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2005年01月31日(月)
「TAXI NY」は65点

「TAXI NY」クィーン・ラティファ ジミー・ファロン ジゼル・ブンチェン

クィーン(おデブのスピード狂。「シカゴ」にも出演した実力派俳優。)はせっかくの主役なのに、ポスターはおろか、チラシにも全然姿を見せず、かわいそうったらありゃしない。

昔のように車を何代壊したかを競うようなつくりは古いのだろうか。私はそんな映画を見たかったのだけど。



2005年01月30日(日)
「マイ・ボディガード」は70点

「マイ・ボディガード」トニー・スコット監督デンゼル・ワシントン ダコダ・ファニング
ダコダ・ファニングは名優に刺激されてきちんとお嬢さんの役をこなしていた。彼女の成長は楽しみである。デンゼルはあくの強い役を無難にこなしている。ただ、体調が悪くて復讐劇に移ってしばらくして意識が飛んでしまった。殺しの重要な部分をどうやら見過ごしたみたいだ。残念!



2005年01月29日(土)
「エイリアンVSプレデター」は65点

「エイリアンVSプレデター」
エイリアンシリーズしか知らないのだが、
プレデターの設定も分かるし、
まあ退屈しないし、
ちゃんとシリーズに結びつくようなサービスもあるし、
1時間半いうコンパクトなつくりだし、
良いんじゃないの?



2005年01月28日(金)
「モーターサイクルダイアリーズ」は80点

「モーターサイクルダイアリーズ」ウォルター・サレス監督 ロバート・レッド・フォード製作 ガエル・ガエシラ・ベルナル ドロリゴ・デ・ラ・セルナ
見事なロード・ムービー。青年ゲバラが社会の不公平に目を向けるのは、旅に出た事のあるものには全員思い当たる、必然であろう。旅の魅力が一杯。私も旅に出たくなった。彼のように半年も出る事は出来ないが、当てのない旅を何日も。いや、きっと行くぞ、と決心をさせるだけの力を持った作品。




2005年01月27日(木)
僕の彼女を紹介します は50点

僕の彼女を紹介します 

単なるアイドル映画ですね。
この監督のこういう強引な展開にはもう飽きました。



2005年01月26日(水)
「ターミナル」は80点

「ターミナル」スティーブンスピルバーグ監督 トム・ハンクス キャサリン・ゼダ・ジョーンズ スタンリー・トゥッチ
クーデターで事実上祖国が無くなった男性が9ヶ月、ジョン・F・ケネディ空港のターミナルで暮らすことに。クスリと笑い、大いに笑い、やがてしんみりとする、素敵な「旅」の物語。いや、「人生」の物語。
男は暮らし始める。寝るところを確保し、言語を覚え、小銭の稼ぎ方を覚え、仲間が出来て、仕事をつかみ、恋をする。本来なら定番の展開になるところをあえて裏切っているところが3ヶ所ある。最大は彼女がやはりもとの恋人のところに戻っていったところだろう。「運命よ」と彼女は言う。真相はどこにあるかは想像の余地はあるが、しかしこれこそ「人生」というものだろう。男はそれでも「旅」の目的を達成する。仲間に支えられて。9ヶ月も待って達成したのだ。夢を忘れず、待つこと、それこそ「人生」というものだろう。
スピルバーグはこういう小気味良い物語が向いている。



2005年01月25日(火)
「丹下佐膳百万両の壷」は60点

「丹下佐膳百万両の壷」
役者良し。脚本悪くはない。きちんと笑わせる。しかし人情喜劇なのだから、その滑稽無塔な部分を支えるのは美術のはず。しかし、冒頭の長屋の場面で土部分のところが水たまりどころか全然凹凸が無く、もうそれで興ざめ。しかも和久井の長唄が明かに吹き替えで、録音のまずさが目立っていた。スタッフの技術力の無さでどうしても感情移入できず、どうもごめんなさいという映画でした。ただ、音楽は良かった。丹下佐膳にラテン音楽は良く似あう。



2005年01月24日(月)
「ミスター・インクレディブル」は70点

「ミスター・インクレディブル」ピクサー ディズニー
CGというのは、確かにこういうヒーロー者に向いている技術なのだ。「スターウオーズ」あり「スパイダーマン」あり、パクリだけど楽しい。スピード感と臨場感、なかなかのものでした。



2005年01月23日(日)
「レディ・ジョーカー」は50点

「レディ・ジョーカー」平山秀幸監督 鄭義信脚本 渡哲也 徳重聡 吉川晃司 長塚京三
役者は悪くはない。特に吉川晃司が思ったより熱演。しかし、この脚本もう少しなんとかならなかったのか。原作読んでないと分からないような部分が多く、そもそも原作読んでも省略していて分かりにくいところは更に分からなく、まさかここまで酷いとは。良かったのは冒頭の部分だけですね。もっとも酷いのは最後の吉川の顛末が明らかでない事。そしてそれぞの男たちの顛末の付け方も全て曖昧。もしかしたら某組織から圧力がかかったのか。そうだとしたらまさに「社会派サスペンス巨編」ですね。でもたぶんそうじゃない。あれ製作側の自粛でしょ。そんなんだったらこんな映画つくるなよ。これでどうして北村薫が絶賛したのか、理解に苦しむ。



