ATFの戦争映画観戦記



【File103】マカロニ戦線異状アリ・・・珍説イタリア戦争映画史《補説》

2004年02月01日(日)

なんと、掟破りの久々な連続書き込みです・・・。《序説》では大半を�犢啅抬瓩破笋瓩討靴泙い泙靴燭里如△泙,�詫びみたいなもんですが。それでは【開演ブザー】毎度の事ですが携帯電話の電源はお切り下さい・・・【今回に関しても、前回の如く本観戦記には史料的価値は�狒瓦��瓩△蠅泙擦鵝�

【次はイタリア抜きでやろう・・・!】
戦争映画に登場するイタリア軍は、多くの場合「軟弱な勝てない軍隊」として描かれています。ある時、日本人とドイツ人そしてイタリア人が、ヨーロッパのある酒場で酒を飲んでいたところ、イタリア人が真っ先に酔い潰れて寝てしまった・・・その時ドイツ人が日本人に耳打ちして言うには「次はイタリア人抜きでやろう・・・」なんてブラックジョークな笑い話があるくらい。しかし本当にイタリア軍は弱かったのでしょうか・・・イタリア軍が勝つ映画で思いつくのは「砂漠のライオン(LION OF THE DESERT/1981)」くらいですか・・・しかし第二次大戦開戦時のイタリアには、ヨーロッパでも有数の兵力を持つ陸軍があったし、ドイツ海軍の数倍の艦艇を保有する海軍を持ち、サボイアマルケッティ爆撃機やマッキ戦闘機など優秀な航空機を持つ空軍も結構充実した戦力を持っていました。では何故「イタリア軍は弱い」という風潮が浸透してしまったのか・・・考えられるのはイタリアが第一次大戦では戦勝国となった為に、軍部の組織的改革が遅れ、また大規模な遠征に伴う補給戦の観念が欠如していた事。ナポレオン亡後オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった北部諸都市が独立。サルデニア国王ヴィットリオ・エマヌエルニ世は、カブール、ガリバルディ将軍等と共に独立と統一を叫び、1870年9月20日イタリア王国が成立しました。第一次大戦ではドイツ帝国、オーストリア・ハンガリー帝国との三国同盟から脱退、連合国側で勝利しますが、戦争に勝ったからと言って昔の戦争の様に広大な領土を戦利賠償として手に入れ大きな利益を得られる訳でもなく、また1929年以降の世界恐慌の煽りで国家経済は破綻、社会不安は増大し、ドイツと同じくファシズムが台頭します・・・ムッソリーニは1919年に黒シャツ党を結成、国民の支持を得て、1922年10月ローマ進軍後、国王ヴィットリオ・エマヌエル三世から首相に任命されファシスト政権を樹立、その後ドイツ、日本と共に三国同盟を締結します。しかしドイツが敗戦から復興する為に、ファシズムによって国内を強力に纏め上げ、最新の軍備を再建したのに対し、ムッソリーニはヒトラーほど独裁態勢を固められず、結局は第一次大戦型の古い組織をそのまま引き継いだ軍を、俄か政権のファシストが率いて、経済を立て直す糸口を北アフリカに求め「地中海を再びイタリアの海に」と叫んでいただけ・・・。ドイツのポーランド侵攻に始まった第二次大戦に1940年6月10日イタリアも参戦・・・ムッソリーニは、この戦争で「戦勝国」となる為に早期参戦が必要であると判断・・・。しかし結局北アフリカにおける英軍と戦いに敗北。第一次大戦から発達していない補給軽視の軍組織機構では、百戦錬磨の英軍に勝てる訳がない。