天使のながばなし
maki



 きのうはたいへんでした

昨日は大変な日になってしまった。
とゆう今も唐辛子を触った手で鼻を触ってしまい、
左鼻の入り口辺りが大変なことになっています。か、辛い。

昨晩久しぶりにひどく体調を崩してしまった。
夕方からオリジナル練習をして、
夜はゴスペルのレッスンで体を使ってたくさん空気を使って歌ったら、
心臓がバクついてきて呼吸が・・・
その後ご飯を食べた後に気持ち悪くなったり頭痛くなったり。
おまけに飲み方がかなり厳しく決まってるリウマチの薬を、
飲み間違えたことに気づく。
間違えたの初めてだったので不安になって余計に気持ち悪くなったかも。
さらに生理2日目でこれまた追い討ち。

練習も気をつけないといけない。
さっきまで全然平気だったのに、急に苦しくなったりする。
特にゴスペルは今の私にとっては危険なのだ〜
ついつい体を使って歌いたくなっちゃうけど、
私は加減しないと・・・かなちい。

でも今日はすっかり元気。
一応病院に電話して、
体調悪かったり心配なら血液検査とかしにきてくださいって言われたけど、
「いいです。様子みま〜す」と切った。

私が病気じゃなくたって、練習を長くやればいいってもんじゃない。
1回2回に集中して、ポイントをしぼって、工夫して練習しなければ。
やっぱり不自由は新しい自由を生み出してくれるね。

2005年03月31日(木)



 自由と不自由と

あれから新しい声に向かって毎日少しずつ歩いています。
見えなかった虹もうっすら見えてきました。

今日は外は雨だったけど、私は雨上がりで、
虹が見えたんです。
あっと思って嬉しくなって、
そのまま瞬きしないように見つめ続けた。

新しいその声を垣間見た瞬間から失うのを怖れる。
歌い進みながらも失うのを怖れてることに気づいた。
こうやって固まっていくのか〜って感じ。

新曲以外のオリジナルも少し歌ってみた。
自由さと不自由さが交錯していておもしろかった。
表現したいように声が出てくれる自由さと、
その声を失いたくない不自由さ。

それでも虹はとてもきれいで、
私にまた新しい世界を見せてくれた。


最近、一見不自由な中に、自由があると気づくことが多くて、
私はそれを楽しんでいる。

もちろん音楽にも、言葉にも、新しい声にも。

2005年03月28日(月)



 幸せなわけ

昨夜はオンド・マルトノとゆう楽器の音を初めて聴きました。
・・・と思いきや昔は映画やドラマの効果音に使われていたらしい。
選曲は気持ち良いものが多くて私好みの空間でした。
音量がそんなに大きくなかったのも良かった。
日本語の曲もボサノバもジャズも隔たりなく聴こえたのは、
オンド・マルトノが参加していたこともあるのかな。
聴きながら月の光をイメージしたり、
心の中で言葉を並べたりしていました。


昨日だったかテレビで風すい師の李家幽竹が、
宝くじを外したことがない話をしていて、
自分が落ちてる時に買うといいって言ってた。
私はここのところちっとも落ちていないので、
どうにか落ちてみて、宝くじを買いに行こうかと思ったんだけど、
そう都合良く落ちてくれない。いいけど。

今朝台所でそんな話をしていたら、
「私はずっと落ちっぱなし」やら「今はまぁまぁだから買えない」やら
みんな色々言っててね。
で、その後考えてたんだけど、
私の幸せについて言われたことを思い出した。

本当に好きなことをやって、時間もあって、家もあって、
お金にもそんなに困ってるわけじゃなくて、
そりゃあホントに幸せだよね、と。
幸せじゃないわけない、と。

確かにそう。
幸せだけどね、「・・・だから」なんだろうか?
私は私を取り巻いていたものに、
幸せを見出せたことが幸せだとは思うのだけど、
私が詩を書いていて歌を歌っているから幸せで、
あなたがそれをしていないから幸せではないとゆうことにはならない。