2005年01月22日(土)
「ゴジラファイナルウオーズ」は80点

「ゴジラファイナルウオーズ」北村龍平監督 松岡昌宏 菊川怜 ドン・フライ 北村一輝 ケイン・コスギ
待望のヘドラも出てくるし、エビラみたいなマニアックなのも出てくるし、「ジラ」という明かにハリウッド版ゴジラも出てきて、その扱い方が爆笑もの。テンポ良く進んで、人間アクションまで盛り込んで。ゴジラシリーズの一本としては良いほうだとは思う。しかしながら、これでゴジラシリーズが終るというのが気にいらない。ゴジラ最後の年に、10年に一度という災害が立て続けに起きたのは偶然ではないだろう。(と、かってに断言)まだまだ壊すべき建物は次々に出てくる。自衛隊全面活用で撮影、人を思いっきり殺してきたゴジラではあるが、ゴジラが壊してきたのはやはり「お上」の側なのだ。ゴジラでさえも壊せないようなそんな大企業や国会のある日本でありたくない。私はへんな理屈をいっています。ゴジラは破壊神です。逆説的ではあるが、日本の民主主義が生んだ神であった。



2005年01月21日(金)
DVD「美しい夏キリシマ」は70点

DVD「美しい夏キリシマ」黒木和夫監督 原田芳雄 石田えり 左時枝 小田カオリ
1945年八月、宮崎県霧島地方の、ほんの数日の物語。確かに、事件らしい事件は起きないし、この映像の中で出された「問題」は何一つ解決はしないし、黒木和夫の自伝だという割には、康雄はこの作品の中で特別いちばん重要な役割ではない。確かに期待して観ると肩すかしを食うかもしれない。

康雄の同級性の妹は、沖縄の闘いで両親とも死んでいる。いつも屋根に登っている幼い妹はとんでもない修羅場をくぐってきているはずだ。フィリピンから片足を無くして帰ってきている男や、戦争未亡人で春をひさいで生活用品を稼いでいる女、その女を買う満州戦役から転属してきた男、これから特攻に出ようとする海軍の男、失恋して長崎から帰ってくるとその数日後に長崎の悲劇を知る少女、軍隊の鉄拳制裁、。それらが、いち地方の地主小作関係が残っている霧島を舞台に「日常」として描かれる。

明確に「生き残ったものの心情」を描いている「父と暮らせば」を観た後なので、この作品は良く分かった。黒木和夫はこの作品に全てを注ぎこみすぎている。だから分かりにくい。しかし言いたい事は単純。戦争で生き残ったものは日常を生きるしかない。しかし、ただ生きるのではない。けっしてわすれないこと。「ざくろのように割れた」友の頭を決して忘れない事。日常を生きながら決して忘れない事。それは現代の私たちにもひとつや二つはないだろうか。

DVDでは、なんと佐藤忠男と監督が作品をすべて見ながら丸々対談するという映像や、メイキング等、ものすごく「長い」特典映像が付いている。ちょっと充実しすぎている。



2005年01月20日(木)
DVD「阿修羅のごとく」は80点

DVD「阿修羅のごとく」森田芳光監督 大竹しのぶ 黒木瞳 深津絵里 深田恭子 八千草薫 木村佳乃 桃井かおり
森田監督は職人である。だから、こういう群像劇を描くほうがよっぽど良いものが出来るだろう。ストーリーにテーマは要らない。セリフに深みなど必要無い。ただ、出演者のここぞという演技だけあればよい。それぞれに歌舞伎みたいに、それぞれに見せ場を持たすところなんかさすがといえる。

いちばんはやはり大竹しのぶか。次ぎに八千草薫。次ぎはなんと木村佳乃。彼女の首をかしげて妖艶に笑うところなんかぞくぞくする。黒木を完全に食っていた。中村獅堂がこんなところに出ていておどろいた。「いま、会いにゆきます」の自信無い彼は良かったが、この自信なさげな彼は頂けない。つまり中村はこの2年で成長したという事か。



2005年01月19日(水)
DVD「24」

DVD「24」
第1シーズンの1巻、2巻目までを観た。いろんな人が「ハマッテシマッタ」と言っていたので、眉に唾を付けて見させてもらった。

大統領予備選当日、深夜0時からの24時間の物語。大統領候補暗殺の情報を得たCTU(テロ対策室)のジャックは、同時に自分のCTUの中にスパイがいるという情報をえる。そうこうするうちに敵側は上司の暗殺、ジャックの娘の拉致、という手を次々と打ってくる。だいたいここまでが五時間分の内容。

