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2004年12月31日(金)
『山田洋次の<世界>』 切通理作

『山田洋次の<世界>』ちくま新書 切通理作
映画『たそがれ清兵衛』への評価の中で、私の回りの者の多くは「世のリストラ父さんたちへの応援作品である」という感想を持っていた。確かに、派閥抗争の中で自分を殺してしまった余吾善右衛門に対し、清兵衛は大切な家族を護った、ように思える。しかし私は後になるほどあれがハッピイエンドとは思えなくなっていた。ひとつは清兵衛が実力で余吾に勝った訳ではないこと。余吾の刀が欄干に引っかかったのは自殺であるとしか思えない。ひとつは清兵衛はその三年後、企業戦士として戊辰戦争で戦死する、とナレーションで語られること。どうして世のお父さんはそんな作品で癒されるというのだろうか。しかし、それは私が「山田洋次は幸福に終る明るい作品しか描かない」というへんな偏見を持っていたため、歪んだ見方をしていたためだったのだ。

監督の作品を初期からずっと観ていくと、ハッピイエンドはおどろくほど少ない。『学校』シリーズはいつも厳しい社会に出ていく直前で終っている。寅さんにしても、本当の最後は不幸な「野たれ死」であったかもしれないが、その一歩手前でいつも終っていたのかもしれない。『人生の地獄』の中にある『ふとある幸せな時間』。その「リアルさ」にわれわれは癒され、元気を貰っていたのかもしれない。『家族』『故郷』を観れば更にはっきりする。

著者は子供の頃おじさんに「寅さんが男の中の男なんだよ。大きくなればきっとわかる。」といわれたそうだ。女性がいうのならともかく、医者をしているりっぱな大人がいうのである。若い人は「どうして風来坊が」と思うであろう。しかし人生も後半にかかった私などはこの言葉は「その通り!」と思うのだ。



2004年12月30日(木)
「古代の百済・加耶と日本」 韓国文化院監修 

「古代の百済・加耶と日本」[古代の日本と韓国]シリーズ3 韓国文化院監修 
古代の加耶と日本は非常に密接した関係にあった。百済はそれに少し遅れるが、飛鳥文化ひいては大和朝廷の確立時期に決定的な影響を及ぼしたのは、今では常識の部類に入るだろう。

しかし、それが具体的にどういう関係であったのかはまだ「藪の中」ではある。また、それに関しての分かりやすいテキストは非常に少ない。ひとえに、韓国側の資料がまだまだ乏しい事から来ていると私は思う。そういう意味で、韓国文化院が主催したこの連続講演会の記録は貴重である。ほとんどが今から15年ほど前の記録であり、今では古くなったデータもあるかも知れず、それは不満ではあるが、韓国の第一人者の講演を聞くと言う意味では貴重なシリーズであると思う。

倭の王の弟と、高麗の大加耶の王と金官加耶の王の三人が加耶連合の議決権を持っていたかもしれないと言う記述には、非常に興味を持った。資料の信憑性も、年代も明かになってはいないそうだが、いかにもありそうなことではある。ここには私がこの数年に訪れた金海、釜山福泉洞遺跡、公州の武寧王の遺品解説の記述もある。非常に参考になった。



2004年12月29日(水)
「まほろばの疾風」 熊谷達也

「まほろばの疾風」集英社文庫 熊谷達也
八世紀末の東北蝦夷対大和朝廷との闘い。この題材ではすでに高橋克彦の長編傑作「火炎」がある。ところが、同じアテルイを主人公にしながら、まったく違う小説になっている事にまず驚く。登場人物たちの性格、立場、性別どころか、住む環境、闘う動機付け、全て違っており、同じところを探すのが困難、というよりか、同じところが結局文献に残っている資料部分なのだろうと思えた。高橋の著作も非常によかったが、考古学が趣味の私にとっては、こっちのほうがよりリアルである。確かに、当時の蝦夷達の生活はアイヌ民族のそれとあまり変わらなかっただろう。だとすると、最初から東北連合国家があり、アテルイはその首長の息子であったとする高橋の著作には少し無理があっただろう。モレをアテルイの懐刀ではなく、いち村を統率する大巫女で、女性であるとして、話を面白くしている。アテルイの少年場面などは熊谷のアイヌ取材、東北動物取材が活きた独壇場。想像部分と歴史的材料をうまくとりこんで、なかなか小説になり難い古代をうまく料理している。



2004年12月28日(火)
「The MANZAI 2」 あさのあつこ

「The MANZAI 2」カラフル文庫 あさのあつこ
1巻の続編。今度は書き下ろしである。1巻は中学生群像を描いて魅力的であったが、今度は瀬田君と秋本君、そして美少女萩本にスポットライトが当たっていて、三角関係はそれなりに解決してしまったが、変に納まりが付いてしまって、私には魅力半減であった。もうこれ以上の続巻は無いだろう。