もちろん詩や音楽は特別で、
そこにきちんと向き合えることは喜びに他ならない。
でもそれだけじゃなくて、
もっともっと小さな日常に幸せを見出せようになったことにも、
私は驚いている。
あれもこれも幸せだと気づくことに。

今日応接間の掃除をしていて、
「なんでそんなに掃除するようになったの?」と聞かれ、
「心が仏に近づいたから。心が綺麗になってきたから」などと、
偉そうに言ってみました。
本当に面倒臭くなくなったし綺麗にしたいと思う。

私が幸せなわけは、幸せだと気づけたこと。
目が開いたこと。


2005年03月27日(日)



 今日は夢のおはなし。

夢を見ました。

ある有名芸能人からたくさんの人の前でプロポーズされます。
何かの番組の収録現場のようでした。
周りの人はみんな祝福してくれて、私は拍手に包まれました。
でもその瞬間心の中で思うのです。
「あれ、違う。嬉しくない。結婚なんて出来ない。」
誰もが祝福する中、私はひとり「そうではない」ことに気づきます。

そして別のある男性に、
「あなたのこと好きでもなんでもないけど、あなたじゃなきゃダメなの」
などとゆうのです。
好きでもなんでもないって・・・ねぇ。
そうじゃなくてもいいと思うんですが(笑)

この夢にとんでもなく本質が盛り込まれてた気がして、
起きてから少々ボ〜っとしてました。

こないだ笑っていいともで寺脇康文がおもしろいこと言ってた。
夢に入っていくのも覚めていくのも分かるんだって。
あ〜始まった〜と思いながら寝て、
そろそろ終わるなぁなんて思って起きるらしい。

現実の音が夢のストーリ−に組み込まれてくることや、
その日の出来事のありもしない続きを夢で見ることはあったな。
夢の感情が強烈で起きたら泣いてたこともあった。
この時は私は昭和初期くらいの女性政治家か何からしく、
主張を全く受け入れられないことに、
ものすごい怒りとくやしさを感じていました。
まだ女性の主張は認められないような空気だった。
顔は私ではなかったけど、意識は私でした。

相変わらず機嫌がいい私。
今日は新しい声に少しづつ取り組んで、お買い物をして、
万博会場が案外空いてるニュースを見ながらそれなら行けば良かったと思い、
キムチ鍋を食べてから、金八先生に泣いて、
イラン戦を見ながら和風ロールケーキを作って失敗した私でした。

今日はどんな夢を見るのかな。



2005年03月25日(金)



 新しい声に向かって

春分の日のNSD発表会でどわっと疲れて、
日記書くの忘れてました。

疲れていてもなぜか私は火曜日からかなりご機嫌。
ふと気づけばこないだまでの不安やイライラや悲しみや妄想は消えていた。
理由なんて分からない。
・・・こともないけど、一瞬で晴れるもんだね。

今日のオリジナル練習は泣きながら歌いました。
今までの声を一度捨てることになりました。
そうしなければこのオリジナルは歌えない。

私は泣きながら歌詞の紙を見つめて思っていました。
この言葉たちをちゃんと歌ってあげたい。
そうしてあげられなくて悔しい。
悔しいって思えば思うほど涙が止まらなかったけど、
悔しいって思いながら歌ったってダメ。
今の私で何とか出来るとこまで頑張って、
目を凝らして心を澄ましてまだ見えない虹のありかを探すしかない。

一生懸命練習しつつもこれまでの声に甘んじていた。
全部捨てて新しい声を追い求めることに抵抗はない。
この免疫はここ2年で十分ついた。
ひるむことはやめました。
未練とゆうものも捨てたから、心置きなく新しい声に向かえます。

私の言葉を本当の言葉で歌えますように。
私の言葉じゃなくても本当の言葉で歌えますように。
その声はとてもとても純粋で透明でありますように。




2005年03月24日(木)



 取るに足らないもんだから

クリスマスのライブに来てくれた友達に、
昨日久しぶりに会いました。

10代の頃通ってたボイトレ教室のお友達。
クリスマスのライブがすごく良かったと言ってくれました。
何より嬉しかったのが「まきさん完成って感じ!」って言葉。
10代の頃から何度も私の歌を聴いてるし、ライブも見てるけれど、
そんな言葉は初めて聞いた!
「一時はどうなるかと思ってたけど(笑)」のおまけ付きでしたが(笑)