全ては同時進行形式でつくられる。ときどき現れる「03:47:54」などの時を表わす文字が、その場にいるかのような臨場感をかきたてる。もちろんCMにはいる前にこの時を告げる文字がよく響く低音で現れ、約4分後CMが終るとこの文字がこのシリーズの最大の主人公であるがの如く低音で現れる。だから、この番組の間、三回のCM時間の約12分はどこにも映像として映っていないと言う奇妙な24時間になっている。やがては誰かが「完全版」なるものをつくるかもしれない。今の勢いならきっと売れるだろう。分割映像は効果的に使われていると思う。必ず、58分ごろになると衝撃的な展開が出てくると言うのも、オーソドックスながら上手い作り方である。それと23:30くらいに最大のクライマックスが来るのだろうと予想できるだけに「次ぎから次ぎへとレンタルしたくなる」という気持ちは非常によく分かる。「あんなに疑っていたのに、こんなに簡単にこいつを信じていいのか」というようなところ、つまりは心理部分の描きこみが足りないため、不満はあるが、要は一冊800円くらいのエンターテイメントポリテック小説3巻分くらい読んでいく行為と似ている。レンタル料金とほぼ同じですね。読んだ後なにも残らないが、暇潰しには最高と言う種類の映像作品ではある。





あまり面白くなさそうなことを書いてしまいしたが、
実は約5日の間に全部見てしまいした(^^;)
昨日などは四巻借りてそれでも足りずに三巻借りてしまうというバカさかげん。
だって最後が気になるんだもん。
暇があったのがいけないんですな。

本屋に寄ったらノベライズ本がなんと各600円3冊でありました。
脚本とト書きをそのまま写したようなひどいものです。
私でもかけるわ、あれじゃ。

ネタバレ警報  ネタバレ警報(ヒント程度ですが)


誰が裏切り者とか、予想したい気持ちは分かりますが、
それは無駄というものです。
最終巻では特典映像がついているのですが、
そこでは重要な裏切り者の役者には、
直前になって「あんたやっぱりスパイよ」と教えたそうです。
まったく誰が裏切っても仕方ないのがCTUの仕組みではあるのですが。
あとところどころ、どこから情報得てきたんだ、と随所にあります。
心理描写の弱いことと含めて、脚本は決して完璧ではない。
あくまで暇つぶし用の作品であることは間違いない。

誰が生き残るの?
とか、気になってしまうのは仕方ない。
11巻見てしまうのは仕方ない。
ただ、まずは一巻かりて冷却期間を置くことを薦めます。
二巻目以降を借りると私と同じ轍を踏みますぜ。

ああ、今日にも第二シーズンを借りてしまいそうで怖い。



2005年01月18日(火)
DVD「吠える犬は噛まない」は75点

DVD「吠える犬は噛まない」
韓国映画の中では珍しいタイプの作品だと思う。次ぎから次ぎへと事件がおきるというわけでも無し、悲劇というわけでもない。一応喜劇の部類に入るのかもしれないが、そんなに笑えない。本国ではどうだったんだろう。しかも、もう終りかなと思っていると、なかなか終らない。では面白くないかというとそうではない。いや、むしろ面白い。

「気持ち」というのは、どうしてこうもすれ違うのだろう。「気持ち」に気が付いていながら、どうして気が付かない振りをするのだろう。ときには、それが哀しい出来事を生み、時にはそれが人を励ます。

犬好きには、たまらなく、不快な作品。



2005年01月17日(月)
「誰にでも秘密がある」は60点

「誰にでも秘密がある」チャン・ヒョンス監督 イ・ビョンホン チェ・ジウ
終ったとき、タイトルトラックにボーナス映像があるにもかかわらず、少なくない女性が席をたった。もう一方では「良かったわねえ」という感想も聞こえた。要するにそういう映画である。

えっ、それじゃ分からない?まあジゴロ養成映画といおうか、ジゴロ対策映画といおうか。私なんか。チェ・ジウパート変わりと面白かったし、最後に提示された秘密を解くという楽しみも残ったのではあるが、それ以前の彼の「秘密」があまりにも人をバカにしているので、私にとっては「許せない」作品ではある。といっておこう。



2005年01月16日(日)
「キャット・ウーマン」は65点

「キャット・ウーマン」ピトフ監督 ハル・ベリー シャロン・ストーン
化粧品会社に勤務するペイシャスは、有能なデザイナーではあるが、仕事に情熱が持てないでいる。ある事で会社の秘密を知り、殺されるが、それから彼女はキャットウーマンとして生まれ変わり…。

