Howdy from Australia
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2004年12月31日(金) 花火

大晦日恒例のシドニー花火大会に誘われた。実は2005年3月で豪州生活9年目を迎えるというのに、実際に花火を見るのはこれが初めて。毎年この時期は日本で過ごしていたということもあるけれど、通りに溢れる酔っ払い、どこもかしこも大混雑、公衆トイレは長蛇の列、どこからともなく始まる喧嘩…みたいなイメージしかなくて、わざわざ行かなくてもいいやと思っていた。

それが、友人の誘いを受け、試しに一度くらいは行ってみてもいいかなと考え直す。2004年最後の日、タウンホールで午後四時に待ち合わせて友人たちと合流。ダーリングハーバーの穴場とも言えるような場所に敷物を広げ、おしゃべりをしながら、まるでピクニックのように持ち寄った食べ物をつまんでいると、のんびりとしたいい気分になってきた。周囲を見渡せば家族連ればかり。持参した布製のクーラーバッグにはビールも冷えていて、何とも幸せ。

夜空に打ち上げられた花火も迫力があって綺麗だった。なかでも、ハーバーブリッジに沿って打ち上げられた花火が美しかった。デジカメで上手く取れなかったのが何とも残念。

帰りの電車も思ったより混んでいなくてよかったのだが、家に帰り着いた頃にはもう心身ともに疲れ果てていて、「年越しの花火は二度と行かない」というのが新年早々の誓いになるのであった。


2004年12月30日(木) 郵送

日本の大学に申請していた書類が届いたので、移民コンサルタントにその日のうちに郵送する。年末年始をはさんでいるため、実際に書類が移民局の方に提出されるのは年明けだろうが、それでもまだ締め切りまでに余裕がある。これもひとえに姉のお陰。「使用言語 日本語」と明記されているので、多分問題はないと思う。これで一件落着と思いたい。


2004年12月25日(土) 団欒

マンリーに住む友人のクリスマス会に招待された。親族と限られた友人だけという特別なもので、クリスマスの時期は大体日本にいた私にとって、初めてともいえるオーストラリア流のクリスマス。ただ、曇りがちで涼しかったので、「真夏のクリスマス」という感じではなかった。プレゼント交換、BBQ、花火、クリスマスキャロルの合唱、にせものの雪スプレー(頭にかかるとふけにしか見えない!)、クラッカー、部屋の中でのクリケットごっこなどなど、夜遅くまで盛り上がった。

お母さんにプレゼントされたズボンを、意地になって試そうとしない照れくさそうな友達の弟の姿を見ると、やっぱりクリスマスは家族の行事なんだな〜と、ほのぼのとするのであった。


2004年12月21日(火) 母帰国

木曜夜日本発、金曜朝シドニー着、その足で卒業式に行き、土曜はブルーマウンテンで山歩き、日曜はぶらぶら買い物をして、月曜には帰国…と、母にとっては目が回りそうな5日間だったに違いない。今回は父が一緒に来られなかったので、母だけ長期滞在するわけにもいかず、強行な日程となってしまった。また、私も多忙な時期に雇われた契約社員の身で長期休暇はちょっと無理。月曜日の朝、母を空港まで送って行った後、午後から出社しなくてはならなかった。

短い間でも母を独占できたので私にとっては大満足だった。これまでと違って自分のお財布から食事代が出せたのも、嬉しかった。「いいから、いいから、収入もあるんだし、私が出すから」と母に言うのも、なかなか気分がよかった(←正確には、母が帰国する前の晩に「いいから、取っておきなさい」と日本円を渡されてしまった)。普段外食をしないので、ここぞとばかりに、夜景が綺麗な和食レストランに行ったり、北京ダックを頼んだりした。