全部を上手くやろうと思っていた頃。
なんて言われると一番嬉しい?って質問に、
「カッコイイ」と答えていた頃。
変わってるねと言われるととても嬉しかった。
平凡が大嫌いだった。
私はそのように演じていたにすぎない。
今思えばそんなもの大きな影で誰かを威嚇しているようなものだったし、
分かる人にはすぐに分かることだった。
だからいつも怖れていたし、本当の自分が好きじゃなかった。

借りてきてた「アメリカンビューティー」を観ました。
あの頃の私みたいに平凡が大嫌いな女の子も出てきた。
みんながみんな苦しそうでズレてて、
すれ違って傷ついていたけど、本当のことだった。
こちら側から見ればとてもとても小さくて取るに足らない人間。
そうゆう私もあちら側にいるに違いない。
最後の言葉を聞いていたら、何だか泣けてしまった。
いつか理解出来るって言葉。
きっとそうなんだろうな。

そして今日の情熱大陸。
角田光代だった。
読んだことないのだけど。。。
なぜオーラがないのかなんて事をテーマにしていたけど、
とても普通でオーラのないことがまぎれもなく魅力だった。
何度もいろんな小説や雑誌の連載の一部が出てきたけれど、
すごく素敵な言葉ばかりだった。

世の中にあふれる言葉がこんなにも私を刺激するのに、
私はあまりたくさん本を読まない。
読めばいいのに、と今日初めて本気で思った。

自分なんてものは取るに足らないものなんだから、
めいっぱい垂直飛びしたって反復横飛びしたって、
大したことないか。
どんなにやり過ぎたってやり過ぎることなんてないか。


2005年03月20日(日)



 感情は自由なのだと思う

今週はずっと外側から自分の心を見ている感覚。
コントロールは出来ないのだけど、
微妙な動きや変化を見ることが出来ました。

平穏な中にも風は吹いて波は立っていたし、
不安の中には終わりも希望もありました。
太陽の中には喜びと悲しみが入り混じっていたし、
雨は冷たくもあたたかくもありました。

想像の中で意味のない決意をして自分を納得させたりしました。
まったく意味のないことだったんだけど。
なぜその時そうゆうところに行ったのか自分でもよくわからない。
ありもしない不安が膨らんでいっちゃったんでしょう。

と思えば何でもどんどん書けるような気分にもなったし、
ツボにはまって泣きながら笑ってたりもしました。

とにかくコントロール出来ないけどね、
感情は本当は自由なんだなぁと思ったわけです。

2005年03月19日(土)



 ふんわり、でした

今日は春分の日の発表会の衣装さがしに出かけた。
ギリギリですが、初めに着ようと思っていたものがイマイチとゆうことで。
アクセをジャラっとつけてなんとか決定。

その帰りアルティにお買い物へ行きました。
店に入った途端「あ!半分あげる〜」と言われ、
出てきたのがゆでたうどんに柚子醤油と生姜醤油をかけたもの。
これがシンプルですごくおいしくて家でもやってみようと思ってます。
一緒にうどんを食べていた方と話をしていたら、
その人は昔ステージ衣装などを作っていたそう。
今はやっていないけど、いつでも格安で作るよ〜とゆうことで、
機会があったらお願いしてみたいです。


本日は気分良好。
身体も悪くなかったし軽かったし、気持ちもふんわり。
重さとゆうのは腰にくっつくのかな。
もしかして子宮か。
チラッと面倒くささがまとわりつくような感じ。
昨日詩を書いたことでポロポロと落ちていったのかも。

透明でピュアな魂もいいけど、ふんわりって感じもいいな。







2005年03月18日(金)