前半部分の長髪のときのハル・ベリーがよかった。などといえば、世の女性から総スカンを食うかしら。いやいや、女性の二重性を認めていないわけではないんですよ。それどころか、三重性も、四重性も認めましょう。積極的に!でもやっぱり鞭もって、Sの彼女はどうも苦手であって…。あっ、でも、女性が「自由」な事はいい事ですよ、たぶん。(いったい誰に向っていっているのやら^^;)



2005年01月15日(土)
「風水と天皇陵」北村多加史

「風水と天皇陵」講談社現代新書 北村多加史
著者によると、奈良や京都にある天皇陵の多くは風水の思想によりその設定場所を決めているということである。著者によれば「風水とはいかにして自然の循環になじませるか、エコロジーの発想を持つ思想であった」らしい。けっして、いかがわしい占いではないとの事である。この辺り著者の記述はずいぶんと慎重である。ことが天皇に関わるだけに世の反発を警戒しているのであろう。しかし書いている事は随分具体的科学的であるように私には思えた。天皇陵への風水の影響は遅くて6世紀、7世紀の飛鳥時代にはそのその影響の多くを見て取れるという。著者の素晴らしいのはその知識を本から得るのではなく、実際に発祥の地の中国の墓を見て回り、日本の土地を歩きとおして確信しているところにある。後半はほとんど、風水の観点から見た天皇陵踏破ガイドブックである。私はまだこの本を片手に歩きまわってはいないので、100%本当だったというわけにはいかないが、ほぼそうだろうと思う。
私はこれまでいろんな古墳や弥生の墓を見て回ったが、ひとつわかるのは、その土地を選定するのは全て理由があるという事だ。自分の国を見渡す事ができる。あるいは神の山の尾根の先端につくる、という例をつぶさに見てきた。我々の祖先が当時の最先端の知識であった風水思想を取り入れなかったと思うほうがおかしい。むしろ、私は6世紀に入ってきたという説に疑問を持つ。吉備の国の最大の規模を持つ造山古墳(5世紀)の立地が、この本による「谷奥部突出型」に当たるのではないか、と強く思うからである。ぜひ、著者の立地調査を希望する。



2005年01月14日(金)
「アルバイト探偵 調毒師を探せ」大沢在昌

「アルバイト探偵 調毒師を探せ」講談社文庫 大沢在昌
シリーズ第2弾。このシリーズは高校生冴木隆の一人語りで語られているので、リュウ君の心情は全て分かるのだと思っている人がいたら、最終話の「アルバイト行商人」で大間違いである事に気が付くだろう。この章で冴木親子の秘密が明かになるのであるが、秘密を知ったリュウ君の心情は(いろんな感情がうずまいたに違いないが)一切語られていない。つまりこの小説の「地」の文はリュウ君の「心情」が語られているのではなく、リュウ君の語りたいことが語られているに過ぎないのである。つまりこの小説、随分軽い読み物ではあるが、やはりハードボイルドなのである。主人公は人一倍饒舌ではあるが、いちばん大事な事は語らない。だからしきりにこ「この不良親父は」とか、「ヤクザ親父」とか言われている彼の「親父」に対する感情は、「地」の文とはそうとう違うだろうという事も推察されるのではある。私でなくても分かるとは思うが、リュウ君、この親父の事を男として、仕事仲間として、そして「肉親」として尊敬し、愛している事がいろんなところから見え隠れする。それを親父にも読者にも照れて言わない所がまた「可愛い」のではある。



2005年01月13日(木)
「大極宮3」大沢在昌、京極夏彦 宮部みゆき

「大極宮3」角川文庫 大沢在昌、京極夏彦 宮部みゆき
もうこの時期の恒例行事になった感のある、三人が所属するオフィスが編集した「大極宮」の第三弾。今回は文字列が横組になり、さらにHPぽくなりました。なんか年一回発行されるファンクラブの会報みたいなノリなのでつい買っちゃうんですよね。

今回の目玉はロング座談会ではなく、不連続「連載」掌小説の「罪と罰」。第110回を大沢在昌が書き、第120回を宮部みゆきが書き、第130回を京極夏彦が書いている。微妙に繋がっているようで、それぞれが個性豊かに描いていて、面白い。また宮部のお勧め下町案内というコーナーで、清澄庭園が「夢にも思わない」の舞台になった白川庭園のモデルになったと書いているところや、京極夏彦の「こだわりの書斎」の写真など、興味深い記事もあった。



2005年01月12日(水)
「ネオデビルマン」講談社漫画文庫 

「ネオデビルマン」講談社漫画文庫 
今年は実写版「デビルマン」という映画の「イベント」があった。内容的には今年100作近く見た映画の中で、名誉あるワーストをあげたいような作品であった。原作とは違う物語になるのは良いとしても、テーマは全て中途半端に終って、役者も学芸会並の演技で、もうどこにも良いところが無いような作品であった。もっともそういう悪口は総合芸術である映画だからいえる事であって、これが漫画の短編ならよくぞそういう切り口で描いたと、そのことのみで誉めるべきであったろう。

