と別れを交わすボンネットバスの停留所「串の浜」)や、帰還の途上で寄り道して、呉の海軍兵学校(現海上自衛隊第一術科学校)や大和ミュージアムなども見学したかったのですが・・・まぁ欲張らないで次回野戦OFFのお楽しみ・・・と言う事にして置きましょう・・・か!【続く】

【補記2006/05/31】2006年5月7日に「大和ロケセット」の公開は終了したが、最終的に来場者数は100万人を突破したそうだ。また25mm三連装機銃など一部のセット資材は、呉の大和ミュージアムへの寄贈が決定されたらしい・・・。


【File116】外伝・・・おたくたちの大和〜大和ロケセット野戦OFF従軍記・・・巻二

2006年04月08日(土)

遥か300km以上の行程を乗り越えて、後輩伍長殿と私ATFは遂に尾道市向島の日立造船向島工場跡に辿り着いた。そして遂に旧日本帝国海軍の至宝との対面の時は来た!・・・春休みで観光客で溢れ返る最悪の状況下、私ATFは予てより抱いていた軍ヲタ的願望(既にバレバレですが・・・大汗)を果たして成就させる事が出来るのか?・・・それでは【開演ブザー】・・・今回も携帯電話の電源はそのままで・・・【前回同様、文中の様々な書き込みには資料的価値は全くありません・・・(^o^;A】