 なにはともあれ良かった良かった

雨のせいか身体がご機嫌ななめ。
買い物などで少し出かけはしたけど、ほとんど家でのんびりな1日。
残念ながら歌の練習は出来ませんでした。
そのかわり詩がいくつか書けました。
ひとつはコンクールに送ります。
谷川俊太郎さんと写真家の吉村和敏さんのビジュアルブックで、
「あさ」と「ゆう」ってのが出てるんだけど、
読みやすくて写真もすごく綺麗でとてもいいんです。
その2冊を記念した「あさ」と「ゆう」の詩と写真のコンクール。
たった一遍だけど、とゆうか、だからこそ、
ずっと書こうと思ってたけど書けなくて。
今日パッと書けたので良かったです。

作品を作っている時、それが出来上がる時、
それを入れる封筒なんかを選んで、
時には花のシールを貼ったり、
自作のポストカードの裏にプロフィールを書いたりする。
こうゆう一連の細かい作業すべてが、
私自身の楽しみとして進んでいくんです。

手に取る人へのインパクトや気を引くことを意識せず、
どちらかと言えば、これを見た時、
ちょっとだけその人が楽しくなったらいいなぁと思う。
小さな幸せを送る感覚。

私は昨日から今日にかけて、少々あらぬ妄想を巡らせていたので、
そんなくだらないことに惑わされ続けるよりも、
言葉を綴れたのが本当に良かったです。
なんて言って、そんな時こそスラスラと言葉が流れ出てくるのには、
苦笑しちゃいますけど。



2005年03月17日(木)



 いちいち嬉しい

昨日から後継車に乗り換えました。
軽は軽でも予定してたのとはぜんぜん違うものになったけど、
逆に嬉しいかも。
今の車運転してるとな〜んだかのんびりした気分になってくる。
周りの車は少々迷惑そうですが、私はいたって気分良好。

今日はゴスペルのお友達が、
ご主人の転勤で東京の方へ行っちゃうとゆうことで、
カラオケやさんで送別会。
カラオケやだからって、歌うのはゴスペルですけど。
MDつなげて流して歌いまくり。
みんなパワーがすごいので熱気ムンムン。酸素欠乏です。
そのあと残った数人でちょこっとカラオケして帰りました。



何度も何度も書いてきたけれど、
私の歌や言葉を好きだと言ってくれて、
幸せやパワーをもらったと言ってくれて、
そのたびそのたび嬉しい。
すぐに忘れてまた不安になることもある。
だからいちいち嬉しいんです。
その言葉に私がまた力をもらう。
やっぱり思いは、風に乗ってじゃなくても、
音楽にも言葉にも乗って、回っていくもの。
出し惜しんでちゃ、自分にだって回ってこないね。
たくさんの人の中を通り抜けたいなぁ。


2005年03月16日(水)



 そのタイミング

昨日は仕事で少しショックなことが2つあって、
しばらく心がそこから離れなかった。

今日はそこから少し離れて、今日の時間を生きました。
代行レッスンを頼まれていて、緊張しましたが良い経験でした。

少々グッタリしつつも、出版社から留守電が入っていたので、
折り返し電話。
結局今回の話はお断りしました。
これまた資金不足とゆうことで。仕方ないです。

きっと良いタイミングがまた訪れると思っています。
感情や欲に流されて、無理矢理決断するのは、
そのタイミングではないものを掴んでしまう。
それが素晴らしいものだとしても、
そのタイミングで掴まなければ、別のところにしわ寄せがきてしまう。
今回のお話は素晴らしいものだったけれど、
私の側の準備とタイミングが合わなかったので。

曖昧と思われるかもしれないけれど、
「勘」で決めるとゆうことを一番大切にしています。
もちろん見えるところはしっかり見て、
最後は「勘」の部分を大切に。

そのタイミングは「勘」の部分が知っているから。

2005年03月15日(火)



 その言葉の中に

詩をUPしたりカードや本を作るために、
昔の詩を読み返すことがたまにある。
そうすると私自身に励まされたり、勇気づけられたり、
教えられることになる。

得たものはすぐに失うのに、
いつまでも手の中にあるような気になる。
忘れて気づいて、また忘れて気づいてのくり返しなのに。

あぁそうだった。
心の静寂がこの言葉の中にある。
読むと感じる。
言葉に含まれたその時の心。心の状態。
何度でも感じることが出来る。

私は心を残す。
紙の上にその瞬間の心を残して、
それはいつだって開くことの出来る深い宝箱になる。
たくさんの、たくさんの宝箱を生み出してゆくことになるんだ。



実は先月別の出版社に手作りの写真詩集を送った。
そしたらおととい携帯に電話がかかってきた。
とても嬉しい評価を聞くことができ、
今後の活動のお誘いもいただきました。
とはいえ焦らずに、
今の自分をしっかり見据えてその都度判断していけたらなぁと思います。

