道院長の書きたい放題

2009年09月08日(火) 第七回 活人拳講義録/本題 活人拳!

■活人拳の変遷…

ようやく活人拳論に辿り着いた感があるのだけど、初期の頃は、不殺活人を不殺不害と言っていたのは、『書きたい放題』やブログで述べているので、知っているね。

「ハイ!」

――開祖は初期教範で少林寺拳法の特徴を、不殺活人(拳)ではなく不殺不害と記述されている。活人拳という言葉はあるのだが、○○の活人拳であり、行の概念と共に、言葉がまだ独立を果たしていないようだ。特に興味深いのは「金剛禅の拳は、殺人拳ではなく、活人拳である」の箇所(『復刻版・和27年度初版教範/少林寺拳法の特徴』参照)。

これは柳生宗矩の著した『兵法家伝書』中にある、活人剣/カツニンケンと殺刀/セツニントウに対応させて述べられておられるのだろうか…。まあ単純に殺人とすれば、活人は人を活かすということになる。イコール殺さない拳なら易しいが、活人拳となると、やはり両者の解釈は難しい。教範では柳生の言葉を取り上げていないので、また手にあまることもあり、活人剣と殺人刀について本講義では避ける。興味のある人は『兵法家伝書に学ぶ/加藤純一/日本武道館』を読んだらイイ。

昭和30年版の教範でも不殺不害という表現は変わらないが、「正統少林寺拳法の拳は殺人拳ではなく活人拳」となる。正確には「…邪道に入った殺人拳である。正統少林寺拳法は、あく迄活人拳」。そして少林寺拳法の特徴の項に、南拳北腿と入れ替わって力愛不二が入る(『昭和三十年度版教範/少林寺拳法の特徴』参照)。

「どのような違いと意味があるのですか?」

――当時の空気は分からないが、少林寺拳法開創当時はGHQの存在があり、禁武政策をおもんばかったのか宗教色が強いようだ。ところが世の中が落ちついてきて、宗門の行と押さえつつ、武の本義である矛を止める側の武道との融合を図られたのだろう。それで「正統少林寺拳法はあく迄活人拳」という表現になった。つまりこの表現によると、正統少林寺拳法とは、「宗門の行」と「(真の)武の道」が合体しているのだろう。

私はむしろ、力愛不二の概念が導入されたことが大きいと思う。

初期教範に「力無き正義は無力なり、正義無き力は暴力なり」と載っているとは五回目の講義で述べた(訂正100115:力の伴わざる正義は無力なり、正義の伴わざる力は無力なり)。しかし、力と正義が結びついているところに愛が加わって「力⇔正義 力⇔愛」となって難しくなった。力と正義の関係において、力を制御し、相手を改心させる為に愛が存在するのは分かる。しかし力と愛の関係において、正義はまったく必要がないのではないだろうか。私は、力愛の根源は慈悲心であると考える。たしかにキリスト教の無条件的な神の愛とは異なるようだが、比較論は手に余るので、これも避ける…。

避けてばかりで悪いね。

―一同笑い―

■開祖の集約的な教え/独立未宣言

ただ、力と正義に割って入るなら純粋な愛である方がイイ。背景に物理的な力が存在する二元化した力愛では上手くない。後年この混線が、横須賀事件(昭和52年)となって発露したと見る。そして事件後、先生は力と正義を結びつけた主張を薄められたように感じる。まあ平たく言えば、時代にそぐわないと反省されたわけだ(『少林寺拳法五十年史』参照)。代わって、より行を強調されたのだろう。ご遷化されるまであと三年。昭和47年の日本武道祭から紆余曲折を経て、最晩年期=『少林寺拳法奥義』発刊以降、説かれた「行」は、開祖の集約的な教えと考える…。

「同時に不殺活人から活人拳となる明確な堺ということですか?」

――うーーん! 開祖は活人拳を殊更強調されたわけではないんだ。不殺活人は昭和40年度版教範からこう記述される。ただし昭和38年発刊カッパブックスの中に、不殺活人拳、並びに一拳多生の活人拳、守主攻従の活人拳と出てくるから――後手必勝の活人拳♪の歌詞もかな、しかし、どこかに書いてあったような――開祖の胸中には、活人拳の独立概念が形成されつつあったのだろう。なので、行は独立宣言したけど、活人拳は独立を果たす前に指導者を失ってしまった、というところかな。