2004年12月27日(月)
「レディ・ジョーカー(下)」高村薫

「レディ・ジョーカー(下)」毎日新聞社 高村薫
高村薫は仕事の描写を大切にする作家である。新聞記者たちのいったん事件が起きたときの独特の空気の描写やネタ元との付きあい方、大手企業社長の分刻みのスケジュールを適確にこなし判断していく様子、刑事たちの独特な仕事の内容についてはすでに前々作、前作で充分描かれたが、今回はとくに「行確」が執拗に描かれる。しかし、この作品の中でもっとも重要な役割を持った人間達の、その仕事内容がほとんど書かれていない。総会屋と政治家の仕事である。その事は何を意味するのだろうか。読者それぞれが考える事なのだろう。

長編の利点であるし、高村薫の小説の利点でもあるのだが、いろんな読み方が可能だろうと思う。社会的事件発生のメカニズムとその発生源への考察、大企業の危機管理のあり方、男たちの誇りのあり様とその失意のあり様、幾つかの隠れた愛の形、そして私は本流から外れているかもしれないが、「頭のいい人間の思考回路はどうなっているのか」二人の人間をモデルに随分と興味深く読んだ。社長の城山恭介とその警護実はスパイを担わされている合田雄一郎警部補。そのこなしている仕事量と考えている事のギャップ。圧巻は合田がレディ・ジョーカーの巧妙な合図の白い布に気が付いた下りだ。「長年ちどりで鍛えてきた目は、何かに焦点を合わせる目ではなく、耐えず視界全部をひとまとめにして捉えているせいで、目に映っている風景の範囲内に変化があるとすぐ分かる」とはいってもたまたまの昨日の風景のほんの小さな違いに普通気が付くだろうか。この記憶力、人間技ではない、と思うのは私だけだろうか。

ラストの数ページは最近の長編の中でも白眉であった。このラストだけは文庫版「全面改稿」でも変えて欲しく無い。



2004年12月26日(日)
「ウエンカムイの爪」 熊谷達也

「ウエンカムイの爪」集英社文庫 熊谷達也
同じくまの名前を持つ私ではあるが、くまの生態はよく知らなかった。寝た振りや、無視が効くのだというように思っていた。いったん人間を襲うと決めた熊にはそういうものは効かない。とくにヒグマは今本州に出没しているツキノワグマとは全然違い、危険である。そういう未知の世界の実態を教えてくれる教養小説の一面と、それでも熊に魅せられていく主人公たちの心の奥を探る小説である。「アイヌ神謡集」を読んだばかりの私には、いい熊のキムンカムイ、悪い熊のウエンカムイの違いがよく分かる。しかしどちらも神なのだ。ゆめゆめ容易には近づけない。導入の緊張と中盤のたるみ、そして後半部の盛り上がりで、一気に読ませてもらった。処女長編とは思えない上手さではある。題材が面白いだけに、気になる直木賞作家が出てきた。



2004年12月25日(土)
「妖奇切断譜」貫井徳郎

「妖奇切断譜」講談社文庫 貫井徳郎
残念である。本の1/4の段階で結末の半分が見え、1/2の段階で8割方見えてしまった。そういった目で読んでいくと、随所に物語をわざと複雑にするためだけの工夫が見えてくる。そして共感を覚えない登場人物たち。久しぶりに失敗作に出会った。まあ、そういうこともあるでしょう。貫井徳郎はエンターテイメント作家なのだから、この1冊で彼に失望するなんてことは、もちろん無い。



2004年12月24日(金)
「だれが本を殺すのか(下)」佐野眞一

「だれが本を殺すのか(下)」新潮文庫 佐野眞一
今年になっての最新情報も載せた「本コロ」の完全版である。最終章には「本の復活を感じさせる小さな予兆」という題も付けられている。しかし私の感じたのは、前巻とはうって変わって、本の将来に対する「暗い予兆」である。なぜそう感じたのか。この巻には、書評や電子出版、自費出版、コミック、雑誌、最新の書店や出版会の動向など一通りの「状況」については述べられてはいる。しかし、そこで必死に頑張っている「人々」の動向はほとんど無かったからだろうと思う。私は流通業界の端に身を置くものとして、どうしようもない消費不況は確かにあるが、結局それを打ち破る最大のカギは「人の力」である事を日々実感している。私には、まだまだ取材すべき事が残っているように思えた。



2004年12月23日(木)
「南の島に雪が振る」 加東大介

「南の島に雪が振る」知恵の森文庫 加東大介
加東大介といえば「七人の侍」の名参謀役が有名であるが、私にはそれよりも山中貞夫監督の「人情紙風船」(S12年)における縛徒役を思い出してしまう。この映画は日本映画が誇る大傑作で、私には生涯邦画ベスト10に残りうる作品である。当時の前進座総出演で、その関係で加東も出ている。加東があまりにも若かったので、ちょい役ながら覚えていたのである。山中監督はこの直後に徴兵され、還らぬ人となった。そしてその6年後、加東は2回目の徴兵を受け、ニューギニアに向う。時代はそういう時代だった。たかが、芸人ふぜい、いつ死んでもおかしくは無かったのである。