結局同盟国ドイツのヒトラーに泣きつき、独軍部隊が北アフリカに派遣され、ロンメルにより英国はスエズ運河を放棄する一歩手前まで追い込まれます。しかしここに至って、イタリア軍の軍組織機構が又も足を引っ張ります。地中海経由のアフリカ派遣部隊への補給路護衛はイタリア海軍の任務でした。これはジブラルタル海峡を英国が押さえている為、独海軍が地中海に艦隊を派遣出来なかった事によるのですが、世界でも有数の海軍戦力を持ちながら、地中海という「井の中の蛙」だったイタリア艦隊は、世界の七つの海で鍛えられた英国海軍の敵ではありませんでした。イタリア海軍の巡洋艦や駆逐艦は「世界で最も美しい軍艦」と言われ、優雅な艦体と高速を誇っていましたが、反面防御面に弱いという欠点を持っていました。低速の輸送船を護衛する為には、高速性は殆んど役に立ちません。逆に低速でも撃たれ強い艦体が必要なのです。その為、結局は地中海の制海権を握る事は出来ず、逆にイタリア本土の軍港の中に逃げ込む始末。こうして北アフリカ方面への補給路は閉ざされ、最終的に北アフリカの枢軸軍は敗退・・・大量の捕虜を出してしまいます。イタリア軍にも戦車師団や空挺師団、空軍、海軍の魚雷艇や特殊作戦部隊など勇猛で鳴らした部隊は幾つもありました。しかし西洋の軍隊には、日本兵の様に武器弾薬や食料が無くなっても「玉砕」までして戦い抜くなんて観念はありません。所詮この戦争はファシスト=ムッソリーニが始めた戦争です。当時のイタリアは、国王ビットリオ・エマヌエル3世を君主と仰ぐ王国でした。ファシスト(黒シャツ党)が政権を握り、ムッソリーニが党首=統領(DUCE/ドーチェ)として君臨していましたが、政府内での彼の役職は首相。イタリア軍はムッソリーニの軍隊ではなく王国の軍隊・・・軍人たちはムッソリーニではなく国王に忠誠を誓っていました。この辺は総統ヒトラー個人に忠誠を誓わされた独軍人とは異なります。「腹が減っては戦は出来ない」・・・結局、武器弾薬、食料の補給もないイタリア兵たちには、ムッソリーニの為に死ぬなんて考えはありませんでした・・・旧式な装備と戦術、武器・弾薬・食料等補給の欠乏の中、イタリア兵たちは善戦したのですが、敗退が続き厭戦の空気とムッソリーニへの不満が増加、前線では禄に抵抗もせずに降伏する将兵が相次ぎ、1943年3月イタリア国内で大規模な労働者のストライキが発生し軍需生産が停止、前線の物資不足に一層拍車を掛ける事となります。また東部戦線でのイタリア軍は、他の枢軸軍(ハンガリー軍やルーマニア軍等)と同じく、長く伸びた独軍戦線の穴埋め的に配置されていましたが、一般的に独軍よりも装備が悪く士気も低かった為、ソ連軍の集中攻撃で早々と敗退してしまいました。こうして北アフリカでの敗北と東部戦線での瓦解、海軍主力艦の消極的な行動が、独軍人気が高まる中で「独軍のお荷物」的な存在として「イタリア軍は弱い」というレッテルを貼ってしまったと思われます。

【イタリアは第二次大戦の戦勝国だって?】
イタリアでは数々の戦争映画の名作が生まれているのは皆さんもご存知の通り。しかし、それらの作品の特徴、生まれた背景について語る前に、イタリアが北アフリカの敗戦以降に歩んだ歴史を知っておく必要なあります・・・えッ、イタリアって枢軸側の敗戦国じゃなかったの?・・・それではイタリア終戦秘史の始まり始まり〜ッ!