【大和ロケセット野戦OFF・・・おたくたちの大和[三種軍装で記念撮影編]】
5分程の短い旅は終わり、我々を乗せたシャトルバスは、日立造船向島工場跡の海側に面したドックヤード区域へと到着。シャトルバスの前後の昇降口のドアが開き、乗客たちは一斉に降車し始めた・・・周囲には聳える巨大クレーンを除けば、暑いくらいの日差しを遮る建造物は全く無い。そんな中を、人々は係員に誘導されるまま歩み始めた・・・料金は一体何処で払うのだろう・・・私ATFは先ほどからその事ばかりが気になっているのだが、一向にその気配はなかった・・・
【画像12】
[画像左上]シャトルバスを降りた我々の前方には聳え立つ一基の巨大クレーンが・・・しかし目を凝らして見ると、その向こうには・・・
[画像右上]係員に誘導されるまま、観客たちは前方の仮設足場に設けられた急な階段へと進んで行く・・・その横には仮設テントが張られ料金支払所のような窓口が設置されているのだが・・・まだ料金を支払う様子はない・・・
[画像左下]係員に誘導されるまま仮設の階段を昇って行く観光客一行・・・ちょっと老人や子供には勾配が急で危ないのでは、と思えるくらいの、良く建設現場等で見かける簡易階段だった・・・
[画像右下]そして階段を昇り切った我々の前に突如姿を現したものとは・・・紛う事なき帝国海軍軍艦の証したる艦首の菊の御紋章・・・遂に戦艦大和(セットだけど・・・)が我々の前に、その偉大な姿を現した!・・・その威光に圧倒された観光客たちは、一様にカメラを取り出し一心不乱に記念撮影を始めていた・・・
【画像13】
[画像左上]画像が小さく、その威容をお伝えできないのは誠に残念の極み・・・明るい日差しを浴び、燦然と照り映える菊の御紋章は、嘗ての帝国海軍の栄華を顕しているかの様であった・・・
[画像右上]艦首横には無造作に団体観光客の記念撮影用に設置された簡易ベンチが置かれており、まるで流れ作業の様に菊の御紋章をバックに、次々と団体観光客たちの記念撮影が行なわれていた・・・その場所から大和ロケセットの全貌が始めて姿を現す・・・既に艦上には大方の予想通り、溢れんばかりの観光客たちの姿があった・・・
[画像左下]天佑神助・・・一瞬仮設足場上の艦首部分の前から観光客が誰もいなくなった・・・早速後輩伍長殿に我がデジカメを託し、私ATFは艦首菊の御紋章の前で立ち位置を確保した・・・そう、これが今回の大和ロケセット野戦OFF作戦における私ATFの最大の目的・・・これぞ軍ヲタ的願望の極み!旧海軍三種軍装を着て大和ロケセット艦上で記念写真に納まると言う事なのであった!・・・
[画像右下]本来ならば、旧海軍の軍服と言えば一般的に思いつくのは濃紺の一種(冬用)軍装や白の二種(夏用)軍装であるが、私ATFは根っからの三種軍装ファンであり、これぞ私服・・・いや至福の一枚なのであった!(尚三種軍装を着ていた事は、幸か不幸か私ATFにとっては後々良い?結果をもたらすのであった)・・・
【画像14】
[画像左上]艦首菊の御紋章を後にした我々は、仮設足場を降りると誘導路に沿って進んだ・・・ここでやっと料金所に至り、乗艦料を支払う・・・これで安心して乗艦し、見学に邁進出来るってものだ・・・この料金所を始めセットや施設各所で係員として従事している方々は、殆んど尾道市民のボランティアなのだそうだ・・・流石は映画の街、尾道である・・・
[画像右上]料金を払い終え、いそいそと大和艦上へと進む我々の前に、遂にその巨大な主砲塔が姿を現した・・・多くの観光客が、この場所で記念写真をとりあえず一枚は撮影する記念写真ポイントである・・・
[画像左下]手摺に軍艦旗が掲揚された緩やかなスループ・・・これは身障者や老人の車椅子専用の乗艦通路らしい・・・
[画像右下]やがて左舷側の艦橋基部や対空兵装群がはっきりと見えて来た・・・多くの観光客が、それらセット構造物の威容さに目を奪われている様だ・・・
【画像15】
[画像左上]さぁいよいよ我々も大和へ乗艦する時がやって来た・・・第二主砲塔左舷に設けられた舷門の階段を一歩一歩踏みしめて昇って行く・・・厭が上にも緊張が昂まる一瞬である・・・
[画像右上]本来ならば、ここには当直士官と衛兵が待ち構えているのだが・・・実際にはボランティアの係員のおじさんが一人、のんびりと後ろ手を組んで立っているだけだった・・・とりあえず艦尾の軍艦旗へ敬礼して(オイオイ艦尾は再現されてないって・・・何故か艦首に日章旗が掲揚されていたが・・・)私ATFは大和の甲板上に一歩を踏み出した・・・
[画像左下]舷門から乗艦して、まず最初に目に入ったのは第二主砲塔下左舷側に設置された九六式三連装25mm機銃座だった・・・
[画像右下]しかし良く出来てるなぁ(感心する)・・・早速この機銃座の前で記念撮影を・・・と思ったのだが、我々の後ろから続々と乗艦してくる観光客の目が、非常に気になる・・・やだッこの人ちょっと変じゃない?・・・なんかそんな風に思われているのでは・・・軍ヲタを気取りながら、ちょっと気弱な私ATFであった・・・もっと根性だせよッ・・・
【画像16】
[画像左]艦上では見学コースの順路が決まっていて、直ぐには艦橋基部区域を見学は出来ない・・・とりあえず舷門付近から艦橋基部区域を望む(その)・・・
[画像右]舷門付近から艦橋基部区域を望む(その)・・・この人たちは、どうやらお昼の食事前のツアーコースに入っている団体観光客御一行の様である・・・
【画像17】