運命のいたずらで加東の部隊はアメリカ軍の総攻撃から免れる。戦意高揚、いや、生きる意欲高揚のために加東たちは芸を持った人たちを集め、「マクノワリ歌舞伎座」を創設する。余興ではない。毎日休まず公演を行うりっぱな「部隊」である。数々の感動的な「場面」がある。「生きる」とはどういう事なのか、「生き甲斐」とはなんなのか、そのエッセンスが淡々とした加東の文章の中に隠れている。

さすが、名エッセイスト沢村貞子の弟だけあり、文章は時にユーモラスで、臨場的で、無駄が無く、素晴らしい。隠れた名戦争文学である。この作品は一度東宝で映画化されたそうだが、「生きる」意味を見失っている現代、ぜひもう一度映画化してもらいたい。



2004年12月22日(水)
「雪明かり」藤沢周平

「雪明かり」講談社文庫 藤沢周平
再読である。しかしこみあげてくる想いはいつも切なく、愛しく、優しく、哀しい。市井ものと武家ものが交互に出てくる短編集。山田洋次監督の映画の原作となった表題作についてはどなたかに譲るとして、今回は2編の市井ものについて述べたい。

「恐喝」竹二郎はあの後、死んだのだろうか。なんとか生き永らえたのだろうか。ひとつ分かるのは、竹二郎が体を張った理由(わけ)は、決してあの心優しいおその嬢のためではなく、寺の後妻に行くと言う二つ上の従姉のためであったのだ。「あんなのと早く手を切らないといけないよ」姉とも愛しいともいえる人のなんでも無い一言が、男に一生一代の行動をとらせるきっかけになる事も、たしかにあるだろう。

「暁のひかり」目の前に、映画のように、早朝の河岸の景色が広がるような一編だった。少しづつ暁の光に包まれていく景色の中で、すさんでいた心は少しづつほぐれていく。市蔵だけではない。読者である私もそうだった。だからその後の市蔵を包む「せきりょう」も、我が身の事のように思う。

この短編集、全編に渡り「人が人のしあわせを願っている」。願うのほうの人は決してしあわせではないというのに。



2004年12月21日(火)
「上司は思いつきでものを言う」橋本治

「上司は思いつきでものを言う」集英社新書 橋本治
著者と編集者が次ぎの新書の企画で話し合った。「サラリーマンの切実な悩みを扱って、彼らに指針を与えて、ものすごく分かりやすい本とかは無いですかねえ」「言葉で言うのは簡単だけどね…」結論が出ない二人は河岸を変え、飲み屋に繰り出す。そこではサラリーマンがくだを巻いていた。「上のやつらは現場のことなんか全然分かっちゃいない」「どうしてあんな思いつきが通るんだよオ」それを聞いた著者は「上司は思いつきでしかものを言わないんだよ。それがひいてはこの日本経済の構造的な欠陥でもあるんだな」ととうとうと説明を始めた。「それ良いですよ。もっと喋ってください。あなたの喋りはそのままで本になりますよ。あとは私がテープ起こししますから…」というわけで著者は三日間にわけて思いつくまま話し始めた。……というこの本の成りたちかと私は思っていた。文章は話し言葉、なので。しかし、あとがきで著者は「パソコンを使わず、万年筆でこの原稿を埋めている」といっていた。よく考えたら、話し言葉は「桃尻娘」以来彼の「文章スタイル」ではあった。一見は分かりやすい。しかし彼は理詰め理詰めでこの本を書いている。だから読んだ人たちは、たぶんほとんどの人が「納得」させられるだろうと思う。あとで細かい異論に気が付く人も多いだろう。著者はしかしその事も承知で書いている。「よーく考える」(上司の立場に立って考える)より「ちょっと考える」(自分の立場に立って考える)です。もっと自由にこの事に書いてあることを自分なりに咀嚼していけば良いと思う。



2004年12月20日(月)
「知里幸恵「アイヌ神謡集」への道」 北海道文学館編 

「知里幸恵「アイヌ神謡集」への道」東京書籍 北海道文学館編 
たまたま読んだ「アイヌ神謡集」に心動かされたのでこの本を購入。知里幸恵が非常に多くの人に、特に北海道の人に愛され、尊敬されているのだと知った。驚き、そして納得した。

