++るうの独り言++
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2001年12月26日(水) 大掃除中

1年の出来事を振り返る。
*掃除に飽きた*

英検3級にうかって卒業して入学して、初めて賞状もらって運動会真剣に走って、旅行もいってキャンプもして海で泳いで、エッセやらなんやらに載せてもらったり、題字つくってもらったりオフ会したり、ストレスたまりまくって仕事したし、資格とって働きにでたり、クリスマスたのしかったし、たいした怪我も病気もしなかったし、誰もぐれなかったし(爆笑)・・・

また今年もいい年だったと思うのだが、ちょびっと心の片隅が痛いのは
世界的な落ち着きのなさのせいなんだろうな。
今年1年ためた小銭が12034円あった。
(財布にちょいとじゃま、とかポケットからでてきたとか自動車にころがってたとか、そんな小銭を缶にいれておくのだ)
この自分の心のうずきを多少和らげるために、これを難民の教育基金用に送る。

平等はありえない。
1日の時間以外各人間に平等に与えられたものは何にも無い。
が、せめて
どんなに家が貧乏であろうとも『教育を受けたい』と思ったら、どんな形であれ、その希望がかなうような、そんな状況にはなって欲しいと思う。
「教育」という機会に関しては、人間として生まれてきた以上、均等に与えられて欲しい。
例えば、男で生まれること女で生まれること、これは平等ではない。
が、「大学にいって勉強したい」
これは両者均等にチャンスが与えられるべきだ。
そんな風に思っている。

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最後にお腹の中の大掃除(笑)
「××・;dlgbj@ph4rgrmfgw:;flhjtrgh45ptgjrbkhr:;、H気rfgヱFエ;g$}yp3;W_f!!!!」

うっっしゃ! すっきりした。




◆昔の今日の記事


2001年12月23日(日) クリスマス〜♪

こういう楽しい行事は、なんも考えず浮かれまくることにしているので、ツリー飾り付け以来、子ども並にるんるんしている。
今日は肉屋に丸鶏を受け取りにいって、ハーブ摘んで、うっひょっひょ♪


こうやって世間が浮かれ騒いでると
「け。日本人のクリスマスなんて!」って小ばかにした目で見つめて、クリスマスの意義をとうとうと説く連中がいる。<私のそばにはこういううんちく垂れが多すぎるのだ(^^ゞ
「クリスマスも初詣もする節操のない日本人」とか「バカ騒ぎ」とかなんたらかんたら。
で、粛々と「1日カトリック信者」になって教会にいって賛美歌なんかうたうんだよ〜。(笑)


ここではっきりいいたい!!
日本人だからこそ、日本人のなかに脈々と流れる無意識の宗教観ゆえに、こういったクリスマスの過ごし方ができるのだ、と。
節操がないんじゃない。これが日本人の宗教観なんだ。
だいたい偉そうにクリスマスについては力説するが、
同じ理屈なら、「七福神」の存在についても苦情を申し述べねばならないはずなのに、それはどーでもいいんかい?

某前首相が「神の国」とかいって大ヒンシュクを買っていたが、
私にいわせると「なんで非難されるの?」と。
だってー、むずかしい理屈はわからんがそのとおりじゃーん。

そ。
日本は神の国なんだ。八百万の神様のね。
個々の現象に、個々に神が宿るという考え方。
そして「和をもって尊しとなす」の精神。

「外国には外国の神さんがそら当然いらっしゃるだろう。認めましょう。キリストさんも釈迦さんもみんな日本に来てくれてありがとさん! 大いにぱああああっとやりましょ! なに今日はキリストさんの誕生日? そりゃーますますめでたい。ほれほれ飲みなされ!おどりなされ。そういえばサンタさんってば、うちの大国主命ににてますなあ、みなさんそうおもいません? わっはっは」

ついでに八百万の神さまがたは、決していわゆる「高潔なお方」ではない。
能力は高いが、性格は普通の人間とかわらない。それ以下の方も(^^ゞ 
そこが日本人の考え方で面白いところだ。だから「キリストさん」も「釈迦さん」もそれと同等のレベルで捉える。
(だから「いっくら神様が食べちゃいけないってもさー、いいじゃん少しぐらい〜」なんて考えも浮かんできてしまうのだ。わはは。それが証拠に、日本人の肉食の習慣はこっそりずーっと続いていた)