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1943年4月以降北アフリカの独伊軍は敗走し、5月中旬、遂に25万以上の独伊軍将兵が降伏し、北アフリカでの戦闘は終結・・・戦場はシチリア島〜イタリア本土へと移って行く。国内での厭戦気分も高まり、1942年春頃から密かに反ムッソリーニの動きも活発化・・・中心になったのは、なんとムッソリーニの長女エッダの夫の外相チアノや参謀本部のジュゼッペ・カステッラーノ准将たち。1943年7月10日連合軍のシチリア侵攻「ハスキー作戦(英第八軍モンティ/シラクザ方面&米第七軍パットン/アグリジェンド方面:総兵力16万)」の開始により、ファシスト政権は動揺。ムッソリーニは、参謀総長カバレロ元帥を更迭し、アンブロジオ元帥を後任に任命し軍部人事や内閣改造で急場を凌ごうとした。7月24日ファシスト評議員たちの要請により、ヴェネチア宮において開戦以来三年半ぶりに最高諮問機関であるファシスト大評議会が開催される。夕刻から始まった評議会は翌朝未明まで延々10時間以上も続き「統帥権の国王への返還=立憲君主制への復帰」と言う下院議長で古参ファシスト党員ディノ・グランディが起草した動議が提出され、賛成19(娘婿の外相チアノを含む)反対7棄権2によって採決、更にムッソリーニに対し統領辞任が勧告された。翌日未明に評議会が終了。その夕刻ムッソリーニは評議会の結果を奏上する為に、国王ヴィットリオ・エマヌエル三世の離宮へ参内。この時ムッソリーニは、まだ国王が自分を支持してくれるもの、と期待していた。しかし国王はムッソリーニの首相職を解任、身の安全を確保するという名目でカステッラーノ准将に命じ逮捕、監禁させる。7月28日ファシスト党は解散を命じられ、こうしてイタリアのファシスト体制はあっけなく崩壊した。
�▲丱疋螢�新政権の誕生
8月11日独軍がシチリア島からの撤退を開始。ムッソリーニに代わり新たに首相に任命された元(ギリシャ侵攻時)参謀総長ピエトロ・バドリオ元帥が率いる新政権は、駐伊独軍対策として「戦争継続」を宣言したが、反面カステッラーノ准将を代表として、連合国との休戦交渉を秘密裏に進めていた。カステッラーノ准将は、ポルトガルのリスボンにおいて英国大使と接触した後、本格的は休戦交渉に入った。しかし連合国側が要求したのは完全なる「無条件降伏」・・・しかし、その後紆余曲折を経て、イタリアの対独宣戦布告を条件に「無条件降伏」は「長期休戦」に変更された。連合軍がメッシナ海峡を越えてイタリア本土に上陸した9月3日、シチリア島シラクサ近郊カッシビレにおいて、連合国との休戦協定が締結され、表面上の連合国との戦闘は終結。この時点でバドリオ新政権側には、イタリア本土上陸作戦の決行は二週間先と伝えられていたのだが、結局9月8日に早まり、慌てた国王とバドリオ新首相は、駐伊独軍の逮捕から逃れる為に急遽ローマを脱出、新政権をイタリア南端アドリア海に面した都市ブリンディジに移した後、連合軍との休戦協定の発効とムッソリーニの首相罷免を公表。10月18日ドイツに対して宣戦を布告した事により、連合国側から「共同交戦国(CO-BELLIGENT)」という地位を与えられた。アイゼンハワー連合国軍総司令官は「イタリア政府はその軍隊を無条件に降伏させた。本職は軍事的休戦を許可し、米英ソ三国政府の承認を得た休戦条件を認めた。休戦協定は本職とバドリオ元帥との代表によって調印され、この瞬間に発効した。イタリアの国土からドイツ侵略者を駆逐するために援助する全イタリア人は、連合国の支持と支援を受けるであろう」との声明を発表、こうしてイタリアは連合国側となった。この後、多くのファシストがローマを去り北部イタリアへ逃走、一部はスイスまで逃亡した。
�F鳩魁�中北部イタリア占領・・・ムッソリーニ奪回