[画像左上]と言う事で我々も見学コースの順路に沿って艦上見学を開始!・・・大和を代表する46cm主砲塔は第一主砲塔と第二主砲塔が再現されているが、何故か第一主砲塔には砲身がない。第二主砲塔のみ砲身が再現されているので、主砲をバックに記念撮影をしようとすると、必然的に第二主砲塔を背景にせざるを得ないのである・・・
[画像右上]と言う訳で、周囲に観光客がいなくなったのを確認(全く小心者め・・・)して、第二主砲塔基部での記念撮影・・・
[画像左下]この画像は、実は見学コースの後半段階で撮影した物なのだが、同じく第二主砲塔をバックにした画像と言う事で、ここに掲載した・・・
[画像右下]続いて第一主砲塔を背景にした記念写真・・・でも第一主砲塔には肝心の砲身がないので、画的に良いアングルにしようとすると、どうしても第二主砲塔を入れてしまうのが人情である(?)・・・
【画像18】
[画像左上]第一主砲塔を後にして、見学コースを艦首方向に更に進み、第一・第二主砲塔、第一副砲塔、艦橋基部方向を撮影した一枚・・・
[画像右上]左上の画像を撮影した地点のは、この画像の中で前方の観光客が立っている通路部分の左舷側である・・・
[画像左下]見学コースは更に艦首方向に続いている・・・何故かこの部分の床には灰色のカーペットが張られていた・・・
[画像右下]これは艦首部の菊の御紋章裏側部分である。中央の支柱の先には日章旗がはためいていた・・・
【画像19】
[画像左上]艦首部分から右舷側見学コースを第一主砲塔方面へと進んで来て、振り返って撮った一枚・・・見よッ!この果てしなく続く観光客の隊列を(これじゃ記念写真撮れねぇ〜よぉぉぉぉ)・・・ここでは係員(緑のジャケットの二人)が第二主砲塔をバックに、各人所有のカメラで写真を撮ってくれるサービスを行っていた・・・まぁちゃっかりと係員が業務用カメラで撮影した記念写真も売り込んではいたが・・・
[画像右上]第一主砲塔横から艦尾方向右舷を望む・・・映画でも殆んど映るシーンが無かった所為か、こちら側には対空兵装等セットは何も設置されていなかった・・・
[画像左下]さて第二主砲塔バックに記念写真に収まる、我等が後輩伍長殿の勇姿である・・・山岳猟兵用のヤッケが決まってるぜッ!・・・
[画像右下]同じく後輩伍長殿の勇姿・・・ちょっと後方位置に下がって撮影した一枚・・・こちらの方が第二主砲塔の大きさを幾らか実感出来る一枚である・・・
【画像20】
[画像左上]右舷下方より第一副砲塔を望む・・・元来副砲は接近してきた敵小艦艇に抗する兵装であるが、航空機の発達した近代戦では無用の長物的存在だった。また副砲塔自体の装甲防御力が弱く、敵からの砲爆撃を受けた場合にアキレス腱となる危険性があった・・・
[画像右上]これは右舷下方より艦橋基部を撮影した一枚・・・残念ながら階段(ラッタル)は立入(昇降)不可・・・残念なり
[画像左下]右舷艦橋基部横に設置された25mm機銃座付近より艦体後部方向を望む・・・こちら側は映画のシーンには直接関係なかった為か、支柱の鉄骨が剥き出しになっている・・・
[画像右下]同じく右舷艦橋基部横の25mm機銃座より、対岸の尾道市街を望む・・・中央山頂にはお城の天守閣らしきものが見える・・・エッ尾道って城下町だっけ?
【画像21】
[画像左上]見学コースに沿って艦橋基部左舷側へと移動・・・待望の九六式三連装25mm機銃を前後左右から細部に渡り観察する事が出来た・・・【画像15】でも25mm機銃の画像が登場しているが、あの機銃はロープで立ち入りが規制されていて、後部や細部を見る事が出来なかった・・・お陰でコチラの25mm機銃は観光客にも大人気である・・・
[画像右上]艦橋基部左舷側に設置された二基の25mm機銃の内の一基・・・コチラは左右の機銃手座席や発射ベダル等が撤去(元々無かったのかも・・・)されており、機銃座内には25mm弾薬箱が無造作に積み上げられていた・・・
[画像左下]コチラは完全再現されていた、もう一基の25mm機銃を後部から撮影した一枚・・・左側俯仰(射撃)手席及び右側旋回手席とも忠実に再現されている・・・周囲に観光客と係員がいなければ、座席に座って是非旋回させてみたかった・・・
[画像右下]同じ機銃を左前方より撮影した画像・・・九六式三連装25mm機銃は、射撃指揮官・俯仰(射撃)手・旋回手・装填手3名・給弾(薬)手3名の計9名にて運用される・・・最大射程7,500m・最大射高5,250m・射速60発/分×3門・・・15発入弾装を使用していた・・・
【画像22】
[画像左上]左舷前方下方よりの15.5cm第一副砲塔・・・この副砲は巡洋艦最上型が、軽巡から重巡に改装される際に撤去された15.5cm砲身を流用したものだが、砲塔自体は大和型戦艦用のオリジナル設計・・・因みに大和新造当時、副砲塔は両舷甲板中央部にも各一基、計四基が設置されていた・・・
[画像右上]九六式三連装25mm機銃の右側旋回手席画像・・・マスコミ用の宣伝プレス映像では、ハンドルを廻して旋回させながら発砲する場面が流れていた・・・
[画像左下]写真を撮りまくっている間に、ふと気がつくと周囲の観光客が疎らになっていた・・・チャ〜ンス!今の内に記念写真を・・・と逸る気持ちで後輩伍長殿に撮ってもらった一枚・・・旧軍兵器の前で写る軍装の写真は、やっぱ良いなぁ!・・・ゲェ〜ししまった後ろに子連れの観光客が・・・グァ〜ン・・・