もう少しいうと、キリスト教も仏教も日本に入ってきたとしても、「日本の宗教観」の洗礼によって「本質」が変えられてしまっている。これはいろいろな文学作品にも出てくることなのでいまさら私が言うまでもない事実。(キリスト教に関しては芥川、遠藤周作を。仏教では「ビルマの竪琴」なんて作品もある)
同じ神を信じていても日本人は「アブラハム」には絶対なれない、と思う。「エリコ」の虐殺ができる人、手あげてー! しーん。


その才能によってこちらも大いに利益をえられるのだが、おこらせちゃー大変、という「気難しい気まぐれな」隣人達と、うまーくやっていくために考えたのが「和」の精神。

これが「日本人の宗教観」だと思う。「何々教」と名はつかないけど、日本人の血の中にしっかり定着してる気がする。
節操がないんじゃないのだ。すべてを受け入れて、とりあえず仲良くやってこうじゃないのー、という「和」の哲学。

もっと行ってしまえば、この「日本人の宗教観」こそが、世界を平和にし、救うとおもいません?ヘ(__ヘ)☆\(^^;)

根本的な日本的宗教観も考えず、えらそうにうんちくたれる人間のほうが実は「日本人」じゃないんだ。

なんてことをいうと
「私は日本人ではありません。国際人、地球人です」とかいいだすんだよー。
どうぞどうぞそれでけっこうでございます。
そのかわり私はこういう連中を「根無し草さん」とよばせていただきますから。




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2001年12月20日(木) 年末宝くじに寄せて

昨今の狂牛病で、某K氏は「おれは大学卒業して以来ずっとベジタリアンだから、狂牛病は関係ない」といって狂牛病に戦々恐々としている我々を冷笑した。
「動物の命を奪うような食事はしない<かなり要約(^^ゞ 」とかなんとか。
が、奴は卵を食べる。
「卵はいいんだ」そうな。

結局、ご立派な論を説いたとて、所詮「人間」が「人間」の基準で作ったルールに則ってるだけで、それは一般的には「自己満足」とか「趣味」とかいうんじゃないのかね。(食べ物で言うならわがままっ子の「偏食」じゃないか)

(それに大人になってからベジタリアンになった、ってーことは
そのお体と、脳みそは、しっかり肉で作り上げられたってことじゃないか。動物性たんぱく質で作りあげられたがっちりしたガタイがあるからこそ、ベジタリアンなんてのんきな話もできるのだということを忘れてないか?)

それから。
命は動物にだけあるんじゃない。
植物にもあるんだ。人間に害をなす病原菌だって「命」じゃないのかね。
動物にだけ配慮するなんざ、実に勝手な論理だね。

いや、本人の「趣味」だから、口ははさむまい。
でも、「この趣味をやらない人はおろかである」といった口調で他人に説くな。
うっとうしい。




我々は人間である
日本人である。
来世(笑)はどうなるかわからないけど、
私はこの与えられた自分の運命を最大限に感謝して有効に楽しんで使い倒したい。

今の時代に生まれて
日本人で
人間で
というこの運命は
いわば「1億円の宝くじに当たった」というのとかわらない状態だと思っている。

あたっちゃったことにオロオロするだけで当せん金を有効に使えなかったり
当たったことを自慢しすぎて余計な禍根を周辺に残したり、
他人に指示された通りに使うだけで、当たったことに喜びをもてなかったり、
そんなこんなで「当たった」こと自体を恨んでしまったり、
それで「1億円なんか当たらなければよかった」なんて言い出したり。

こんなセリフを聞いたら、くじに当たらなかった人はものすごい「反感」をもつだろうね。「なんていやみな奴だ」と思うだろうね。

そして「当たらなかった人間」と「当たった人間」になんの差がある?
当たった人が「いいなあ」とは思っても、当たらなかった人へ「かわいそうに」とか「気の毒」とかは普通は思わないだろう。
「当たったから当たらない人へなにかせねばならぬ」なんてこともないはず。
「好意」はあっても「義務」はない。
「当たった人は(お金を持っているから)偉い!」なんてことなぞ、考えるだけでバカである。