ただ、最後の晩は、「もう二度とこのお店には来ません」と断言できるぐらい最悪だった。

最初予定していた「ステーキ」はちょっと重たかったので、軽めの夕食にしようと近場の居酒屋風の和食レストランに行くことになった。黒板に書かれたメニューから、野菜の炒めものや揚げ出し豆腐、カキフライなどを頼む。ここまではよかったけれど、問題は、普通の白いご飯。まるで保温で炊いたかのように芯が残っていて、これをお店で出すのは非常識なんじゃないかと思ったほど。

しかも、その日は宴会が行われていて、年齢層の高い日本人グループなのに、狭い店内で大騒ぎをしていた。居酒屋と銘打っているのだから、もしかしたら、この騒音も店の売りなのかもしれない。会話もできないような騒々しさの中、苦笑いをしながら食事を済ませ、逃げるように店を後にした。何でこんな店を選んでしまったんだろう…。母とのシドニー最後の夜は台無しだった。

今回の旅行では母とも色々な話をしたが、母は私のシドニーでの生活がどうにも快適には思えないようだった。いわゆる日本人が夢描く「あこがれの海外生活」とはかけ離れているのだと思う。家賃も物価も税金も高いし、住環境のいい場所に一戸建てなど夢のまた夢…。

また、私が今住んでいる場所は、緑豊かで静か、治安も交通の便もよく、映画館も図書館も百貨店も徒歩圏内にあり、自分の中ではかなり評価が高いのだが、母にとっては、建物は古くて、部屋は狭い、最上階なのに階段しかなくて、玄関も靴箱も無い、しかも最寄の駅まで10分以上も歩く不便な場所にしか思えないらしい。つまり、母にオーストラリア生活の良さを実感してもらうには、私が出世するしかないらしい。

ちなみに、母が滞在中で一番嬉しそうだった瞬間は、果物売り場で真っ赤に色付いた巨大マンゴーを見つけたときだった。


2004年12月17日(金) 卒業式

母が日本から到着するのが卒業式当日というのがそもそも強引な日程だったのだが、空港まで迎えに行って母と再会を果たし、いったん市内のホテルに荷物を預けて、サーキュラーキーで朝食を済ませ、それから大学まで向かい、卒業式の会場に衣装をはおって飛び込むまで、何もかも計画通りだった。

教会にはパイプオルガンの音が響き渡り、厳かな雰囲気の中、式が始まる。指示に従って起立し、脇の通路を前進、一人一人名前を呼び上げられて壇上に上がり、証書を授与される。自分の番になって卒業証書を手渡された時は、やっと終ったんだ!と晴れ晴れとした気分になった。実際に最終論文を提出したのは6月であったが、式が終って初めて精神的にも区切りがつくというもの。卒業生の中には赤ちゃん連れのお母さんの姿もあり、彼女が証書を授与された時は拍手が一段と大きかった。

式の後は、教会裏手の中庭部分で学科のスタッフや指導教授、研究室の仲間たちと一緒に写真撮影。Mが気を利かせてシャンパンをボトルで買ってくれ、皆で乾杯した。朝から快晴だったので、冷たいシャンパンは格別だった。卒業祝いにとMから豪華な花束までもらう。実は、事前に「花束の一つもないと格好悪いから、駅前の花屋でいいからお願い!」と頼んでおいたのだ。あんまり期待はしていなかったのだけれど、シドニー五輪でメダル受賞者がもらっていたような、オーストラリア原産の草花を中心としたセンスのよい豪華な花束だったので、驚いた。

「結構、値段したよ。聞いて驚くよ。」

そ、その一言が無ければ、もうちょっと感動に浸れたものを!何かの折につけ「そういえば、卒業式の花束贈ったの誰よ?」と持ち出されそう。

それから、場所を変え、タウンホール駅近くのイタリア料理のお店で、総勢9名で昼食を共にした。平日だというのに、指導教授も友人も時間を割いて集まってくれて、とても嬉しかった。ここのコース料理は値段の割にボリュームがあって、味もなかなか。お世話になった方々を昼食に招待しよう!と思いついたときから、ここにしようと決めていたのだった。道が混んでいて到着が予約していた時間より大幅に遅れてしまったのだが、お店の人も感じがよくて助かった。