[画像右下]悔しいので再度記念撮影のチャンスを待ってみたが、いつまで経っても周囲から観光客がいなくならないじゃないかぁ〜(涙・・・そんな訳で、ちょっと裏技を使って周囲の観光客には消えて貰い、ついでに戦時中の写真の如く色調を加工してみました・・・やっぱえぇ〜なぁ〜(大汗・・・
【画像23】
[画像上左右]映画ロケ地探訪の醍醐味と言えば、やっぱコレだよ!・・・映画の中のワンシーンと同じ場所で写真に写る事・・・ココは長嶋一茂氏演じる大和副砲分隊長兼哨戒長の臼淵磐大尉が、少年特年兵たちを前に『死ニ方用意』の訓示をしている場面の撮影場所(・・・と思われる場所)・・・規制ロープが張られていた為に側壁間際まで近づき、同じアングルで撮影出来なかったのだが、左舷艦橋基部区画・・・側壁の鋲止めの形状からして、まずココに間違いないだろう・・・
[画像下左右]レイテ沖海戦時に、中村獅童氏演じる内田守二等兵曹が負傷する場面の機銃射撃指揮・測距器台座(赤○内)・・・ココも危険防止の為に立入(昇降)禁止で、内部の詳細を見る事が出来なかった(残念)・・・こんな風に画像を比較してみると、第二次大戦時の戦場の当時と現在を巡る英国の『AFTER THE BATTLE』誌っぽくて良いですなぁ〜
【画像24】
[画像左上]さて見学コースを更に進み、艦橋左舷後部対空兵装区画へ・・・まず目に入るのが九六式三連装25mm機銃の砲塔型である・・・
[画像右上]そのアップ・・・コレも細部に渡り再現されている(様に思える)・・・しかし砲塔型と言っても大した装甲がされていた訳ではなく、精々機銃掃射や爆風・破片から兵員を守る程度だったそうだ・・・
[画像左下]左前方よりのアップ・・・撮影終了後は殆んどメンテナンスもされてない様で、俯仰(射撃)手側の蛇腹カバーは剥げかけていた・・・
[画像右下]ちょっと砲塔の内部を覗いて見た・・・やはり内部までは手が回らなかったようで、銃身以外は手抜きだった・・・
【画像25】
[画像左上下]見学コースは、艦橋左舷後部対空兵装区画の舷側に増設された25mm機銃の砲塔群と、八九式40口径12.7cm連装高角砲座区画との間の通路甲板を通り艦体後部へと続く・・・観光客の人集りが出来ている場所は、映画の中の沖縄出撃前夜の酒保開けシーンで、反町隆史氏演じる森脇庄八二等主計兵曹が未成年の為に飲酒が出来ない少年特年兵たちに羊羹や餅などの菓子を食べさせていた場所だと思われる・・・のだが確証無し・・・下はその場所にあった防水壁扉のアップ・・・
[画像右上下]同じく艦橋左舷後部対空兵装区画・・・ちょっと観光客が少なくなった頃合を見計らって撮影・・・下は左舷舷側に増設された25mm機銃の砲塔ハッチ部分のアップ・・・
【画像26】
[画像左上]艦橋左舷後部対空兵装区画の八九式40口径12.7cm連装高角砲座・・・高角砲座は甲板より一層高い位置に設置されている為に、内部や細部を確認出来ない・・・最大射程は13,200m・射速900m/秒・発射速度14発/分/門・操作人員12名・・・
[画像右上]12.7cm連装高角砲の砲塔型・・・25mm三連装機銃の砲塔型と同じく大した装甲はされていないらしい・・・
[画像左下]12.7cm連装高角砲群を別アングルから撮影・・・蒼空に向けられた高角砲の砲身の構図が画的に素晴らしいと思うのは私ATFだけだろうか?・・・是非一家の屋上に一基置きたいものだ・・・ってオイオイ・・・
[画像右下]12.7cm連装高角砲塔の下方よりのアップ・・・返す返すも内部や細部を撮影出来なかったのが残念の極みである・・・
【画像27】
[画像左]さて誠に残念ながら艦上見学コースもこれで終了である・・・まぁ再現されたロケセットもここまでしかないのだが・・・仮設された階段を下り、大和に別れを告げる・・・さらば大和よ!大和よ永遠に・・・
[画像右]最後に、これが大和ロケセット構造物を支える鉄骨支柱のアップである・・・
【画像28】
[画像左上]後ろ髪を曳かれ下艦しながら、ふと横を見ると・・・そこには巨大クレーンをバックに増設された25mm機銃砲塔群が並んでいた・・・こうやって見ると、改装の為にドック入りしている戦艦大和って構図に見えなくもない・・・
[画像右上]大和ロケセットを後にしながらもう一枚・・・ちょっと逆光気味になってしまった・・・
[画像左下]さらに一枚・・・となりのドック跡が部分的に入ってしまうが、逆に良い雰囲気を醸し出している・・・
[画像右下]我がデジカメはパノラマ構図で撮影出来ないのが全く残念・・・左舷後部からのセット全体像をイメージする為に撮影した、ついでの一枚・・・
【画像29】
[画像左上]さて大和ロケセットは、日立造船向島工場(造船所)跡の乾ドックをベースにして組み立てられているのだが、これはその隣にある多分同じ型式と思われる乾ドックを望む一枚・・・因みに手前を歩いているのは後輩伍長殿・・・
[画像右上]ちょっと逆光気味だが、乾ドックと巨大クレーン、工場建造物の配置が良く解る一枚・・・
[画像左下]これは乾ドックの水密性扉・・・船舶を乾ドックに入渠させた後に、この水密性扉を閉め内部の海水を排水し、船舶の底部を露出させる為の設備だ・・・現在はこの水密性扉上の通路が、見学終了後の帰りのシャトルバス乗り場へと続く仮設通路となっている・・・
[画像右下]乾ドックの内部構造が良く解る一枚・・・乾ドックの底部の突起物は、入渠した船舶を、海水排水後も直立させる支えとなる船台の基礎部分である・・・

