私の演武論を展開したいと思います。
■ 演武の「演」という字が長いこと気になっていました。近年、ある大女優(誰でしたか…思い出せません。岩下志麻さんだったかな…?)が“役”を演じる過程で起きる“憑依”という現象を述べている記事を見て、“演じる”という言葉の深い意味が理解出来ました。得悟したのです。
興味深い話で、例えば、お姫様役の舞台が長く続くと、そのお姫様の人格が自分に乗り移ってしまい、家に帰ってからも威張ったり、わがままな態度になってしまうので困るということでした。ですから舞台が終わって、しばらくは心のリハビリ?をするのだそうです。そう言えば、恋愛をテーマとした映画や舞台で、主役を演じるカップルが結婚したりします。これも、役柄の恋愛感情が実生活の本人達に乗り移る憑依現象のひとつなのでしょう。
このように、演技することが自身の心=意識、無意識に大きな影響を与えることは間違いないようで、したがって、演技、演劇を医療、例えばカウンセリングなどの精神領域に活用しようとする発想は容易に辿りつけたのでしょう。世阿弥になると演劇、芸道論ですか…。
■ 今、手元に1972年に行われた日本武道祭のパンフレットがありますが、各武道団体の全てが、相対形、単独形の「演武」を公開しています。演武は少林寺拳法に限ったものではない事が分かります。ただし、少林寺に関しては単独形は一切行われませんでした。また、試合形を行ったのは…確か剣道だけだったと記憶しています。
演武は総じて神事、儀式、祭典に関わりがあります。我が国の国技である相撲も豊穣の神事に関わりがあり、横綱の土俵入りはその名残と言われています。雲龍型、不知火型と、(単独形)演武と言えましょう。少林寺拳法では正しく入門式、鏡開き式などの儀式、大会などの祭典に“奉納演武”が行われます。
以前、千代の富士が地方巡業で土俵入りすることに関する記事を読みました。「…しめ縄を付けると彼/横綱は神になる。途端に顔付きが厳しくなり、それ以前、観客は気安く触れたが、今度は、酔客が触ろうものなら『触るな!』と怒声が飛んで来る…」(要旨)と言う記事でした。で、土俵入りするのですが、その時、横綱は誰を意識しているのでしょう。正面を見据える目は誰を見ているのでしょう。観客?違うでしょうね…。
■ 演武は様式上、人が集まる場所で行われます。ここのところが演武を判り難くします。演武者は武を演技をしている訳ではないのです。いや…表現が難しい!
役者が「迫真の演技!」と批評/賞賛されることがあります。上述した通り、役になりきるなどという生易しいものではなく、役が憑依するのでしょう。役者の技量が大前提なのは言うまでもありません。
最近、中国の京劇に関するテレビ番組を見ました。「女形」の名優/男優?の紹介と、後継者の育成に苦労している内容でした。その中で、「女性は女性であるが故に女性らしい演技/研究を怠っている」(要旨)という発言を興味深く聞きました。確かに、女形一族には男が女を演じる様々な技が受け継がれていました。
つまり私が述べたいことは、演技とは技を演じる/行うことで、真剣な技を行うからこそ、その過程で男に女が乗り移り、時空を超えて虞美人が目の前の観客に現れるということなのです。もちろん役者個人の努力、例えば歴史書を読んで当時の時代背景を理解するなどの見えない努力も必要です。
役者と武道修行者では技の意味が異なりますが、迫真の技を演じることでなんらかの精神作用が起こる事に、大きな共通点を発見したのでした。(続く)
注:気になりましたので…、「試合形を行ったのは…確か剣道だけだったと記憶しています」をきちんと調べました。プログラムによれば、相撲、合気道、柔剣道、空手道、なぎなた、剣道が「試合」「試合形」(原文ママ)を行っていました。以上、訂正します。02.5.8.
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