母は英語が全くできないけれど、それをカバーしてしまうほどの持ち前の明るさと度胸で、その場になじんでいた。私の指導教授とも言葉を超えて伝わる何かがあったようだ。家族、友人、指導教授、研究室の仲間たち。たくさんの人に支えられて、ここまで来たことを実感する一日だった。


2004年12月16日(木) 日本語能力

卒業式を二日後に控え、母との再会を待ちわびていた私に一通の恐怖とも言える手紙が移民コンサルタントから届いた。「日本語のレベルが上級である」ということを証明するために、「日本で卒業した大学の授業が日本語で行われていた」ということを証明する書類が必要なのだという。1月12日までに提出できなければ、申請書類が揃わないまま審査されてしまうという恐ろしい事態になり、永住権もこれまでの努力も水の泡になってしまう可能性が出てきた。

翌日、会社から戻ってきてすぐに、日本の大学に電話で問い合わせてみる。夕方6時に電話したのだが、日本時間はまだ4時。この時ほど、日本とオーストラリアとの時差が2時間あることをうれしく思ったことはなかった。

比較文化学部など国際的なイメージが強い大学なので、前例がないわけでもないだろうと簡単に考えていたのだが、あまり柔軟な対応はしてもらえなかった。私としても可能な限り丁寧な表現を使ってお願いしたつもりなのだけど。

「授業が日本語で行われたことを証明する必要があると言われても、日本の大学なんですから、日本語なのは当たり前でしょう?」

確かに。それはこっちも承知の上なのだが、移民局というのはそういう不思議なものを要求してくるのである。私が在学中に英語・ドイツ語・韓国語を履修していたということも原因のようだ。移民コンサルタントには大学の便箋を使って公式な文書を作成してもらうようにと言われていたのだが、大学側はそれに応ずることは出来ないと言う。

しかし、ここで、「あ、そうですか。」と引き下がるわけにも行かない。書類の重要性を説明し、再度お願いしていたら、ようやく、代替案を示してもらえた。英文成績証明書の発行を申請すれば、その際に付記として、「使用言語は日本語である」ということを付け加えてくれるらしい。

ただ問題は発行手数料と送料を郵便定額小為替で支払う必要があるということ。自分一人で物事が解決できないのは歯痒いが、日本にいる姉に頼まなければどうしようもない。証明書発行に必要な詳細(生年月日、学部学科名、学生番号、卒業年など)と大学宛の手紙を添付して、緊急のお願いメールを送る。一年でも特にせわしない時に、寒くて家から一歩も出たくないこの時期に、しかも幼い子供を二人抱えている姉に用事を頼むのは本当に申し訳なかった。お姉ちゃん、本当にありがとう!

12月20・21日までに届けば、その週の金曜日にあたる24日の午前中には発送してもらえるのだが、それまでに届かなければ休暇に入るため、発行の手続きは1月7日以降となるらしい。書類の提出期限は1月12日。

どうか、間に合いますように。


2004年12月14日(火) 目標

先週の日曜日のこと、近所に住む友達にずっと借りていたDVDを返しにお邪魔したら、

「実は最近分かったんだけど、妊娠したの〜!」

と、報告されて、びっくりした。つわりもあるんだって。

おめでとう〜!といいながら、お腹の方にも手を振って挨拶をしてみる。研究室の友達で昨年結婚した彼女は、まだ博士課程在籍中。これから執筆というときだったので、本人も戸惑いと喜びが半分半分のようだ。一緒に冗談を言っていた友達が、来年にはいよいよお母さんになるなんて。感極まって、思わず彼女を抱きしめてしまった。指導教授には近いうち知らせるそうだが、五人の子供を授かった指導教授のこと、自分のことのように大喜びする姿が目に浮かぶ。