一方駐伊独軍は、イタリア休戦の情報を既に掴んでおり、8月末までに既に8個師団が増援としてイタリアに派遣され(総兵力20万)、休戦発効と同時にナポリ以北の中・北部イタリアを占領、ギリシア・エーゲ海地域や東部戦域を含む各地のイタリア軍を迅速に武装解除、抵抗する者は射殺した。9月8日ナポリが市民の蜂起によって解放され、その翌日9日に連合軍はナポリ南部のサレルノに上陸したが、駐伊独軍の強固な防衛線(ローマ防衛線でモンテ・カッシーノを含む�爛哀好織媽���・・・因みにフィレンツェ〜ボローニャ防衛線は�爛乾船奪�線��)に前進を阻まれる。この時ムッソリーニは逮捕以来、奪回を恐れた新政府側によって各地を転々として監禁生活を強いられていた。ヒトラーにムッソリーニ救出を命じられた親衛隊大尉オットー・スコルツェニーは、ローマ東方アペニン山脈の標高2914m地点にあるグラン・サッソ山荘(三方を山で囲まれ麓との交通手段はケーブルカーのみ。約100名のカラビニエリ(国家憲兵隊)部隊が警備していた)にムッソリーニが監禁されている事を突き止める(警備に関わったイタリア警察の高官がリークしたと言われている)。9月12日午後2時スコルツェニー指揮下の武装SS及び空軍の混成降下猟兵部隊が、グライダー12機に搭乗、山荘前面の僅かな平地に強行着陸(着陸成功8機)・・・警備のカラビニエリ部隊は簡単に降伏。山荘内からムッソリーニを無事救出し、距離離着陸が可能なフィーゼラーシュトルヒ連絡機でムッソリーニとスコルツェニーは脱出、残った独兵たちは悠々とケーブルカーで下山した。ヒトラーはスコルツェニーや救出部隊員の功績を称え、叙勲・昇進で応えた。
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9月13日ミュンヘンに到着したムッソリーニとヒトラーが再会、熱い抱擁を交わす。ヒトラーは心身ともに憔悴して気力を失っていたムッソリーニに対し、再度政権掌握を勧め、9月18日ミュンヘンにおいてイタリア社会共和国(Repubblica Sociale Italiana=RSI/俗称:サロ共和国)の建国を宣言させた・・・イタリア北部ガルダ湖畔の避暑地サロに政府庁舎を置き、伊ファシスト政権の存続を図るが、所詮はナチス・ドイツの傀儡政権(領土のない名前だけの国で、最早ムッソリーニは何の実権も無いお飾り)に過ぎなかった。1943年11月半ば、新生共和ファシスト党の第一回会議がヴェロナで開催され新国家の憲法と基本方針が発表され、更にはユダヤ人を敵性外国人と見なす反ユダヤ主義的宣言が行われた。以前イタリアでは反ユダヤ的な政策は執られていなかった為、これらはナチス・ドイツの影響を多大に受けていると言わざるを得ない。結局、サロ共和国では1943年末までに1万人以上のユダヤ人が強制収容されたと言われている。更にムッソリーニが逮捕される切欠となった「ファシスト大評議会」の席上で「統帥権の国王への返還」決議に賛成した「反逆者」への報復裁判も行われた。特に偽造旅券でスペインに逃亡中、身柄を拘束されドイツに送致された娘婿で元外相のチアノの処遇が注目された。逃亡に成功して欠席裁判となった13名を除く6人については、1944年1月8日から三日間、ヴェロナのヴェッキオ城で裁判が行われた。被告たちは「旧体制内における政権の改善を求めただけ」と無罪を主張したが、既に判決の筋書(多分にドイツ側の影響があった)は出来ており・・・当然の如く「死刑」判決が下され、翌日11日午前9時に処刑は執行された。サロ共和国には一応軍と呼べる組織があったが、その実態はファシスト党の私兵「黒シャツ隊(各地域ごとに41個旅団)」や、海軍大佐ボルゲーゼ公指揮下の魚雷艇(マス)戦隊を改編した即席歩兵部隊、そして連合軍との徹底抗戦を叫ぶ諸部隊を糾合したものだった。しかし中には独軍も賞賛する歴戦の精鋭部隊もあり、パルチザン掃討や対連合軍戦に戦果を上げたが、国家崩壊直前には地方軍閥の体を成した私兵部隊の様を呈していた。
�ハ�合軍の侵攻と抗独・反ファシスト・パルチザンの活動激化
1944年3月23日午後2時過ぎローマ中心部のトレヴィの泉からほど近いラセッラ街において、大音響とともに時限爆弾が爆発し独軍兵士33名が死亡した。爆弾はパルチザンの医学部学生らによって仕掛けられた物で、激怒したヒトラーは、報復として24時間以内に、死亡した独軍兵士の50倍のイタリア人を処刑する命令を下すが、駐伊独軍司令官ケッセルリンクの嘆願によって10倍に変更された。結局一般市民ではなくローマ近郊各地の刑務所に収容されていた反ファシスト政治犯、刑事犯、ユダヤ人が中心の335名の処刑者が選抜され、翌24日ローマ市南部旧アッピア街道沿いにあるアルデアティーネの洞窟内において処刑が執行された。その処刑は凄惨を極め、処刑を担当した独兵たちはブランデーで泥酔し正気を無くしながら、銃殺を執行。処刑終了後に洞窟の入口は爆破、封印された。