こうして我々は無事大和ロケセットの見学を終える事が出来ました・・・多少のトラブル等はあったものの、映画のロケセットとは言え旧日本帝国海軍の至宝・・・戦艦大和を体感出来た事は、ミリタリーおたくとしても、また戦争映画ファンとしても非常に実りある経験になりました・・・更にまた三種軍装での記念撮影は何より良い思い出となった事は言うまでもありません・・・ところで一種や二種軍装ではなく三種軍装を着ていて幸運だった事とは一体何だったか?・・・そう一種や二種軍装ほど認知されていない三種軍装のお陰で、殆んど周囲にいた一般の観光客には気にも止められなかったって事です(汗・・・多分一種や二種軍装だと結構目立ったはずですが、三種軍装はその辺の作業服っぽいですからね(映画の中にも登場してましたが一般の観客は覚えてないでしょう)・・・大和の甲板上を、三種軍装で歩いていても、結局殆んど注視される様な事はありませんでした・・・まぁ複雑な気持ちではありますが・・・さて次回は、大和ロケセットの見学を終え更に第二攻撃目標へと向かう我々の前途や如何に・・・乞うご期待(コレばっかしやなぁ)・・・【まだまだ続きます】


【File115】外伝・・・おたくたちの大和〜大和ロケセット野戦OFF従軍記・・・巻一

2006年04月07日(金)

さて前回、実に四ヶ月振りの狎症戦線異状なし甦兩鏥を執筆し早一週間・・・その文末で犲造郎2鵑隆兩鏥執筆の影で、巨大なるプロジェクトが侵攻・・・いや進行しておりました。その詳細については当観戦記にて堂々近日公開予定・・・乞うご期待などと大層な御託を並べておりましたが、その巨大なるプロジェクトに関する観戦記がなんとか完成しましたので、ここにご紹介させていただきます・・・今回は文章の執筆よりも画像の加工に痛く手間取りました・・・デジカメによる総撮影画像数は187枚・・・その中から同じ構図の物や震動による振れの酷い(我がデジカメは旧式で手振れ補正機能が無い・・・涙)画像を篩い落としたのは良いのですが、それでも100枚を超える画像が・・・生姜無く画像を組み合わせるなどして何とか四分の一弱まで減らしたのですが・・・それでも40枚以上の画像を添付する羽目に・・・いやぁ〜全く参りました。それでは泣き言はこれくらいにして、早速【開演ブザー】・・・今回は携帯電話の電源はそのままで・・・【今回も文中の様々な書き込みには資料的価値は全くありません・・・(^o^;A】

【そうだ、大和に行こう!】
もう昨年7月1日の事になりますが、ネット散策中に東映製作映画「男たちの大和/YAMATO」の戦艦大和実物大ロケセット一般公開を知った私ATFは、我が観戦武官次室に早速祝「男たちの大和/YAMATO」実物大ロケセット一般公開決定!なるスレッドを立て『呉の大和ミュージアムとまとめて野外観戦OFF会やりたいですなぁ〜』なんて書き込んだ。京都の太秦映画村や大阪のUSJなど日本各地の映画関連テーマパークで、映画のセットや撮影風景等を体感する事が出来るが、戦争映画となるとそうは行かない。過去製作された邦画戦争映画では、空戦や海戦シーンの大部分は映画製作会社のスタジオ内でのミニチュア特撮(最近ではCG)、そして陸戦シーンは自衛隊の演習場や北海道の広大な荒野での撮影が主で、我々の様な一般の戦争映画ファンがロケ現場を見学したいと言っても、そう簡単には見学する事は出来なかった。そんな事から考えると、今回の尾道商工会議所(広島県)など5団体で組織する「大和ロケセット公開推進委員会」が決定した大和ロケセットの一般公開は、実に歓迎すべき決定だったのである。観戦武官次室にスレを立てた二日後の7月3日、Unteroffizier氏(以下:後輩伍長殿)より爐爾辧△いたいですね。こういうのはなかなか見れるものじゃないですし、あるうちにいきたいですね。とのレスが書き込まれ、更にその二日後の7月5日に開催された第三回北部九州軍管区(obisan技術大佐殿迎撃)OFF会においては、obisan技術大佐殿が欧州降下作戦時に実施された『荒鷲の要塞』及び『掠奪戦線』ロケ地探訪の成果報告が行なわれ、厭が上にも大和ロケセット野戦OFF開催の気運は(内輪では・・・)盛り上がって行ったのだった。