この各漫画家のデビルマンに捧げる短編集を見てみると、あの映画で描こうとした事が、ここでは何人もの現役漫画家が変奏曲のように描いている事に気が付く。突然隣の人間がデーモンに乗っ取られていくとどういうことが起こるのか、自分がデビルマンとしての使命に目覚めるまでを描く短編、怒りで理性を無くし自らデーモンになるまでを描く短編、デーモン化現象で混乱していく社会を描く短編、その中でしたたかに生きる人間を描く短編、実に面白い読み物であるし、各作家のデビルマンへの愛が感じられて嬉しかった。特に、江川達也、石川賢、三山のぼる、とり・みき、岩明均、高寺彰彦、黒田硫黄の短編は傑作だった。



2005年01月11日(火)
「諸星大二郎自選短編集彼方より」集英社文庫

「諸星大二郎自選短編集彼方より」集英社文庫
諸星大二郎が74年に第七回手塚賞を「生物都市」で受賞して以来、すでに30年たった。この作品は、今読んでも全然色あせていない。いや、PCを管理しているのか、管理させられているのか分からなくなっているような現代、至る所で監視カメラが作動している現代、ここで語られた問題意識はいよいよと切実になってきている。機械と一体になった青年が呟く言葉「夢のようだ…新しい世界がくる…理想世界が…」。
不思議世界への入り口を叙情豊かに描いた近年の傑作「ぼくとフリオと校庭で」。読みたいと思いながらなかなか出会えなかった不条理ギャグ漫画の傑作「ど次元世界物語」。「ヨシコちゃんと首たち」「桃源記」「砂の巨人」は単行本未収録の作品である。
「自選」のためか、なかなか素晴らしいセレクトである。装丁も素晴らしい。この表紙の絵からだけでもいくつもの「物語」が立ちあがるような気がする。



2005年01月10日(月)
「桃太郎の運命」鳥越信

「桃太郎の運命」ミネルヴァ書房 鳥越信
民話の中で育ってきた桃太郎が、明治になり、出版物として新たな生命をえる。時には神話世界へ。時には大正ロマンへ。時にはプロレタリア児童文学の中へ。そして戦争に利用され、侵略の子として。様々に描かれる。

やはり考えさせられたのは、侵略の子として外征し、世界制覇をする彼である。1940年代、良心的と言われた作家が、侵略性むき出しの桃太郎を描いている。あるいは、手塚治虫も何回も観たはずの日本初の長編アニメ「桃太郎の荒鷲」(真珠湾攻撃のパロディ映画でもある)の中に、少しだけヒューマンな部分を挿入していたのは、映画製作人たちの微かな抵抗であったのか。

巻末に桃太郎関係の絵本、童謡、詩編、戯曲、脚本、漫画の膨大な一覧表がある。気が付くのは、戦後に入ってからの桃太郎関係の本の種類の多さだ。私たちは現在、当初の民衆の夢から発した桃太郎の話に自由に出会える。これはやはり幸せな事なのだろう。

この表を見て一つ欠落しているのは、裏「桃太郎」というべき「温羅伝説」が入っていないということだ。岡山県では有名である。桃太郎の退治させられた鬼はじつは郷土の英雄だったのである。なにしろ岡山には「鬼の城(きのじょう)」が考古学発掘をもとに再現してある。確か戯曲にもなっているはず。ぜひ一覧表の中に入れて欲しい。



2005年01月09日(日)
「アルバイト探偵」大沢在昌

「アルバイト探偵」講談社文庫 大沢在昌
高校生、冴木隆の親父は探偵。しかし、この探偵、事件が起きないと動き出さない。しかも、女好きする良い男。しかも、どうやら前身はいろいろな修羅場をくぐってきた男らしい。ただ、隆にとってはあくまでもぐうたら中年男だ。本当は実の父ではないという噂もちらほら。ときどき父親を手伝いアルバイトするのだが、隆もなかなか探偵家業が様になっていて、なかなかもてるのではある。

まずはキャラクターが楽しい。深刻な事件を高校生の目から描いていて、「事件」と「日常」がうまいこと混じっている。本当はどちらに転ぶ事も出来るはずだ。国際的な大陰謀事件に転ぶ事も出来れば、下町ハードボイルドに徹底する手もある。シリーズ最初のこの短編集はそのどちらにも行かないところでうまいこと留まっている。その軽さをとりあえず楽しんだ。



2005年01月08日(土)
「私が彼を殺した」東野圭吾

「私が彼を殺した」講談社文庫 東野圭吾
久しぶりの東野圭吾「本格推理小説」体験であった。別に暇をもてあましているわけではないが、たまたまポッカリと時間が出来たので、まさかこれで1日潰すような愚かな真似はすまいと思いながら読み始めたのではあったが…。甘く見ていた。本当に1日を潰してしまうとは!