1943年9月にイタリア本土に上陸していた連合軍だったが、山地の多いイタリアでの行動は制限され、また南西方面軍集団司令官ケッセルリンク空軍元帥指揮下(ロンメルも指揮下にいた)の独軍による巧みな遅滞防御戦術に阻まれ進撃は停滞していた。特にモンテ・カシーノでは、山頂にあった中世以来の聖ベネディクト修道院に立て篭もった精鋭独降下猟兵部隊が、連合軍の数度に渡る総攻撃を撃退、結局連合軍は山頂にあった歴史的にも貴重な修道院を爆撃によって徹底的に破壊した(貴重な芸術遺産は独軍によって爆撃前にローマへと避難した)が、完全占領は3月まで出来なかった。連合軍は1944年1月22日に独軍防衛線背後のローマ近郊アンツィオに起死回生の上陸を決行するも、独軍の欺瞞工作に騙され戦線拡大の機を逃し、ようやく6月4日にローマ入城。約9ケ月ぶりにローマに戻った国王とバドリオ首相らの共同交戦国政権は、連合軍に解放された南部イタリアの軍政を掌握していたが、9ケ月前のローマ逃亡は国民から反感を買っていた。王室の存続を図る為、翌6月5日早々に国王は退位し皇太子ウンベルト二世が摂政位に就任(終戦翌年1946年6月に行われた国民投票により12対10の比によって王制は廃止、共和制となる)。また6月10日にはバドリオ首相が解任され、後任に国民解放委員会議長のイヴァノエ・ボノミが任命された。この間にも連合軍の侵攻の遅さに痺れを切らした北部イタリアの反ファシスト勢力は、中・北部イタリア地域で抵抗運動を活発化。昨日までの隣人が敵同士となり、独軍の報復による犠牲者も増え、結局血で血を洗う凄惨な戦いが繰り広げられる内戦状態にまで発展。1944年7月にリヴォルノ、8月にフィレンツェがパルチザンによって解放されると、サロ政権はいよいよ追い詰められる。1945年4月18日ムッソリーニはミラノへ移り、スイスへの逃亡を画策する。連合軍はボローニャに迫り、ロシア軍はベルリンに迫った。連合軍の進撃に呼応した北イタリア国民解放委員会(CLNAI)に指導され、パルチザンが駐伊独軍に対して一斉蜂起。1945年4月25日ようやく連合軍がミラノを解放し、遂にイタリアでの組織的戦闘は終結した。
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1945年4月、欧州での戦争は終局を迎えようとしていた。3月23日に英米連合軍がライン河を渡河、4月15日にはソ連軍がベルリンを包囲、戦局は最早ドイツを逃れようのない窮地へと追い込んでいた。そしてドイツの庇護下かろうじて存続していたサロのファシスト政権も潰え去ろうとしていた。4月27日、愛人クラレッタ・ペタッチと共に撤退する独軍に紛れ込んで逃亡しようとしていたムッソリーニは、スイス国境に近いコモ湖畔付近でパルチザンに逮捕され、翌日午後メッツェグラ村ベルモンテ荘において銃殺される。4月29日その遺体はミラノのロレート広場に運ばれ、広場に面したスタンドの屋根から逆さに吊られ、群衆の前に晒された。独裁者の無惨な最後は20数年間続いてきたファシズムの終わりを象徴していた。奇しくもその翌日の4月30日ドイツ第三帝国総統ヒトラーは、ソ連軍包囲下のベルリン総統大本営地下壕において、結婚したばかりの新妻エヴァ・ブラウンと共に自決・・・5月2日、駐伊独軍総司令部は無条件降伏を受諾。ヒトラーの後を継いだ新総統デーニッツは、5月7日フランスの連合軍総司令部において無条件降伏文書に調印し、1939年独軍のポーランド侵攻以来7年に及ぶ欧州での戦争は、遂に終わりを告げた。この戦争によるイタリア軍の戦死24万2千余、戦傷6万6千余、行方不明35万余・・・またパルチザン参加者の犠牲は戦死4万6千余、戦傷2万1千余、国外での死亡3万余、イタリア降伏後に独軍に強制徴用され死亡したイタリア兵3万3千余、最後にドイツ国内の収容所で死亡したイタリア人政治犯8千余であった・・・。

どうです・・・イタリアが戦勝国である事がご理解いただけましたか・・・誇り高きローマ人の末裔たちは、枢軸側として参戦し敗北した事実を、自ら反ファシストのパルチザン運動を展開し、同じ国民同士が血を流し合う多大な犠牲を払って、見事に修正したのでした・・・。徹夜で書き込んだので誤字・誤植が多数あるはず・・・でもご勘弁・・・次回はいよいよ「イタリア戦争映画史」本編に突入だ・・・でも未だ資料集め中なの・・・汗【続く】

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