※なおobisan技術大佐殿の貴重な『荒鷲の要塞』及び『掠奪戦線』ロケ地探訪報告については、観戦武官次室において公開していただいたのだが、残念ながらレスの保持期限切れの為に現在では既に見る事は出来なくなっている。ただ『掠奪戦線』ロケ地探訪報告「掠奪戦線」〜レヒ川を越えて〜』については、我が朋友安曇重工様のホームページの情報掲示板にて見る事が出来る。

【1941年12月16日 大和竣工!】
さて大和ロケセットの一般公開は二週間後の7月17日から・・・だったのだが、実際野戦OFFを開催するとなると、その前には大きな壁が立ちはだかっていた・・・そう時間と距離という壁である。さて時は流れ半年後・・・12月17日、遂に『男たちの大和/YAMATO』の全国での公開が始まった。年末公開の映画は12月中旬の土曜日から公開開始と相場は決まっている。大体12月の14日〜17日位である。昨年は12月17日だった訳だが、奇しくもその前日の12月16日は64年前の1941年に旧日本海軍の戦艦大和が竣工した将にその日であり、こんなしっかりした理由があるのだから全国公開を一日位前倒しにしてもいいじゃないかなんて素人考えで思ったりもしたのだが、やはり映画業界における興行成績を計測する基準の為、他の年末公開映画と公開の足並みを揃えなければならなかった様だ。因みに12月16日って日にはこんな事も起こっている・・・付け加えれば、一部の方々は既にご存知だが、私ことATFの誕生日でもある・・・(大汗。全国公開から四日後の12月20日・・・スケジュールに都合のついた私ATFと後輩伍長殿は、連れ立って地元の映画館にて『男たちの大和/YAMATO』を観戦した。観戦後に早速観戦記を書こうかとも思ったのだが、元来観戦記は、一般に余り認知されていない作品を紹介して、広く観戦を薦めようというポリシーがある(汗)。この『男たちの大和/YAMATO』については、ネット上でザッと検索しただけでも多種多様なサイトやブログ、掲示板で、戦争映画ファンのみならず映画ファンや一般の方々の間で良きも悪しきも様々な意見が述べられ、交換され、その反響の大きさが想像出来た為、今更観戦記を書いてもなぁ・・・なんて思えて、結局観戦記を執筆する事はなかった。さて『男たちの大和/YAMATO』観戦後、後輩伍長殿と食事を摂りながら、感想等とともに大和ロケセット探訪についても話題となったが、やはり時間と距離という壁の為に、具体的な野戦OFF実行へ一歩を踏み出すまでには至らなかった。

【大好評につき公開期間延長決定!・・・時は至れり】
年が明け、ひと月が過ぎた今年2月3日に開催された第五回北部九州軍管区(obisan技術大佐殿迎撃)OFF会の席上においても、再び大和ロケセット探訪野戦OFF実施について話題となったが、この期に及んでも、やはり具体的な実行計画策定には至らなかった・・・大和ロケセットの公開期限まで残り二ヶ月弱・・・このままでは折角の機会を生かす事なく、計画は露と消えてしまいそうな状況に陥っていた。ところがその日を遡る事4日前の1月31日、なんと尾道市は大和ロケセットの一般公開期限を、観光行楽のピークであるゴールデンウィーク明けの今年5月7日まで延長する事を決定していた!なんでも大和ロケセットへの入艦者数は、1月末現在で約55万人、3月末現在では70万人突破が予想されており、観光都市尾道市としては、今や立派な観光名所となった大和ロケセットを、このまま当初の予定通り3月末にて公開終了とするのは余程惜しくなった様だ。国内観光・行楽のピークであるゴールデンウィークまで一ヶ月以上の延長する事により、あわよくば80万人程度の来艦者数を見込んでいるのかもしれない。実際3月25日段階で来艦者数は70万人を突破したそうだ。公開延長により、野戦OFF実施の可能性に一部の希望の光が差したにも関わらず、その後も悪戯に時間は過ぎ、3月も終ろうとしていたある日の事、私ATFの下に後輩伍長氏から一通のメールが届いた・・・それによれば、後輩伍長殿のスケジュールに目処がついたので、この機を逃さずに大和ロケセット野戦OFF作戦を決行しましょう・・・という内容だった。そうと決まれば、事は早急に進めねばならない!その後数度のメールが遣り取りされ、予てより収集した情報を基に、急遽大和ロケセット野戦OFF作戦実施計画が立案・決定された・・・!