「だったら尚更、活人拳の独立は残された我々の仕事となるわけですね」

――嬉しいこと言ってくれるね! 活人拳は行の本分に則り、命に合掌・結手する=不害不戦=平和を愛する護身の拳法であり、卍を胸に秘めて修行に励む。ようするに少林寺拳法だね。

―一同笑い―

次回から、実技の説明と練習をしよう。



■本日のブログより

『流儀と流派 投稿者:今田三六 投稿日:2009年 9月 7日(月)15時05分13秒

ウキ釣りをやらない人から見ると分かりませんが、この釣りにも流儀があります。有名なのは、主にメジナ釣り?の阿波釣法とクロダイ釣りの遠矢釣法があります。

遠矢釣法はコマセでポイントを作り、底を棒ウキで狙うという個人が考案した釣り方です。一方、阿波釣法は徳島で発達した釣り方で、コマセを撒いてそのスジを狙う方法です。竿は右手、コマセは左打ち、小針を使う、円錐ウキを使うなど、かなり特徴のある釣り方です。


竿を右手で持つと、コマセの左打ちと同様リールも左巻きとなり、さらにタモも左手となり、専門家、アマチュアを巻き込んで是非の論争が止みません。ちなみに、遠矢名人は左手に竿を持ちます。面白いでしょう!? 私は竿左手持ち。

釣り場に行って、竿を右手に持っている人を見かけると、オッ阿波釣法の使い手!と見ます。ないし左利きなのでしょう。左手でコマセ、リール操作、タモ入れ動作をするのはかなりな修練を必要とします。


少林寺拳法にもそんな流儀?があるでしょう!? 例えば構え、突き方、受け方に、先生により独特なスタイルがあります。また技そのものに特徴がある場合もあります。活人拳にも特徴があります。主たる違いは意識の違いであり、拳技の違いは極端に表には出にくいでしょうね…。

流儀の違いがさらに大きくなると流派ということになるのでしょうが、一般的な釣り人にとってはどうでもイイことです。要は、魚が釣れればイイんです。』



『活人拳の一例 投稿者:今田三六 投稿日:2009年 9月 8日(火)11時49分39秒

◇活人拳の特徴として、「>主たる違いは意識の違い」と書きました。その一つの例を説明します。

当然、護身の技法ですから受け手を重視します。その際、内旋外旋の三角度(45度、90度、135度)をかなり厳密に指導します。実は攻防一体。例えば、0度は直ぐ突き。45度は三日月順突き。90度は鉤突き。135度は手刀腕刀切り。裏拳は外旋の90度で拳受けになります(逆に言うべきか)。側面打ちなら0度ですね。

開手伸筋系の基本受けは6種であり、それが片手、両手、諸手、段、順逆の形状を現します。切り系2種は外旋、押し系4種は内旋が原則です。しかし、さらに大きな原則に従います。若干例外があります。

開足中段に構えた拳を0度とすると、合掌は何度内旋するか分かりますか? また、活人拳に於ける結手の内側の右拳は握りますが(握らないと指導する場合があります)、何度外旋するか分かりますか? これらは受け手の基本に大きく関わります。

左中段構えから行なう天地拳第一単演の後半(相対でも可)、結果右構えの右手上受けと内受け=同時受けは、内旋外旋の連続動作で、諸手輪抜きに連動します。中野先生がご指導される輪抜きではです。同じく五・六の内受けと払い受けは、外旋内旋の連続動作で、諸手引き抜きに連動します。これは私の解釈です。

面白いでしょ!?

まるで、頭部臀部の卍形と臀部足部の裏卍形がくっついているかの如くです。天地拳は何方が考案されたんでしょうね。いや、もちろん開祖でした。特に第一がとても興味深いです。

このように、技法においては合掌形から捻りを意識し、柔法とのリンクも意識して修練します。体と運歩の伴は省略しますが、最善の相性を取ります。』




【注意】本「書きたい放題」は気持ちの問題もあり、即日にアップします。ですので、当日中、あるいは翌日にかけ、表現の過不足を改める場合があります。印刷して読まれる場合は数日後にお願いします。表現が異なったまま残るのは、私にしてみれば不本意であります。よろしくご推察の程をお願いします。尚、月日、年月が経て訂正を行なった場合、0908○○と断って訂正するのでご了承下さい。

良いものを残したい、伝えたい、と念じております。


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あつみ [MAIL]