巻末の「知里幸恵東京での129日」(幸恵の日記や手紙金銭出納帳によって再現)は良い資料だった。彼女は死の直前まで何をみて何を考えていたのか、推測できるようになっている。特に知りあいのアイヌが死んでとても苦しんだ数日後に、自分が子守りをしていた金田一春彦(当時赤ん坊)が井戸に落ち、九死に一生を得た辺りはひどく感動的である。井上ひさしが劇として脚本を書いてくれたらとても面白いのが出来るのになあ、などと想像してみる。



2004年12月19日(日)
「植物ごよみ」 湯浅浩史

「植物ごよみ」朝日新聞社 湯浅浩史
朝日新聞連載の「花おりおり」では短すぎて載せきれなかった話題を述べたいという想いでこの本を編んだという。「花おりおり」でも渡来種かどうか、名前の由来等は触れられてはいたが、ほんの一言二言で終っていた。私などは古代に興味があるため、一方ではそういう記述があるのが嬉しく、一方では短い記述に歯がゆい想いをしていた。

参考になる事が実にたくさんあった。文献に残る植物は「万葉集」「古事記」が最初ではあるが、だれがどういう頻度で扱っているかによって、文書以前の渡来の時期を推測したり、考古学的成果を動員して、縄文人の利用の仕方を明かにしたりしている。ツバキやホオノキ、リンドウなどの古代での使われ方等、参考になった。

面白いのはなぜ彼岸花が墓地や土手、畦に多くて、人里に限って咲いているのかという考察であった。彼岸花は有史以前、しかしわりと最近になって渡ってきた渡来種である。かって日本では死者は土葬にされた。野犬やねずみ避けに茎に毒を持つ特性が利用されたのだろうという推測である。土手や畦に咲いているのは、ねずみ等による穴の水漏れ防止に利用されたのだろう、ということだ。今年も彼岸花は彼岸の入り前後に計ったように一斉に人里を赤く染めていった。約2000年の時を隔てて、「人の想い」をみたような気がした。



2004年12月18日(土)
「レディ・ジョーカー上」 高村薫

「レディ・ジョーカー上」毎日新聞社 高村薫
上巻を読み終えた。下巻はまだひもといていない。買ってもいない。その上での感想である事に留意していただきたい。ーこの本を買って半年、積んどく状態だった。1章の半分まで読み終えるのに半年かかった。しかしながら、そのあと上巻の全部を読み終えるまで三日かからなかった。要はこの小説、すぐにトップスピードに乗る乗用車ではなく、動き始めるまでは遅いが、いざ動き出すと猛スピードで走ることの出来、だれも止める事の出来ない、重戦車であった、ということなのだろう。

巨大企業の恐喝事件。とはいってもグリコ森永事件とは似て非なるものである。と思う。「レディ・ジョーカー」たちと、日の出ビール役員たちと、総会屋たちと、新聞記者たちと、警察組織との五つ巴の闘いが始まる。

物井は考える。「高のいうとおり、金は確かに回して儲けるものだろうが、財をなした人々が回しているその金は、元はといえばどこから来たか。」キューポラ工人だった自分から、あるいは姉や兄から絞り盗っていったものではないかと考えが至ったとき、温厚な爺さんだった物井は突然「悪鬼」となる。

大企業の社長、城山恭介は恐喝を受けたとき最初「20億ぐらいの裏金は何ということもない会社のために自分は死ねるだろうか」と自問自答してみる。「会社はそのために恩を感じるだろうか。」城山の答は速やかに決まる。

この小説の隠れた主人公は「金」なのかもしれない。みんながそれを巡って「悪鬼」となっていく。ひとり、合田雄一郎だけが前作とは違い、何かふっきれたみたいに爽やかに立っている。とりあえず今はそういう物語の様に思える。



2004年12月17日(金)
「あかね雲」山本一力

「あかね雲」文春文庫 山本一力
この作品、珍しく運命が登場人物たちにあまり困難を与えない。上方から来た豆腐職人の深川での商売は、その生真面目な仕事も手伝い順調に進む。少しつごうよく話が進みすぎではないか、という気がしないでもない。しかしそんな事では直木賞は獲れない。第一部で親子二代にわたる豆腐屋の有為転変をテンポ良く見せたあと、その中の謎のセリフ心情を第二部でもう一度なぞるという映画的手法、そしてなによりも「人情話」としての心骨頂的場面の数々。押し付けではなく、泣かせる小説に久しぶりに出会った。ただあまりにも「説明のし過ぎ」が気にかかる。



2004年12月16日(木)
「集中力を確実にアップする技術」ライフエキスパート編

「集中力を確実にアップする技術」KAWADE夢文庫 ライフエキスパート編
今年の夏、オリンピックの柔道を見ながら大いに刺激された単純な私である。勝負の別れ目はなんだったのか。既にある技の切れだけではない。気持ちを高めていって、ここ一番のときに集中していつも通りの柔道をする。それが勝負を決めたのだ。がんばるぞ、と思った者である。