そして
宝くじは
買った人間に皆平等には当たらないのだ。
それを忘れてる者が多い気がする。

・・・平等、平等、、、嫌な言葉になってしまったな〜・・・。




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2001年12月13日(木) ちゃぶ台返し

新聞読みつつ、それを左右に裂きそうになった。
「なななな、なんだってえええええ!? *怒*」

だいたい私が怒ると周辺のものに当り散らされることに決まっている。
それゆえ食器もコレールよん。(^^ゞ 
怒ってちゃぶ台ひっくり返して、自分で片付けるのはなさけにゃい。
えーん。

誰かのギャグで、ちゃぶ台に食器が貼り付けてある、ってのがあったっけ。
水がなみなみ入ってるように見せて、コップ倒しても中身出てこないのとかね。
わかっててもあれは一瞬どきっとする。

そうだ。
むかしむかしのことなれど、実家の近辺でお百姓さんが、鎌かなんかで指先を切りおとしてしまったという事件が起きた。3本だったらしい。<実話

で、我がクラスのお馬鹿きかん坊主“わっち”が現場を見に行ってきた。
で、そのお馬鹿にもっとお馬鹿なクラスメートたち(=私たち)が聞く
「ねえねえねえ、血が残ってた?」「指が飛んでた? まだ転がってた?」「すげーすげー!」
・・・ちびすけにとっては「自分が当事者」でない限り、現実のこともテレビのことも一緒。

すると、その騒ぎに混じらず隅っこでじっとなにやらしていた“ひでくん”がおもむろに、
「おれ、“わっち”がいくより先にいって、転がってた指ひろってきたんだぜ。」と。
げげげげ〜〜!! 全員が一瞬引いたが、直ちにひでくんに迫る。
「もってんの? もってきたの? 今あるの?」
彼はおもむろに箱をみんなの前に出す。大き目のマッチ箱。クラスのストーブをつける用のマッチ箱。
彼はみんなの見守る中で、そーっと、マッチ箱の外箱を引く。
・・・・
「ぎゃ〜〜〜!!!!!!」「ぐわ〜!!!!!」
マッチ箱の中には 小汚いちり紙に包まれて、本当に青白い指が入っていたのだ。

教室内騒然!
が、ひとり冷静なのがいた。正確にいうと神経が図太くて好奇心旺盛なのがいた。
“まあちゃん”である。
「すごーーーっ! ねえねえねえ、ちょっと貸して。よっく見せて!」
「みればいいじゃん」
まあちゃんはひでくんの手からその箱をうばおうとした。が、ひでくん大慌て。
「ここで見てよっ!」
「箱持たせてよっ!」
「なんだよっ!」

・・・マッチ箱は、ひでくんの手にくっついていた。
ひでくんはわっちが自慢話をしている間、マッチ箱に穴をあけ、そこに自分の指をとおし、青いチョークをぬりたくり、それらしくみせてちり紙までつめて皆にみせたのだった。

・・・このあと、クラスのほとんどがこれをまねし、家にかえって家族を1回驚かし、お目玉くったということである。
多分、「指落とし事件」という誰もが知る事実がなければ、ひでくんのたくらみもこんなに盛り上がらなかったと思うんだが(^^ゞ 



あれ? なんの話だったけ?
あーー、怒ってたんだ。
でもま、いいやー、楽しいこと思い出したし。




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2001年12月12日(水) 自己開示

「人を相手にする仕事につく上で大事なのは、まずなによりも自身の『自己開示』である」
といわれた。

「自己開示」とは自分の特性など、自身を客観的に把握すること、らしい。

そして精神をいつもニュートラルに保つことができるようにするために
「未完成の行為の確認」をしておきなさいとのこと。

「未完成の行為の確認」とは「今までしたくてたまらなかったのにすることが出来なかったことはなにか」ということをふりかえって見る、ということ。
それが心にひっかかっていると、ずっとそれが自分の行動を制限する障害になっていくらしい。