それもこれも、途中まで自分の推理にある程度の自信が出来たからいけないのである。この作品は犯人当ての「本格」である。アガサ・クリスティみたいに最終盤では容疑者全員が集まり、加賀刑事という「名探偵」が謎解きをして最後は「犯人はあなただ」と言って終る。後は解説を読んで「答合わせ」をするのだ。クリスティの場合は容疑者が相当数居る。しかし、この作品の場合はほんの数人。時間をかけて随分と丹念に読んでいった。私は分かった気になっていた。

この文庫には前回の「どちらかが彼女を殺した」と同様、「袋とじ解説」なるものが付いている。だから立ち読みでは犯人は分からない。今回初めて気が付いたのだが、前回同様、西上心太という解説者なのだが、後扉の紹介文にはこの解説者の名前はない。というとなると、この解説者は実在の人物ではなく東野圭吾の分身なのだ。まったくもって回った作品である。トリックもまったくもって回っていやがる。ええ、その通り。推理は当たりませんでした。




2005年01月07日(金)
「ありがと」ダ・ヴィンチブックス

「ありがと」ダ・ヴィンチブックス
当代有名女流作家12人による、少しだけ良い事を見つけることの出来た女性たちの物語。「有名女流作家」といったが、実は私その誰の作品も今回初めて読んだのである。物語の扉裏には彼女たちの紹介がある。芥川賞作家あり、日本推理作家協会賞あり。みんな、そうそうたるメンバーなのである。しかし私は気に入った作家を徹底的に読むタイプの読み手なので寡聞にして知らなかったのである。今回気に入った物語は三つ。

「モノレールねこ」加納朋子。10年前、携帯メールが発達していなかった頃、小学六年の二人が実物の猫を通して小さな手紙のやり取りをする。相手の事はなにも知らない。「聞いておどろけ、なんと百点だ。」「え、ほんと?すごいじゃない。」「ウソだぴょーん。」もちろん野良猫が介在するのだから、これだけの会話に何日もかかる。しかし、いまだ会った事も無いメル友を持った事のある人は了解するだろうが、なんとも心温まる物語なのである。もちろん小説なので、ひとつの悲劇とひとつのあっとおどろく展開もある。しかしそれは付け足しである。

「光の毛布」中山可穂。好きあっている二人の恋愛関係が壊れていく物語。彼女が転職して設計事務所に勤めたからだ。小さな会社なので、24時間働くような生活が続く。男はそれが我慢できない。女はそんな一昔前のような男の事を嫌いになれない。男も嫌いになれない。そして二人は別れる。しかし、ラスト読者は少し感動するだろう。失っても人は全てを失うわけではない。

「届いた絵本」光原百合。別居している親を持つ女の子は自分の中でどのようにその事を消化しているのだろうか。この女の子は賢すぎるのかもしれない。父親のプレゼントはあまり意味が無かったのかもしれない。けれども私はその賢さを愛する。




2005年01月06日(木)
「ミシェル城館の人第1部争乱の時代」 堀田善衛

「ミシェル城館の人第1部争乱の時代」集英社文庫 堀田善衛
ミシェル・エーケム・モンテニュー(1532−1592)の生きた時代は、カトリックとプロテスタントの対立が激化し、国を巻き込んでの宗教戦争に突入した時代である。いち商人から2代かけて帯剣貴族になった父親を持ち、西南フランスギュイエンヌ地域のモンテニュー村の城館に生まれたミシェルの、これは伝記小説である。とはいっても、私はモンテニューその人をほとんど知らない。もちろん『随想緑』は読んだ事も無い。ならば、なぜこの本を紐解いたかというと堀田善衛の作品だからである。彼が書く以上、現代日本に住む私になんらかの刺激を与えるだろうという期待があるからである。正直なところ、第1部を読んだ限りではまだ分からない。しかし面白い。

堀田善衛の意識はまるで16世紀のフランスに実際に居るかのように自由に漂う。文章は評伝のようであって、実はそうではない。論文ではない。堀田善衛が見て語った糞尿にまみれて臭い16世紀のパリの街そのものであり、堀田が読みこなしていったミシェルの著作や、当時の知識人の著作そのものなのだ。よって読者である我々も堀田を旅先案内人にして16世紀のフランスを旅して回ることができるのである。なかなか楽しい。

世は争乱の時代である。ミシェルとて、時代が要請する決断の時をやがて迫られるであろう。しかし当時ミシェルは「納得できないときには<未決のまま>にする」という態度をとる。「ほんとうにそれでいいの?」と私は不満である。第2部に至り、「われわれのミシェル」は思想家として羽ばたくだろう。そのとき彼はどういう決断をするのだろう。今から楽しみだ。