私の欠点は当然のことながら私がよく知っている。何度も試みては挫折した苦い過去があるのだが、とりあえずここには集中力をアップするためのポイントが約100近く紹介されていて、「これは知らなかった」「これがこの前挫折したときの原因だな」「これならできる」というようなことがいくつも散見していた。とくに1章の「ノリが悪いときでもやる気を引きだす集中術」2章「気が散る原因をスパッと解消する集中術」のなかには参考になる事例がたくさんあった。ともかく自分にあったスタイルを身につける事が肝要ではある。(もっともこの本にはスタイルにこだわりすぎてもだめだとも書いてある。喫茶店でしか集中力がつかないようではいざというときに役に立たないからである。)いろんな事が書いてある。玉石混淆、自分なりの玉を見つけよう。




2004年12月15日(水)
「やさしいことばで日本国憲法」池田香代子訳 

「やさしいことばで日本国憲法」マガジンハウス 池田香代子訳 C.ダグラス・スミス監修・解説
英文憲法というものがある。六法全書にも載っているこれは実は日本国憲法の英訳ではない。憲法作成過程で出来あがった日本国憲法との双子なのである。しかし、法的拘束力はないらしい。ではなぜ、英文憲法を訳するのか。憲法をいろんな見方をする事により(監修者は「ほぐす」という言い方をしている)憲法を解り易くするためである。例えば、日本国憲法では「日本国民」としているところ、英文では「Japanese peaple」といっている。池田訳は「日本のわたしたち」となる。「国」と言ったとき、日本人はどうしても「お上」というイメージを抱くのではないだろうか。しかし、英文で「ほぐし」てみる。お上が決めるのではない。どうやっても「わたしたち」が決めるのである。政府はわたしたちによって「命令」されるのだ。そういうことを考えながら憲法を再読してみる。

英文には単語帳も付いており、英語学習にもなる。中学生から読める憲法パンフレットである。



2004年12月14日(火)
「子麻呂が奔る」黒岩重吾

「子麻呂が奔る」文春文庫 黒岩重吾
「斑鳩宮始末記」に続く、飛鳥時代の取調べ官、子麻呂を主人公とする捕り物帳である。とはいっても、犯人がつかまるという単純な終り方が今回は少ない。子麻呂は物盗りや、殺人などの単純な犯罪からやがて政争絡みの犯罪にかかわっていく。ミステリーを所望の方には少し物足りないかもしれない。歴史すきには聖徳太子の政争敵の蘇我馬子がちらりと現れてどきどきする。

当時の階層、婚姻関係などを背景にいわゆる庶民の暮らしを生き生きと描き出しているのは今回も同じ。しかし中途半端なところで終ってしまっている。子麻呂の再婚はなるのか、子供の運命は?政争はどうなるのか、今回逃した魚とはどう決着をつけるのか、ぜひ続巻が欲しいところだが、果たしてあるのだろうか。やっぱり黒岩重吾氏の死は惜しまれる。



2004年12月13日(月)
「The MANZAI」 あさのあつこ

「The MANZAI」カラフル文庫 あさのあつこ
僕は14歳。クラスの人気者でスポーツマンの秋本から漫才のコンビにならへんか、と誘われる。なんで僕なんかと。「おまえが初めて教室に来た時ピンときたんや」僕は乗り気になれない。けれども文化祭で「ロミオとジュリエット」を漫才でするということになり、クラスを巻き込んで話は進んでいく。

簡単に言えばそんなあらすじである。しかしこの作家に限って言えば、あらすじほどこの作家の作品を語るのに必要ないものはない。おそらくこの作家は長編になればなるほど輝きを増すタイプの作家なのだろう。細部にこそ、この作品の神骨頂がある。とはいえ、高村薫みたいに書き込むタイプではない。行間の「間」に思いきり物語を詰め込むタイプなのである。だから登場人物一人一人がひどく気になる。漫才のプロデューサー的役割を買って出る森口京美、彼女の事を好きな秀才の高原、秋本が好きで僕にライバル心を燃やしている僕のあこがれの人萩本恵菜、衣装係で才能を発揮する野崎さん、登場人物たちのいろいろな想いを想像できるから、この本の何倍もの作品を読んだ読後感になるのだ。「バッテリー」と同じように長編になる可能性あり。続きを期待しています。