【中国・山陽道横断三百キロ】
後輩伍長殿との間で取り交わされたメールにより、野戦OFF作戦実施計画は以下の通り決定された・・・
大和ロケセット野戦OFF実施計画
〆鄒錣老佝饑疚鵑琉戞⊆家用車利用による長距離侵攻作戦とする
※北部九州軍管区からJR新幹線を利用した場合、行程的には二時間弱で尾道へ行く事が出来るが、交通費は往復で一人20000円程度掛る。自動車ならば高速料金+燃料費で一人12000円程度で実施可能。使用車両は後輩伍長殿愛車爛轡紂璽泪奪六粟す罩
休祝祭日は混雑が予想される為、平日3月27日(月)の作戦発動とする
※片道四時間(休息込)程度予想される為、作戦開始時刻は○六三○時、現地での行動時間(セット見学)は一一○○時から一四○○時まで・・・帰着予定時刻一八○○時・・・往復600kmを超える日帰り強行軍となるも、参加将兵の士気旺盛なり!
こうして作戦決行の準備は日々順調に進み、早くも決行日前日の3月26日。早朝の作戦開始の為、寝坊をしない様に早めに就寝するも極度の興奮状態により中々寝付けない私ATFは、数日前から社団法人尾道観光協会主催の大和ロケセット公式サイトにて調べ、プリンタで印刷していた侵攻ルートや現地地理、尾道市内駐車場等の情報綴りを何度も何度も見直していた。しかし中々眠れない理由は、それだけではなかった・・・実は私ATFには、予てより大和ロケセットをもし見学する事になったら是非やりたいと思っていた願望・・・それは極めて軍ヲタ的であった・・・があったのだが、実際その願望の実現が序々に近づきある事が、ヒシヒシと身体全体で感じられており、それが不眠の最も大きな原因に外ならなかったのである・・・果たしてその願望とは・・・(引っ張るなぁ〜)

【大和ロケセット野戦OFF・・・遥かなる大和[往路編]】
興奮で中々寝付けなかったものの、何時の間にか眠りに落ちていた私ATFは、寝坊防止の為にWでセットした2台の目覚まし時計の時差式アラームによって目を覚ました・・・○五四五時・・・眠い目を擦りながら洗顔。歯を磨き髭を剃り着替えを済ませ、後輩伍長殿からの出発連絡電話を待つ。○六一○時を過ぎた頃、後輩伍長殿が自宅を出発する旨の電話連絡が入る。さぁいよいよ作戦開始である・・・
【画像1】
[画像上]自宅の玄関から一歩外に出ると、小倉の街はまだ日も昇っておらず、2km程離れたマンション群は霧に霞んでいた・・・
[画像左下]自宅マンションの脇を走る幹線道路は月曜の朝だと言うのに、未だ車通りも殆んど無い・・・
[画像右下]待つ事暫し・・・後輩伍長殿が愛車シューマッハ三世号にて到着。早速搭乗し、いざ出発!
【画像2】
[画像左上]自宅近くのランプより北九州都市高速に入る・・・
[画像右上]漸く朝日が昇って来た!・・・
[画像左下]都市高速上も未だ交通量は疎らである・・・
[画像右下]○七○○時、関門橋を通過。さらば九州こんにちは本州。因みに私ATFが関門橋を渡るのは、なんと20年振りである!
【画像3】
[画像左上]シューマッハ三世号は一路中国自動車道を突っ走る!が突然視界が早朝の濃霧で遮られる・・・大体視界100mくらいだろうか?止むを得ず安全の為、速度を落とす事に・・・
[画像右上]○七四○時小郡を通過。やがて中国自動車道から山陽自動車道へ進路変更・・・
[画像左下]JR山陽新幹線と同じく、山陽自動車道もトンネルが多い・・・トンネルを抜けると、そこは・・・またトンネルの連続である・・・
[画像右下]○八一○時、下松SAにて小休止。遅い朝食をとる。ここは小倉より148km・・・ようやく中間点と言ったところか・・・
【画像4】
[画像上]○九三九時、小谷SAにて再び小休止・・・
[画像左下]最近のSAにはパン屋さんが出店していて、焼きたてのパンを売っているって事を始めて知った・・・
[画像右下]SAの観光案内所の壁の貼られていた案内件数BEST5のポスター・・・な、ななんと「大和ロケセット」が堂々の一位!こりゃひょっとすると・・・なんか厭な予感が・・・
【画像5】
[画像左上]一○○三時、小倉を出発して早三時間半!遂に尾道ICに到着・・・しかし、ここでは高速を降りず、さらに山陽自動車道を先へと進む・・・
[画像右上]一○一七時、福山西ICに到着・・・ここでやっと中国自動車道に別れを告げる・・・
[画像下]福山西IC料金所通過し西瀬戸道(通称;しまなみ海道)を向島方面へ・・・遂に300kmもの道のりを走破!目指す大和ロケセットまであと僅かである・・・
【画像6】
[画像左上]西瀬戸道を降り尾道と向島とを繋ぐ尾道大橋を目指す・・・
[画像右上]尾道大橋通過!・・・
[画像左下]対岸には目指す向島の街並みが・・・
[画像右下]尾道大橋を渡り終え、向島市街へ・・・ところが急に道路が込み出した・・・再び悪い予感が脳裏を過る・・・