んで、この話をした先生の言うには
「それが今できることならできる限り今してしまいなさい。不可能なことならそれと同等の価値があると思うことをしなさい。それでもわだかまるようならカウンセリングや思い切って人に腹蔵なく話してしまいなさい」と。
「ひっかかったまんまにしておいてはいけない、それがすべて言葉や行動に現れてしまうから」
、だって。

もっともだ。

自分なりに考えてみたんだが
次の目標を目指す前に、例えば、登山でいうなら自分のリュックサックの中身をきちんと整理しないといけないってことなんだろうなあ、と。足りないものは、たとえ今ある程度の高さにいたとしても、ふもとに下りてちゃんと整えておくことが大事だ、ということなんだろうと。

とりあえず・・・

腹の中にもやもやはためとかず、ここにはきだしちゃおっと。わっはっは。




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2001年12月11日(火) 根性なし

毎日書いてないじゃーないかー。

ふん。
HPのほかの更新にかまかけてると日記なんて毎日書いてらんないわよぉぉ。
などと暴言を吐くるう@根性無し(^^ゞ

要するに、私はお腹にためておける人間でないので、日記にたどり着くまでにぜーんぶその辺に吐き出してきてしまってるってことなんだろう。
はっきり言って書くことがないっ!
いや、スケジュールや雑感等の羅列ならできるが、それ書いてどーする?
もっとも何年分かたまるとそれもかなり面白いにはおもしろいのだが。
ウエッブ3年日記とかいうのをPerlとかなんとかでだれか作ってくれないかな。

んじゃ、とりあえず羅列開始。ヾ(・・;)


◎週末オフ会に参加して、すっかりご機嫌♪ 生のよさはなにものにも代えがたい。
でも、HP管理人がきてくださるお客様に逆にいろいろしてもらってるとか助けてもらってるとかいうHPは我が家以外ほかにないだろうな。わはは、すみませーん。そしてありがとうございますー。みなさまのご好意にあまえっぱなしぃぃ。すりすり。にゃーご。

◎うわああ。しーごーとーが、入ってしまったではないかーーーっ!!
どうするんだあ? 資格はとったものの技術に自信なんか全然ないぞぉ。
大学出たてで、初めて現場に入ったときも自信なかったが、それでも「4年間勉強してきた知識だけはあるっ!」と自分にはったりをきかせられた。若かったし(^^ゞ 
んがーー、今回たった132時間よ? この年じゃはったりもききゃしない。「ええ〜? わたしぃ、できないぃぃ」なんてぶりっこもできん。どーしまひょー。

◎わたしやっぱり、お花専門HPの管理者って苦手ー。
私の植物に対する中途半端さや不真面目さが
「お花、命」とか「一生懸命さ」とか「専門性」とかいった真面目な部分を拒むのだろうけど、
でも、大抵なにかネットで嫌な思いをするときって「花HP」が関わってる。
我が家の庭は「蓮見さんち」の一部。遊び場。
害虫も裏庭も「情報」なんかじゃ全然なくて、基本は「遊び心」なんだけどなああ。




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2001年12月10日(月) 教訓かもしれない・・・

大学で知り合い、卒業後即結婚したY夫妻がいる。

さて、この夫妻、子どもに「パパとママってどうやって知り合ったの?」と聞かれたとき、普通のご夫婦のようにちょっと照れながら「にこにこ」してほのぼのと話すことができない。(と思う)
というのも、火曜サスペンステレビドラマ化されてもかなりいけるのでは? というかなりすさまじい出会いがあったのである。

で、ウソをつかずに話すとき、いや、、、ウソをついたとしても「お二人の出会いは?」と聞かれたとき、必ずある女性の姿を思い浮かべなくてはいけないことになる。
おそらくそれをあわてて消し去ってから「かなりフィクション」の出会いを語ることになるのだろう。
二人の原点に、「ある女性」が絶対に関わる。その女性がいなかったら二人の今はない。で、そうしてしまったのは本人達の責任。
「出会いは?」の言葉のたびに、言葉をどう取り繕うとも自分に非はないといいはっても、どうしたって頭の中に「ある女性」の顔をうかびあがらせつつ話さねばならないのだ。自分達の過去をイヤでも振り返らねばならないのだ。
結婚記念日とか、そんなことを思い出す行事は多いだろうな。