またこうゆう評価をいただいたことで、
宝箱は誰でも自由に開けることが出来るんだと思うと、
とても嬉しかったんです。
言葉に向かう時の私の心は、
頑な閉ざされた心ではなく、
間違いなく開かれていたのだと分かったので。


2005年03月13日(日)



 闇の次

歌っている時、私は闇にいません。

今日は病院の後、お友達の家でユニット練習をしていました。

言葉に、声に、音楽に集中している時は隙間はない。

私はふと考える。なぜ私は闇にいたんだろう。何の必要があって?

なぜまた、今はもうどうでもいいことにこだわろうとする?

楽だから。悲しむことは楽だから。

退屈だから。幸せなのは退屈だから。

そんなはずはないのに、自ら闇へと身を投じたがるだけみたい。

どうでもいいこと、とゆうのは嘘。

どうでもよくはないけれど、何もどうにもならないだけ。

なるようになっていくことを受け入れていくだけ。

能動的に。積極的に。ただ自然に。

闇も。

だから私はその後すぐに光を見た。

闇を受け入れた瞬間に、あっとゆう間に光を。

2005年03月12日(土)



 

私が絶望の淵から生還してどれくらい経つだろう。
もう二度と光は見られないんじゃないかと思っていた。

それでも私は幸いにももう一度光を見ることが出来た。
もう一度どころかそれからの光は、
それまでに見たこともないくらいまばゆい感動に溢れたものだった。
次々と姿を変えて私を楽しませてくれた。
幸せへと導いてくれた。
すべてのものへの感謝が芽生えてやまなかった。

暗闇はたまに姿を現しては、
私へと存在を知らしめ、また光へと溶けていった。
そのたびに目を細める出会いが私に訪れた。


久しぶりに落ちています。暗闇へと。
もう私は光があるのも闇があるのも十分知ったので、
絶望感や恐怖に包まれることはないのですが。
ただくり返されたりどちらかが息を潜めたりしているだけで、
どちらだからどうとゆうことでもありません。
今は闇。
どうも周りが見えない。
つらいことを呼び寄せる。

穴に落ちるような感覚ではない。
あれ?さっきまで太陽に照らされていたのに、
一瞬で暗闇に包まれるような感覚。
いる場所は変わらない。「今」とゆうところ。
そしたらもう、ずっとそこにいたような気持ちになって、
どうやって太陽の下に出たらいいのかわからなくなる。
と思えば一瞬で太陽に包まれたりも。


耳を澄まして本当の声を聞き逃さないように。
雑音を作り出さないように。吸い寄せないように。
闇にいると見えないの。それが見えないの。
1秒後にしか。
そして責めるの。後悔するの。
また間違えちゃったって。

太陽の下ではどんな失敗の先の空までも見えるから、
何も不安になったりしないのに。

光よ、早く戻ってきてください。






2005年03月11日(金)



 近ごろ・・・

どうも最近自分も周りもいちいち判断する傾向にある。
意味のない厳しさや評価にまとわりつかれてる。
きつくしめられてる感じはしないけど、
ゆる〜く周りにいるようで。
そうすると怖れや焦りってのものが漠然と目の前に現われて、
行く手をふさいだりもする。
嫉妬心やら劣等感やら疎外感やら無力感なんかを呼び寄せる。
なんかすごい言葉が並んじゃったな。
どれもこれも比較や順位を伴うことか。
いい悪いも含めて判断ってそうゆうことなんだ。
結局自分を責めることになる。