【大和ロケセット野戦OFF・・・大いなる不安[現地到着編]】
300kmを超える長距離走破を終え、後輩伍長殿と私ATFは大和ロケセットのある尾道向島に無事到着した!当初の予測通り走行時間は四時間に達していた。既に太陽は空高く昇り、車内は熱い程の温かさである。途中の小谷SAでの案内件数のトップ項目が大和ロケセットであった事から、既に悪い予感はしていたのだが、向島市街に到着した途端に道路が混み出し、我々の悪い予感は一層大きなものとなっていた・・・しかし兎も角現地へ到着しなければ・・・向島市街の地理に不案内ながらも我々を未知なる道を進んで行った・・・
【画像7】
[画像左上・右上・左下・右下]なんと向島市街のあちらこちらには無数の誘導標識やのぼりが設置されていた・・・お陰で我々は不案内な道ながら安心して進撃する事が出来た!
【画像8】
[画像左上・右上・左下・右下]現地に近づく程に至れり尽せりな誘導標識が続く・・・尾道市も結構なお金をかけてるなぁ・・・
【画像9】
[画像左上]一○三四時、遂に現地(日立造船向島工場・造船所跡地)に到着する・・・画像左手側には尾道市街からの渡船乗場があり、多くの観光客が続々と下船していた・・・
[画像右上]日立造船向島(西)工場は、戦時中旧日本海軍の輸送艦等を建造していた。また一時連合軍捕虜収容所が併設され、捕虜が使役に従事させられていた。戦後は日本の海運事業復興に貢献し捕鯨船・タンカー・旧ソ連向マグロ漁船など最大3万トン級の船舶や小型船舶を造っていたが、2002年に日立造船の子会社再編に伴い工場は閉鎖された・・・古びた工場内の案内看板が歴史を感じさせる・・・
[画像左下]工場内の仮設駐車場へ向う車列・・・既にお気づきかも知れないが、我々の直前の黒いツーリングワゴン車は、画像6の右下画像及び画像8に写っている車両と同一車両で、なんと和歌山ナンバーであった!・・・
[画像右下]工場内仮設駐車場・・・既に多くの自家用車が駐車していた・・・我々も係員に誘導されるまま駐車した・・・さぁいよいよ大和と対面だ・・・
【画像10】
[画像左上]降車した我々は、係員に誘導されるままシャトルバスを待つ行列の後ろに並ばされた・・・工場跡地は広く、海に面したドック跡に作られた大和ロケセットまでは結構な距離がある為、シャトルバス・・・と言っても普段は尾道市内を循環している様な、ちょっと使い古された中型定期ワンマンバスを転用したもの・・・が往復している。春休み中な為か観光客(見学者)には子供も多く見られた・・・
[画像右上]我々が並んだ時は、結構な人数の行列が出来ており、こりゃ随分待たされるのでは・・・なんて不安な気持ちにさせられたのだが、そんな不安に反して、シャトルバスは次々に規則的に運行され、それほども待たずに乗車する事が出来た・・・
[画像左下]料金はどこで払うのだろう・・・という疑問の答えも出せないままシャトルバスに押し込まれて行く・・・個人も団体も区別無く・・・
[画像右下]シャトルバスの車内は寿司詰め状態・・・我々は運良く座席に座る事が出来たが・・・まぁ座席の狭い事と言ったら・・・
【画像11】
[画像左上]詰めるだけ詰め込んで、やっとの事でシャトルバスが発車・・・しかし未だシャトルバス乗り場には長蛇の列が・・・
[画像右上]閉鎖された工場内の建造物の横を進むシャトルバス・・・
[画像左下]閉鎖された工場内の建造物・・・ちょっと噂に聞いた話では、この向島工場でもアスベスト被害が出ているとか・・・桑原桑原・・・
[画像右下]日立造船向島工場内の巨大クレーン六基の中の一基。実はこれら高さ92m〜37mの巨大クレーン六基は、夜間それぞれ白、緑、青、赤、黄、紫のカラーでライトアップされ、尾道水道の水面に美しい光を煌めかせ港町を幻想的な雰囲気に包み込む演出によって2004年度環境デザイン部門グッドデザイン賞を受賞しているのだそうだ・・・

遥か300km以上の行程を乗り越えて、遂に尾道市向島の日立造船向島工場跡地に到着した後輩伍長殿と私ATFの前に、遂にその姿を現す帝国海軍の象徴・・・平日でありながらも春休みという最大の誤算に遭遇しながらも、我々は突き進む・・・次回『大和ロケセット野戦OFF従軍記・・・巻二』を乞う期待!【やっぱ続くぜッ】

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