ちなみに、私はその「ある女性」と友人である。(ってもみんな友人である、、、友人だった)
あれだけの事件で彼女が人間不信にならずにいたのが不思議だった。きっと悪友たちのおかげだろう。ヾ(・・;)
んで、彼女はY氏たちからおくれること2年で結婚した。職場で一目ぼれされたらしい(本人談)。優しそうなちょっとはらたいらに似た男性だった。
「よかったよ、Y氏と一緒にならなくてー」
結婚前にふっと漏らした言葉。

あれからうん十年がたって、来年から海外転勤でまた旦那さんといっしょにいくというので電話が来た。それで急におもいだした次第。
私はいぢわるーく当時の話なんぞしてみたが、
「わっはっはっはっは、わすれてた! あんたよっくおぼえてるねえ!」の大爆笑で終わりになった。

彼女は自分の人生から完全に「Y夫婦」の存在を消すことができる。
が、
Y夫婦は「彼女」の存在を消すことはできない。彼女を消すと自分達も消えるからだ。一生あの事件を引きずるのだな。

・・・これ、教訓めいてない?




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2001年12月07日(金) 真似したなあああ(笑)

孟子曰く、「君子の人に異なる所以は、其の心を存(かえり)みるを以ってなり。君子は仁を以って心を存み、礼をもって心を存みる。仁者は人を愛し、礼ある者は人を敬す。人を愛す者は、人恒に之を愛し、人を敬する者は人恒に之を敬す。此に人あり、その我を待つに横逆を以ってすれば、則ち君子は必ず自ら反みるなり。我必ず不仁ならん、必ず無礼ならん」と。

孟子がいうには
「君子が凡人と違うところは、よく己の心を省みるところである。君子は仁を基準に反省し、礼を基準に反省する。仁のある者は人を愛し、礼のある者は人を尊敬する。人を愛す者は常に人からも愛され、人を尊敬する者は常に人からも尊敬される。ここに1人の人がいたとして、その人が自分に暴虐無礼な態度をとったとする。この時君子ならば(相手を責めるのではなく)必ず自分のことを反省する。自分には仁の心が足りないのではないか、礼の心が足りないのでないか」と。


うーむ。ちょいと名づけに張り切りすぎたかな。はっはっは。

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『孟子・離婁篇』
人を愛して親しまれずんば、其の仁に反れ。人を治めて治まらずんば、其の智に反れ。人を礼して答えられずんば、其の敬に反れ。行い得ざる者あれば、皆諸を己に反み求めよ。其の身正しければ而ち天下之に帰せん。




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2001年12月05日(水) あ、っそ。

「あの人がこういってたのよ」
「あの本にこう書いてあったのよ」
「あそこのHPにでてたわよ」

さようでございますか。
んで?
それに対するご自身の見解は?
感想は?

無し?

で、その得た情報をまるで自分の意見のように吹聴するわけね?
確認も疑いもせず?
右から左へそのままではなく
いわゆる「尾ひれ」といった、自分の主観をいっぱい付け加えて?
で、情報をたくさんもってる人はもってない人よりも「偉い」わけね?

あ、っそ。




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2001年12月04日(火) 車内的考察

新聞の投書欄を読んでいると
「席を譲らん」から始まって「譲っても座らん」に及ぶ、電車の座席をめぐっての若者と高齢者とのやりとりが実に面白い。

まあ、理想のあり方としては
若者は高齢者を見かけたら席を譲れ
譲られたら高齢者は素直にすわんなさい。
というのではあろうが、それがなかなかどーして!
人間の気持ちって〜いうものはそんな理想通りにはいかんのである。だから面白いのである。