2005年01月05日(水)
「うまい!と言われる文章の技術」 轡田隆史

「うまい!と言われる文章の技術」知的生き方文庫 轡田隆史

書評の書き方を学ぶためだとしたら、この本はうってつけかもしれない。句読点の付け方、文章を削るときのポイント、「書きだしにテーマのオーム返しはしない」、借り物の引用より自分の体験を、等々。なるほどなるほどの世界である。しかし、私は書評のために買ったのではない。多くの人もそうだろう。「いつかは自分史を。」「いつかは小説を」「会社でのレポートのため」いろんな「本当」の理由がきっとあるはずだ。そして、そのための文章教室としては少しずつこの本の記述では足りない事を、読者は読む前に覚悟しておいたほうがいいだろうと思う。小文の書き方としては参考になるが、長文の書き方としては不足が目立つ「文章読本」である。

さすが長年文章教室で教えてきただけあり、小論文、書評のような小文の作り方で、大事な事は書かれてあるように思える。推敲とかの技術的なことだけではない。「心構え」を中心に置いている所がこのほんのいいところであろう。「なぜ」を大切にしよう、とかいうのはその代表例だ。

ただ、私は分からなくなる。この人は誰のために文章教室を開いているのだろう。ここのある心構えや技術は基本的には、新聞記者として、あるいは論説委員としての著者のキャリアの復習でしかない。しかし、新聞記者入門として書いていないのは、「取材」の項がすっぽり抜けている事からも明かではある。いったいこの本を買うような人間はなにを期待して買うのだろう。そのところがこの本の最初から最後まででひとつも明かにしていない。それはつまり、私は「なぜ」この本を買ったのだろう、ということに繋がるだろう。







2005年01月04日(火)
「12色物語」 坂口尚

「12色物語」講談社漫画文庫 坂口尚

12の「色」から触発された、坂口尚の短編集である。東欧、南欧、アメリカ、そして日本、と舞台は次々と変わる。扱う人間のタイプも実に様々。しかしまぎれも無く坂口尚しか描けないマンガの世界。アシスタントを使わない一本一本の線が、12の物語全体を通じて「生きる意味」を語る。
今回特に印象に残ったのは次ぎの5作品。この人の描く老人はどうしてこうも味わい深いのだろう。緑色の森が見事な生命賛歌になっている「朝凪」。最後から2ページ目のガラクタばかりの絵に見事にテーマが集約される「紫の炎」。父から貰った万年筆で少年は一本の線を描く。少年から大人へ。一本の線は大いなるボルガ河の紺色につながっていく。「万年筆」。才能の無いバイオリニストの物語。けれども彼はほかに道を見つけることが出来ない。この歳になってやっとこの作品の深さが見えてきた。寒く白い決意への道。「雪の道」「おれ、ときどき考えるんだ。太古の植物や恐竜が、地層の中で石炭や石油になったように、人間も圧縮され長い年月のすえ何か明確な有用なものになれたらってね…。」そう呟く男と、人生と山に迷いこんだ女子高生は果たして真っ黒い夜の中になにかを見つけることが出来たのだろうか。「夜の結晶」。

坂口尚の代表作を挙げよ、といわれると私は迷うことなくこの本を挙げるだろう。彼の真価は短編の中の一コマの絵の中でこそ輝く。この本は出来たら原稿と同寸の大判で復刊して欲しい。

24年前、手塚治虫の「ブッダ」が連載されていた「希望の友」が廃刊になり、新たに「コミックトム」という雑誌が創刊され、坂口尚のこの「色」からイメージされる様々なジャンルの連作短編が始まったとき、本屋の立ち読みではあるが「熱心な読者」として私は何度も何度もこの短編を読み返していた。当時、大なり小なりアシスタントを使ってのマンガが溢れかえっている中で、ここだけは背景の一本一本が作者自身が引いており、作者の詩情が一本一本に注ぎこまれている、これこそ本当のマンガだ、まだ若かった私はその純粋さを驚き「支持」していたのであろう。私は一筋の望みをもって書いたこの作品へのラブレターが当選し、その後描かれる長編「石の花」の主人公らしき男の肖像が書かれてある自筆色紙が届いた。流れるように描かれる一本の線が髪や顔の輪郭をつくっていた。いまだ私の宝物である。今回漫画文庫に入っていることを今更ながらに知り、急いで買い求めたのであった。