そうそう私の書く詩がとても女性的だと言われました。
こうゆうことは自分ではよくわからない。
むしろ女性男性とゆうことから、
より離れたところで書いている感覚なので。
内側の内側の核へ向かうことが、
外側の広がる世界へ繋がるのと同じことなんだろうか。
詩を読み返してみたけどやっぱり自分では感じないみたい。
ただ何も着てない言葉があるだけ。
読んだ人に何らかの感想や感動を持ってもらえるのは嬉しい。
それが私の考えと違ってもそれはそれでいい。
何かが生まれるとゆうことが嬉しい。







2005年03月10日(木)



 一番感じるところ

一日の間に私が出会う出来事や感情は数え上げたらキリがない。
それなのに夜、いざ日記を書こうと思うと、
何も思い出せないこともある。
次の日の朝ふとまた出くわすこともある。

こないだスマステで各国のR指定についてやっていたんだけど、
それを見ながら改めて、裸ってキレイだなと思った。
愛のコリーダやエマニエル婦人なんか見ても、
いやらしいって感じは全くしなかった。
美しくて魅力的だった。

たまたま見た「未来MODEL」ってゆう番組でも、
オーディションでヌード撮影をやってて、
それもきれいだったし、気持ち良さそうだった。
私は裸に対してあまり恥ずかしいとゆう思いはなくて、
ヌード写真を撮ってみたいくらい。

本当に「感じる」ことって、
いやらしいところとは遠く遠くにあると思うし実感する。
本当に「感じる」時、とても広くて充実した空間に包まれる。
やわらかくて安心感に満たされる。

服を着て得られる幸せもあって、
服を脱いで得られる幸せもあるね。

触れないことで溢れる幸せも、
触れることで流れ出す幸せも。

どちらにしろ、感じているのは心に違いない。
谷川俊太郎の言葉をかりれば、
魂のいちばんおいしいところ、でしょうか。
そこが響きあったり触れ合ったりするのが、
私は一番感じる。

2005年03月09日(水)



 喜びの音楽

ここのところ、
オリジナルやら、発表会の曲やら、レッスンの曲やら、
ゴスペルやら、アカペラやら、ユニットの曲やら、
おまけにオペラ座の怪人の曲やら、
代わる代わる練習しています。

また今の私の大きな課題があって、
それをど〜しても出来るようになりたい。つかみたい。
たまに運がいいとポンッと感覚が分かることもあるけど継続できない。
調子がいいとじゃなくて、運がいいとってとこがポイント。
つまりつかめてないわけです。

それにしても私はもっともっと自由に歌えたらいいのにと思う。
どうしても根拠のない正しさに向かおうとするクセが抜けない。
そんなものないのに、わざわざ作り上げて固く小さくなる。
練習も本番もそれをくり返して越えてゆくものがあるから、
それも大切なことなんだろうけど。

そうは言っても、私は嬉しく音楽をやっている。
ゴスペルを始める前の頃は、苦しみになっていたから。
歌うことは苦しかった。もうず〜っとそうだったんじゃないかな。
今は向かってゆくことが大変でも喜びだと感じられる。
だからね、結果じゃないのだ。
でも、だからこそ結果が出る。
出ても出なくても嬉しいことに変わりはない。





2005年03月08日(火)



 決めても決めない

5:30に犬に起こされて、
仕方ないので昨日録画しておいた「アイ・アム・サム」を観ました。
朝っぱらからまた泣いてました。
ショーン・ペンすごい!子役のダコタちゃんもいいっ。
本当の親子みたいで愛をいっぱい感じる映画だった。

映画館で上映されてた頃、内容は知ってたけど、
音楽が全部ビートルズの曲って印象のが強かった。
今思い出した!
サントラをもらったことがある!
しかもほとんど聴いてない。。。
改めて聴いてみよう。


ビデオ観たらまた寝ちゃって、起きたら11時。
イトコと遅い朝ゴハンして、楠インター近くの銭湯に行くことに。
石の上に寝るヒ−リングってのにも入って、
毒素をいっぱい出してきました〜。


最近考えたことは、
決断するってことを人にゆだねると自分の頭働かなくなるなぁ。
いつもってわけじゃなくて、一緒にいる相手によってね。
みんながみんな「何でもいいよ〜。どうする〜?」ってな空間にいると、
「あっこりゃ時間の無駄だ。私が決めちゃおう」と思って、
パッと意見を言ったりするのだけど。
甘える人がいると甘えてしまう。