「私、電車で席を譲られちゃったのよぉぉ」と悲観してその日からとたんに外出を嫌うようになった高齢者もいらっしゃる。もう70なんだから譲られていいだろうが、とも思うのだが(^^ゞ 
それじゃ、ってんで高齢者の姿を見ても席を譲らずにいると今度は「近頃の若者はっ!」といわれたり、電車の中で爺さまに怒鳴られてる若者を見かけたこともある。
吉野弘の詩『夕焼け』はこうした若者のやさしさによる心の痛みをとらえていて見事だ。

私は学生時代、この駆け引きがめんどくさくなり、通学の際は一切すわらないことに決めていた。
で、一般の人々がお互いに気持ちよく席を譲ったり譲られたりするにはどうしたらいいのか、ということを考察してみた。(車内でひまだったのさ〜)

言葉がいけないんじゃないかと思った。<このへんやはり文学部の学生ヾ(・・;)
たいてい「どうぞ」といって席を譲る。
どうぞってのは「どうぞおすわりになってください」の略であろう。
これは敬語で飾り立てられていることばなので、そういったものをそぎとってこの言葉のもつ真意を考えてみよう。
「どうぞおすわりになってください」
どうぞをとる。

「おすわりになってください」
くださいという丁寧語をとる

「おすわりになって」
「お〜なる」という尊敬語をとる

「すわって」=「すわれ」

おおおお。こりゃ、命令文ではないかっ!
いろいろな敬語で着飾ってはいるが、要するに「この席にすわれ!」といってるのである。
これでは頑固爺やオバタリアンが気持ちよく席を譲られるはずが無い。
命令するってことは、譲った側が優位にたつ。ひどい言葉でいえば
「いまおまえにこの席を譲ってやるからありがたくすわれ!」ということにもなりかねない。

どちらかが優位になり、どちらかが卑屈な思いをせねばならないという関係は、普通人は好まない。だいたい指定席でもない席に譲った側がそんなに優位にたつことはないのだ。譲られた側が卑屈になることもないはずだ。
命令文であるから、選択肢は「座る」ということ以外にない。だから「どうぞ」といって譲ったとき「結構です!」とはね付けられると譲ったほうがへんーな気分になるのである。元の席にまた座るとお尻がもぞもぞするのである。

よし。この「どうぞ」をやめよう!

で、考えたのが
相手に座るか座らないかの選択権をゆだねるという言い方である。
自分の席をたち、目の前にいる相手に聞く。
「お座りになりますか?」=座るか?

「座るか座らないかはあなたに、お、ま、か、せ♪」という言い方にすると
断られても気にならない。というか、選択してもらうわけだから「断られた」というマイナスの心情が沸かない。譲られたほうも自分の心情を結構素直に述べてくださる。
実例
「いえ。次で降りますから」
「いやー、電車ではできるだけたってることにしてるんだよー」
「いえ結構です、たってるほうが楽なので」
で、そこからどちらかが電車を降りるまで話が弾んじゃったこともある。
もちろんお座りになりたい方は、お礼をいってくださる。

結構気持ちがいいので、学生時代以来私は「どうぞ」とはいわず「お座りになりますか?」で通している。
でもそのうちに「どうぞ」って譲られたら、、、どーしようかな(笑)

んが、この言い方、ちょっと間違えるとけんかになる
「座りたいですか?」
「座りたいにきまってんだろうがっ! まっーったく今の若者はっ!」
とおこられた友人あり。
気をつけましょう〜。わはは。




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2001年12月02日(日) 若年性更年期障害

1) 「ほてり」又は「悪寒」がある …いいえ〜
2) 「肩こり」「頭痛」又は「背中のこり」 …はい、ひどいもんです。
3) 疲れがとれない、だるい …午後は体動かすのがやっとです
4) 手足の先や腰が冷える …いいえ〜
5) 風邪をひきやすい …これは全然なし〜
6) 落ち込みやすい、涙もろくなる …はい〜1日一回は涙ぐみまする
7) 人に会うのが面倒 …いえ! でも会いたくない人とは会うのが面倒
8) イライラしやすく怒りっぽい …はい。。。。
9) 眠れない、寝付きが悪い …いえ、いつでもどこでも寝ます
10) オシャレに興味がない …これも昔から全然ありませんー。
ってテレビの「若年性更年期障害」になりやすいタイプかどうかのチェックをしたら5つもあてはまる。
ま、似たようなところで、持病っちゃ持病なのでしょうがないのだが(^^ゞ