2004年12月12日(日)
「戦争のつくりかた」 りぼん・ぷろじぇくと編

「戦争のつくりかた」マガジンハウス りぼん・ぷろじぇくと編
パンフというものは時に大きな力を発揮する。マルクスの「共産党宣言」もパンフというかたちで出まわった。明治維新を推し進めた福沢諭吉の「学問のすすめ」は第1篇2篇と次々と出版されるブックレットであった。フランス大統領選の前にミリオンセラーになった絵本「茶色い朝」は超右翼が大統領になるのをなんとか食い止めた。そしてこの絵本「戦争のつくりかた」はメーリングリストを通じて出来あがった。有事法制や政府の発言などをつなぎ合わせると実はこんな世界になる、ということを訴えた現代への警笛の書である。冊子版は既に3万部以上売れ、この単行本版も大いに売れているという。この本が広まる世の中というのは良い世の中ではないのだが、私はこの本が広まって欲しい。もとの冊子版、インターネットダウンロードと、いろんなかたちでこの本が広まるのを期待する。ただ、私はこの単行本版が一番「力」を持っていると思う。なぜか。

冊子版には、本文と井上ヤスミチ氏の絵と、巻末に本文の根拠になった条文や議員発言などが紹介だけされてある。私は学習会などの資料になるように、条文などは本文に併せて全文載せて欲しいと思っていた。この単行本版ではそれがある。例えば、「みんなで、ふだんから、戦争のときのための練習をします」という戦前の防空訓練みたいな事をするという本文に対して、国民保護法第42条「指定行政機関の長等は(略)国民の保護のための措置に付いての訓練を行うように努めなけれればならない。」という「根拠」がある事が巻末資料を見ると読めるようになっている。今は「まだまだだ」と思っている人がほとんどかもしれない。しかし「戦争のつくりかた」は既に重要な部分は出来あがっているのを私たちは知るのである。この巻末資料が一番見応えがある。

この本が広まるのが先か、「現実」がこの本の内容を追い越すのが先か、へんな競争も考えてみたりする。



2004年12月11日(土)
「安心のファシズム」 斎藤貴男

「安心のファシズム」岩波新書 斎藤貴男
04年4月突如まきおこったマスコミの論者含めた「自己責任論」の大合唱。おかしい。何かが変わってきている。ここ数年のうちに変わって来た「何か」を斎藤貴男は(たぶん全てではないだろうが)一つ一つ丁寧に示す。

幾つか新しいことばを覚えた。「コンフリクト・フリー」激しい摩擦が生じてもおかしくない重大な事態が進行しているのに、またそれによって大きな被害を受ける危険性が高いか、実際に受けているにもかかわらず、当事者の内面で葛藤が感じられなくなった状態をいう。ある音楽教師は「君が代を弾く40秒間、私はロボットになったつもりでいる。そうでなければやっていけない。」と語ったそうだ。ことは東京都教育委員会だけの問題なのだろうか。

「割れ窓理論」軽微な犯罪の予兆段階でも容赦しない。警察権力の徹底した取締り。確かにニューヨークではそれで犯罪件数は減ったのかもしれない。しかし、大事な事はその犯罪の原因を探り、その原因の除去に努める事だろう。根本から間違ってはいないか。日本では今アメリカ・ヨーロッパを真似してものすごい勢いで「監視カメラ(防犯カメラ)」が増えている。問題はそれを住民がなんとなく良い事だと認めているという事だ。

ジョージ・オーウェル『1984年』、エーリッヒ・フロム『自由からの逃走』が何度も引用される。現代は古典をもう一度読む必要が問われているのかもしれない。過去から学ばなければ、未来は見えてこない。



2004年12月10日(金)
「だれが「本」を殺すのか」(上)佐野眞一

「だれが「本」を殺すのか」(上)新潮文庫 佐野眞一
出版不況だという。そう言われて初めて気が付く。月に出る新刊本の数はちょっと尋常ではない。そうとう気を付けていても新刊が出ていた事に気が付かなかったりする。平積みしたときにいかに目立つかを最優先させた、本の分厚さや装丁やポップ。年に一度以上話題に登る老舗出版社や大書店の倒産。古本屋とマンガ喫茶がうの子竹の子の様に開店してくる状況。近所の本屋の店じまい。私の大好きな「本」をだれが殺しているというのだろうか。

地方の書店の情熱溢れた努力に感動した。とくに盛岡の「さわや」。鳥取県米子市の今井書店。しかしそれは一部の先進部分でしかないのだろう。

返品率40%という大手出版社に比べ、地方の「弱小」出版社の返品率は10%以下がほとんどであるという。長い間をかけて全て売り切るというスタイル。高給取りではないが決して貧乏臭くない経営。志のある企画。「地方には汲めども尽きぬ企画の源泉がある」とある社長は言っていて、少し感動した。

出版不況だという。その構造的原因の究明は少なくとも上巻の役割ではないのだろう。ともかくもその危機の中で精一杯頑張っている労働者たちの生の声がここには溢れていた。出版社でも、書店でもいい、彼らに混じって私も働いてみたい。とさえ思った。私は暗澹たる気持ちになる前に、なぜか「希望」を感じていた。