それから、
物事を決めたり、意見を言ったりした後、
それを変更する瞬発力をもってる人って少ない。
自分の中でそうだなぁと思うこともあった。
「ああ言ってしまったから今さら変更するの悪いな」とかゆうようなこと。
新しく思いついたり、気づいたことのほうがイイと思ってるのに、
気まずいとか申し訳ないとかイヤかもなんて理由で変更出来なかったら、
後悔するに決まってる。
しかも心配は頭の中の想像だけ。
これこそ、その瞬間に向き合ってない証拠だな。
記憶に今をくっつけるのはやめよう。

2005年03月05日(土)



 さっき泣いても

金スマ見て泣いてました。また泣いた〜。

おととし書いた「非日常のカケラ」とゆう曲。
いろんな意味を含んではいるけれど、
もともとは母のことを思い出しながら出てきた言葉でした。
亡くなった瞬間にすべてを許せてしまうのは何ででしょうね。
あんなに苦しめられて、みんながごちゃごちゃの心になって、
ヒドイ言葉を言ったりもしたのに、
亡くなったらいっぱいの感謝と少しの後悔だけで全部になっちゃった。
後悔は少しずつ癒されて、もう後は感謝だけ。

月日が流れるごとに、
渦中にいた時は分からなかった母のことが分かるような気がする。
自分のこともだけど。
私は必死に変えようとしていた。
母のことを変えようとしていた。
思いやろうとも分かろうともせずに、
どうにかして自分が救えるんじゃないかって思ってた。
結局何も変わらなかった。
ただ思いやればよかったのにね。


さっきひさ〜しぶりにオーラソーマ・カラー心理診断をやってみた。
現在の状態のところに、
「今まで抑えていた感情が、涙とともに洗い流されようとしています。
 我慢せず思いっきり泣くことが、
 今のあなたにとって強力なヒーリングになります。」
最近よく泣いてるのでなかなか鋭いなぁと思いつつ、
また金スマで泣いてたわけです。
しかし抑えていた感情とは?
自覚症状はないのだけど、
よっぽど細かいとこまで見逃さず出してあげないといけないんだね。
出し下手なんでしょう。
見つけ下手か。どっちもか。
要リハビリ。


しかし〜押尾コータローギター上手いね。
今は誰でもピカソの時間です。
浪曲の国本武春って人もおもしろい。
極めてる人たちって、
ドシッとしてて、やわらかくて、自信があって、
何気なくて、集中力がすごくて、でも開いてる。
あたしも頑張るわっ。



2005年03月04日(金)



 絡まってほどけて絡まってほどけて

ひなまつりの今日、後継車探しに出かけました。
諸事情ありで軽自動車にすることに。
わたし、軽に関して恐ろしい勘違いをしていたことが発覚!
恥ずかしすぎて言えません。。。
あ〜良かった〜あぶなかった〜。。。
来週中には今の愛車ちゃんとお別れです。


先週から今週にかけてよく泣きました。
それは瞬間的で引きずることはないけれど、
何か必要があるからなんでしょう。
その都度気づくことはある。
自分の中に引っ掛かっているもの、原因を見直すキッカケになる。

きゅっと心が固まると、
さっきまで考えていたことが違うような気がすることもある。
そこに絡まるとそのくり返しで、
いったい何をチョイスしたらいいのかわからなくなったり。
そんな時は何とかしようと思ってもダメ。
ダメだと思ってもダメ。
責めてもダメだし、無理に明るくしたってダメ。
何もしないことだなぁ。
そしたらほどけるから。

自分が絡まってるのかほどけてるのかを見られるようになった。
見るだけなんだけど。
泣いていてもどこか人ごとのよう。

今の私が前の私と違うのは過去の出来事を話したがったりしないことだ。
もう過去はあまり関係ない。今しか。


もう今はオリジナルに対する新たなアプローチを知ることが出来て嬉しい。
泣いたことは忘れた。
泣いたことについて考えるのはその時だけ。
今はもう今のこと。

2005年03月03日(木)
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