「セロトニン」という脳内物質の分泌がたりないんだそうな。
これは楽しいこと・充実しているという思いが少ないととたんにでなくなる。
と、女性ホルモンがでなくなって身も心もがさがさになる
「女を捨てる」って言葉は生物的にもほんとうらしい。

脱出のキーワードは「楽しい!充実!やる気まんまん!るんるんるん♪」

かつて、人のあげあしとりに血道をあげる連中が
こぞって『脳内革命』の春山氏を徹底的にこき下ろしていたが、
私に言わせると、脳内革命の内容を一から十まで否定しまくる医者や専門家と称する人間とはお付き合いしたくないね。
きっとそんな医者は病状の説明もなーんもせず治療に自分の方法を押し付けるようながする(笑)。

同じことをやるのに「気持ちよくやる」のと「そうでない」のとでは全然違ってくるのを我々は経験的に知っている。そしてあの本を読んだとき、「ぽんっ!」と膝を打った人は多かったはずなのだ。

実際、ほとんどのストレスは(若年性更年期も神経症も)
医者にかかって薬飲んだだけではなおらないのだ。
むしろ『脳内革命』の方法が断然効果あるのだ。

だからこそ、このごろ心療内科とか、漢方を取りいれるとか、医療に積極的に笑いをといった考え方が重要視されてきつつあるのだろう?

まさに『脳内革命』の世界ではないか。

本の内容の専門的な難しいことはわからない。
が、経験的に納得できるところは多いような気がする。
そしてこの「経験的に」というのはけっこう馬鹿にできないと思うのだ。




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2001年12月01日(土) 青海苔の充足

「だ〜れもみやしないだろう」ってんで書くのと
「おお、見てくれる人かいるんだ〜」って意識して書くのとでは大分違うな。

*照れている*

さて。
"日記"にするんなら、出発はキリがいいほうがよいかというので今日から。
ただし、私は三日坊主も真っ青の根性なしなのでいつまで続くかは神の味噌汁。
便器妖怪、近藤蚊がいます、京子の語呂。

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絵本「おなべおなべにえたかな」の原画展をのぞきがてら、今月から仲間に加えてもらうことになった読書会のメンバーさんに挨拶まわり。紹介者のKさんの顔の広さとエネルギッシュな活動ぶりにおどろき、ぐたぐたしている自分を反省。
時間は全ての人に完璧に平等に与えられた唯一のものなり。
で、図書館を去りぎわ、東洋文庫を覗いたら欲しい本が貸し出し可になってたので一気に全五巻を借りる。もし宝くじ当たったら、全てを我が本棚に並べたいのがこの東洋文庫と世界有用植物事典。

そのあと子どもを連れてお好み焼きの店に入る。
お好み焼きは家でおとーさんが腕をふるうものと信じきっていた彼らには、軽いカルチャーショック。
非常に喜び、異常に食った。
大体においてお好み焼きの店というものはお金がないときでもお腹一杯になるので助かるはずが、なんとしたことたった3人で5000円近くもかかってしもたではないか! これならこじゃれたパスタの店にでもいけばよかったか?

うー満腹、と、げふげふいっているとき、お店のラジオから皇太子さまがパパになったというニュースが流れてくる。女の子だそうで。 うにゃ〜♪
皇太子パパが目じりをさげ、そうでなくても細いお目々が完全になくなってとろけているに違いないと想像し、こっちも思わず顔がゆるむ。*ええい今日は無礼講じゃー*
雅子妃お母さん、おつかれっ!なにはともあれ母子ともに健康でよかったよかった。 
出産の大変さはこれも全ての母に平等に与えられし苦しみ&喜びだもんね。

で、
今宵の夕食は、、、。
あー、もうなんにも食べたくない。
旦那は外で豪食なので(勝手に言葉をつくるな!)
われわれはもうお茶漬けでじゅーぶんだ。




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