2004年12月09日(木)
「ヘルタースケルター」 岡崎京子

「ヘルタースケルター」祥伝社 岡崎京子
手塚治虫がマンガを始めたとき、アメリカ映画の良質な部分、ロシア小説のテーマと劇空間、科学の理論性、蝶の翔んでいく詩情、子供の無邪気さ、宇宙の深遠、生と死の謎、戦争という運命、いろんな事が混沌として「まだ描かれていない作品」として彼の前にあった。
彼は死んで「マンガの神様」になった。彼の名前を冠した「手塚治虫文化賞マンガ大賞」の受賞者たちは、必死に彼を超えたかのような傑作を描いてきた。想像力の力を見せつけた諸星大二郎、劇空間を見事に現した浦沢直樹、線の勢いが物語をリードする事を証明した井上雄彦、柔らかな線で詩情を描いた高野文子、萩尾望都の「残酷な神が支配する」にせよ、それはまさに金メダルに値する「一つの頂点」ではある。岡崎京子も初めて読む人になるほどと思わせるだけの「力」を持った作品を描いた。きちんとした資料に裏打ちされた硬質な線、女性の内面を描く情熱と、それに流されないクールな副主人公との使い分け、後半に向って崩れていく構成と時々に爆発させる感情。手塚では決して描きえなかった世界ではある。手塚の「ばるぼら」などと比べてもこちらのほうが確かに凄い。岡崎京子は確かに二億光年ほどは孫梧空張りに飛んだのかもしれない。しかし帰ってくると、やはり手塚の掌の中なのだ。手塚が「まだ描いていなかった作品」の掌の中なのだ、と私にはどうしても思えてしまう。
以上、この作者やこの本のファンにとってはなにも意味の無い戯言でした。この作品がマンガ史の中でどのような位置をしめるのか、ふと思ってしまっただけなのです。



2004年12月08日(水)
「井伏鱒二全詩集」岩波文庫

「井伏鱒二全詩集」岩波文庫
井伏鱒二という「詩人」の全貌がやっと身近なものになった。私は彼の詩の一部しか知らなかった。今回の詩集は今まで一番充実していた「全集」のそれよりも「拾遺詩篇」19篇が付き、まさに「決定版」になっている。彼の詩は一言で言うと「個性の塊」である。そして一方では「柔らかい日本語」なのだ。そして時々「どきりとする表現」があり、時々「謎な表現」がある。

例えば「逸題」。「今宵は中秋名月/初恋を偲ぶ夜/われら万障繰りあわせ/よしの屋で独り酒をのむ 春さんたこのぶつ切りをくれえ/それも塩でくれえ…」この見事なリズム感、見事な庶民性。そしてなぜ「われら」が「独り」なのかという謎。

また訳詩という作業において、井伏はまだ誰も追い_していない換骨奪胎の偉業を成し遂げている。「ハナニアラシノタトエモアルゾ/「サヨナラ」ダケガ人生ダ」干武陵の「勧酒」を見事に訳したこれだけではない。「ドコモカシコモイクサノサカリ/オレガ在所ハイマドウヂヤヤラ/ムカシ帰ツタトキニサヘ/ズヰブン馴染ガウタレタソウダ」(杜甫「復愁」)今回彼の詩を全部読んで気づいたのはその詩の中に庶民から見た戦争の影がどうしようもなくまとわりついているということだ。これは井伏でしか書けなかった詩であり、もう現代では誰も書けない詩である。そういう目で見ると「つくだ煮の小魚」も「顎」も「春宵」も突然いなくなった者たちへのもの哀しくオカシイ鎮魂歌の様にも思える。のは私だけだろうか。



2004年12月05日(日)
「片思い」東野圭吾

「片思い」文春文庫 東野圭吾
最初読み終わった直後は違和感が残った。そんなに「うまくいく」ものだろうか。ほころびがありはしないか。数日後、思い返してみて、ほころびがない事に気がついた。うむ、凄い。そうだとすると、一つ一つのエピソードが切なく迫ってくる。
私は思うのだが、東野圭吾は「失恋」物が非常に上手い、というよりたいていの物語は失恋物なのではないか。失恋ではなかったら、片思いである。「秘密」にしても壮大なる失恋の物語であるし、「白夜」にしてもある男の片思いの物語だとも読める。常連の加賀刑事にしても、私は長い長い片思いの最中だと推察している。著者の写真を見る限りはあんなにいい男なのに、分からないものです。