それで今日、他の研究室の友達と電話で話をしていて、「ちょっと聞いてよ!」と言ったら、彼女の妊娠をすぐに言い当てられてしまい、最近の大ニュースだったのにもったいぶることすら出来なかった。ちなみに電話の用件は私の卒業式に来られないということだったのだが、病院の研究職を最近得たばかりなので、お休みをもらうのはちょっと難しいとのこと。新しい職場でも大学の頃にやっていた実験などを任され始めたようで、かなり充実している様子。職場の先輩科学者から、「あら、飲み込みが早いわね」と言われ、「これまでずっと人に教える立場だったんですけど・・・」と、内心かなり可笑しかったらしい。

今の仕事にも慣れてきてそれなりに居心地もよいけれど、やっぱり目指すは研究職。契約もそろそろ切れるので、間髪いれず次の仕事を見つけなければと思っていた矢先、久々に体の中が熱くなるような研究職の求人を発見。

これまでの知識が生かせ、まさに自分が夢見ていた通りの仕事内容。まぁ、この手の研究職は公に出した時点ですでに内定者がいるということも少なくないし、英語が母国語でもなく永住権も申請中の私はもしかたしたら門前払いかもしれないけれど、挑戦しても何も失うものはないし、とりあえずやってみないことには何も分からない。今の仕事の多忙さに身を任せて、人生の目標を見失いかけていた今、この応募に巡りあえたこと自体幸運なことかも。やっぱり、はりきる何かがあるのって嬉しい。


2004年12月04日(土) 休日出勤

12月は両親も忙しく都合が悪いので、卒業式は来年の5月に延期しようと思っていたのだが、卒業式の日程の変更は不可能だという返事が大学側から返ってきた。出席できなければ卒業証書が自動的に送られてくるらしい。後で式にだけでも参加したいという場合は申し込むこともできるそうなのだが、卒業証書が手元に届いてから、式に参加するというのも、何だかなぁ…。

ということで、考えた末、12月の卒業式に参加することにした。今年中に終らせてしまうのも一つの区切りになるし、お世話になった方々や指導教授にもちゃんと挨拶もできる。あいにく父は来られないが、母だけはるばる日本から来てくれるというので、呼び寄せ航空券なるものをこちらで購入して贈った。

初給料が出たらその時は家族に大盤振る舞いをしよう!と前々から思っていたので、こういう形で実現できてよかったが、両親揃っての参加だったら財政的にかなりきつかったかも…。航空券は旅行会社の方から直接日本に送ってもらえて、観光ビザの手続きもたったの10ドル。余計な手間も省くことができ、なかなか便利だった。

仕事の方はと言うと、最近は残業もできるようになった。今までは上司の指示を仰ぐ事が多すぎて、残業の許可すら下りていなかったのだ。残業すると時給は通常の1.5倍つくし、夕食代として20ドルが支給される。これは、かなり大きい。ちなみに、残業がつくのは下っ端の証拠で、会社の規約によると上役たちには残業手当はないようだ。

そして、本日初めて土曜日出勤を体験。休日は時給が2倍なので、これを見逃す手は無い。でも、出勤したのがうちの部だけだったせいか、かなり陽気でリラックスした雰囲気。平日より楽しく感じられるほどだった。普段はそれぞれがもくもくと業務をこなしていて、笑い声があがるなんてことはまずない。

しかし、貧乏暇無し、稼げる時に頑張ろう!と意気込んでいた矢先、まだ5年しか使っていない掃除機が壊れた。保障期間はとうに過ぎているとはいえ、モーターが焼け焦げたのか、轟音と共にすすをそこら中に飛び散らし、息絶えてしまった。部屋中がけむい匂いに包まれ、絶句。オーストラリアの電化製品はやはりあなどれない。あぁ、どうしてこうも出費の予定ばかりが先行してしまうのだろう…。


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