2005年01月03日(月)
「雑草にも名前がある」 草野双人

「雑草にも名前がある」文春文庫  草野双人
残念!雑草の事のみ書いている本ならよかったのに。扱っている草花は私の好きなものばかりだ。犬の子の尻尾という意味のエノコログサ、夕方にならないと咲かない宵待草、実はオオマツヨイグサ、中国からの渡来種で実際上海郊外で見たことのあるヒガンバナ、万葉集に「糞カズラ絶ゆることなく宮仕えせよ」とうたわれたヘクソカズラ、真夏の夜の妖艶舞カラスウリ、「その小さな青い花が、空の色を受けとめる鏡のようで、大自然と呼応しながら希望を抱いて賢明に生きる、けなげな姿」と著者が見事に説明したオオイヌノフグリ、「女郎花の花にふれゆく袖口の黄に染まりつつ山はしたしき」と歌われたオミナエシ、「雑草の中ではいちばんの美人」と著者も言うし、私もそう思うネジバナ、雑草の代名詞厄介物というイメージだが、他家受粉でしか結実しないという弱点も持っているヤブカラシ、多くの人は名前は知らないが姿だけはよく知っている、原爆の落ちた広島の街に異常発生したというヒメムカシヨモギ、春の七草の本当のホトケノザであるコオニタラビコ、刺身のつまにもならず役に立たないという意味で犬の名前が付くイヌタデ(しかし本当は下痢、皮膚病に効くそうだ)、山を歩くと必ず出会うが名前を知らなかったヨウシュヤマゴボウ(洋種山牛蒡)、等々。しかし、作者はそれだけを書いて良しとはしなかった。
 関根正二、阿仏尼、生田春月等々、歴史の中に埋もれ、雑草のようにたくましく生きた人々のエピソードを一章につき一人紹介する。どんな人が登場するかは、分からない。そういう人たちの話が全然面白くなかったわけではない。しかし私のこの本に求めていたのは、そういうものではないのだ。ほとんどの人がそうであろう。



2005年01月02日(日)
「憲法九条、いまこそ旬」井上ひさし 梅原猛 大江健三郎 奥平康弘 小田実 加藤周一 澤地久枝 鶴見俊輔 三木睦子

「憲法九条、いまこそ旬」岩波ブックレット 井上ひさし 梅原猛 大江健三郎 奥平康弘 小田実 加藤周一 澤地久枝 鶴見俊輔 三木睦子
2004年7月24日に開催された「『九条の会』発足記念講演会」の講演記録。これは学習講演ではない。もちろん九条を巡る学習的な面が全然無いわけではない。(特に奥平氏、小田氏、加藤氏の講演)それ以上にこれは同時に発表された『アピール』と同様、「日本と世界の平和な未来のために、日本国憲法を守るという一点で手をつなぎ、「改憲」のくわだてを阻むため一人ひとりができる、あらゆる努力をいますぐ始めること」その「呼びかけ」の記録集なのだ。
第1声が発せられて約半年、「九条の会」の願いは陵原の火のように広がっているかのようにみえる。しかし「改憲」の黒い染みはすでに日本全土に広がっているようにも感じる。まだまだ火の広がりは小さい。
澤地久枝は言う。「希望はやっぱり自分が努力してつくらなければ、どこからも降って来ません。まだ、私たちは絶望するには早すぎると私は思います。今日も頑張って立っているのですが、(澤地は心臓病で退院したばかり)あまり髪振り乱して頑張るという感じではなくて、ニコニコしながら、みんなでいい顔しながら、しかし、わたしたちは譲らないというところでは、鉄の意志、鋼の意志を失わずに、ご一緒にやっていきたいと思います。」



2005年01月01日(土)
あけおめ「デモクラシーの冒険」

新年明けましておめでとうございます
今年は個人的には転機の年になりそうですが、
ここに書いていくことは今のところ変わりそうにありません。

この前、このエンピツサイトから初めてメールが来ました。
大変嬉しかった。
私このサイトを加工して参加しやすいようにする方法知りませんので、
読んでくれている人も意見いいにくいとは思いますが、
気軽にメールくれると嬉しいです。
意見反論はさらに歓迎します。
「反論」大好きです。

「デモクラシーの冒険」集英社新書 かん尚中 テッサ・モーリス・スズキ
確か丸山真男が言ったのだと思うが、「民主主義とは制度の事ではなくて、間断無く話し合うという<運動>である。」だとすれば、民主主義について意見の違う二人が徹底討論するのも良いが、この二人のように比較的似た意見の知識人が徹底的に討論するのも、なんらかの成果が上がるのかもしれない。しかも、ふたりとも日本国籍やオーストラリア国籍の無い『ボーダー』な知識人である。国際的な視野に立ち、日本について考える事が出来る。

結果、幾つかの新鮮な視点を貰った。例えば「(現代は)個人と国家の中間に存在していた媒介項(労組や階級や地域というコミニュティ)が無くなってしまった。その意味では、なぜネオ・リベラリズムとネオ・ファシズムがうまく結合するのかが理解できます。」という指摘。個人が剥き出しの形で国家や企業と対峙してしまうと非常に危険なのである。

ただ、結果的にこの本で現代の民主主義の問題の主要な部分が網羅的に出ているとは到底思えない。世界分析も歴史的な学習も、そして実践的な提案も私は不充分だと思う。でもいいのだ。こういう本はあくまでも「考えるヒント」なのだから。