2004年12月04日(土)
「邪馬台国と大和朝廷」 武光誠

「邪馬台国と大和朝廷」平凡社新書 武光誠
邪馬台国論争の戦前戦後にかけての論点を整理し、邪馬台国と大和朝廷の関係を解き明かそうとした著者の視点は好感が持てる。しかし、学術的に信頼できるかというと、ずいぶんと疑問がある。専門的な部分は私は確かに疎いのではあるが、「巻向く遺跡の文化のあり方と、仏教伝来直前に当たる6世紀はじめの大和の文化のそれとの共通点が多い事から見て、大和で急激な政権交代があったとはみられない。それゆえ、巻向く遺跡を起こした首長が今日の皇室に連なると見て間違いがないであろう。」(15P)などと、ちょっと考古学をかじれば到底言えない事を平気で言っていたり(継体天皇断絶説を知らないのか)、著者が騎馬民族征服説の立場に立つのはまだいいとして、それを徹底的に批判した佐原真氏の説を紹介しないばかりか、弥生時代の権威だった佐原氏の名前が一度も登場しないような偏った学説の紹介のし方だと、この本は単なる「読み物」以外の何者でもないと判断せざるを得ない。まあ、全てが偏見に満ちた書物ではないと思うので、学説の整理には参考にはなるのであろう。



2004年12月03日(金)
「巨人たちの星」J.P.ホーガン

「巨人たちの星」創元SF文庫 J.P.ホーガン「今度は戦争だ」
いやはや驚いた。シリーズ第3作目にいたり、学術的、哲学的な部分はずいぶんと影を潜め、このシリーズは見事なエンターテイメント作品としていったんの完結をする。シリーズ一、二巻目において主人公だったハント博士は今回は一人の登場人物でしかない。ダンチェッカーは相変わらず素晴らしい閃きを見せるが、後半ではすっかり出てこなくなる。そしていよいよ、「巨人の星」の政府代表が出てくる。ずっと裏方に回っていた国連宇宙軍本部長コールドウェルが、その戦略的才能を示し始める。女性も負けてはいない。リン・ガーランドも大活躍する。スペース・オペラらしく全銀河支配をもくろむ敵も現れる。

物語は宇宙の謎解きから始まって、スパイ大作戦に移行し、最後は銀河大戦争に突入するのである。三部作の中でこの三作目が一番どきどきわくわく、面白かった。



2004年12月02日(木)
「パイロットフィッシュ」角川文庫 大崎善生

「パイロットフィッシュ」角川文庫 大崎善生
ある夜、41歳独身編集者の部屋に一本の電話がかかる。「わかる?」「ああ、わかるよ」19年間音信不通だった昔の恋人からの電話だった。それでも、その声を忘れる事はなかったのだ。主人公山崎の昔の恋と現在の状況が交互に描かれていく。

私は映画「千と千尋の神隠し」での印象的な言葉を思い出していた。「人は一度あったことは忘れないものさ。ただ思い出さないだけ。」山崎は昔の恋の全てを思い出していた。自分を哀しませ、鼓舞し、励まし、成長させてくれた言葉の数々。これはあくまで恋愛小説だと思う。しかし、それだけではない。出会いと別れが人生の中でどういう意味を持っていたか静かに語りかける小説でもあった。人は大事な言葉は決して忘れない。しかし、それだけではない。

私は聖という青年のもしかしたらありえたかもしれない青春のように読んでいった。聖は著者のデビュー作「聖の青春」で書かれた実在した夭折の名棋士である。聖は知りあいが阪神大震災で圧死すると入院するほど優しい神経の持ち主であったが、山崎も亡くなった飼い犬のために何日も鬱状態が続いてしまう。昔の恋人由紀子は「山崎君は方向音痴なのよ」といって付き合いはじめる。もし聖が一人部屋の中で目覚めたときに由紀子さんのような女性がいたとしたら、聖の青春は違ったものになったのではないか。著者は聖に対する鎮魂歌のつもりでこの小説を書き上げたのではないか。私にはそんな気がしてならない。



2004年12月01日(水)
「ビフォア・ラン」重松清

「ビフォア・ラン」幻冬舎文庫  重松清
幻の文庫本がやっと再版された。6年ぶりの再版。やっと読む事が出来た。まだ無冠だった頃の6年前ならともかくそれ以降賞を重ね、今や現代を代表する人気作家のデビュー作が絶版に近い状態になっていた事は、おそらく誰かの意思が働いていたのではあろう。
私は実は出来が悪い作品なのではないかとずっと心配していた。なるほど、24歳のときに原型を作ったらしく、後年のテーマである「家族」は当然浮かんできていない。しかし、切ないほど個々人が追い詰められて行く様はすでに出ているし、それにもかかわらず、読後感が「温かい」重松清の最大の特徴も、すでに出ている。読みだすと巻置くあたわず、一気に読み終えた。心配は杞憂に終った。デビュー作らしいみずみずしい作品である。
解説の池上冬樹が、「四十回のまばたき」「舞姫通信」「見張り塔からずっと」「幼な子われらに生まれ」「ナイフ」「定年ゴジラ」までの重松清の仕事を総括し、「国民的な人気を誇る大衆作家になるのではないか」と予言しているのはさすがである。私はその2年後「ナイフ」に出会い、それ以降文庫本を本屋で見かけると「無条件」に買うのを習いとしている。