道院長の書きたい放題

2002年04月22日(月) ◆(続)乱捕りに関する資料を読んで

続きです。

■ きわめて驚いた記述(目を丸くした!)は、11ページ中にある“フェイスガードを使う前に”で述べられている以下の文章です。

「武道を学んでいる以上、顔面への当身は避けて通れない。そして、武道を志す以上、顔面に当身をしてみたいという気持ちがあるのもまた自然なこと。でも(当たり前の話だが)、顔面への当身は危険極まりない。ちょっとでも間違うとたいへんな事故につながりかねない。」(以下省略)。

いかがですか? 私はふたつの疑問が湧いて来ます。

■ ひとつは、「…武道を志す以上、顔面に当身をしてみたいという気持ちがあるのもまた自然なこと」と、私の心?まで勝手に決めつけていることです。

この文章を書いた方はずいぶんと攻撃的(良く言えば積極的?)な性格なのでしょう…。それとも部外者/業者の方ですか? 旧乱捕り経験者としても、当時、そのような気持ちは持っていませんでした。上段の当身…それは練習しました。しかし現在でもそうですが、人の顔を叩きたいとは一度も思ったことはありません。多分、多くの拳士は同じ思いでしょう。

深層心理の中で、剣道を習ったら人を切りたい気持ちになるのですか? 弓道を習ったら動物を射たい気持ちになるのですか? 射撃の訓練をしたら人を撃ちたい気持ちになるのですか? 違いますよねー。性善説、性悪説、白紙説に例えると、武道修行/修業者は性悪説に立ってしまうのでしょうか。恐い事を言います…。

■ 顔を叩いてみたいという気持ちをスポーツとして発散させるのがボクシングで、これは一つの選択肢です。一方、その気持ちを克服する為にさらに厳しい修業を積み重ねるのが寸止め派・伝統空手です。また、日本拳法では防具を着用して上段を含めて打ち合うことで積極的な性格を造るとしています。これも選択肢です。ユニークなのは、フルコンタクトと上段寸止めを組み合せる流派もあります。

対して少林寺拳法では、入門時(武道を志したその日)から上段の当身は極力避ける。あるいは三日月、目打ちに止めるように指導されます。私の道院ではそうしています。

武道を習う人の殆どの動機は、「自分の身を守れるようになりたい」からで、少林寺拳法でも「強くなりたい」という入門の動機の意味は、ケンカに強くなりたいと思う人はまれで、実は護身なのです。もしケンカに強くなりたいのなら、昨今の潮流では馬乗りになって人を叩く格闘術を習うでしょう。なにか…心の出発点が違うようです。

■ 二つ目。「でも(当たり前の話だが)、顔面への当身は危険極まりない。ちょっとでも間違うとたいへんな事故につながりかねない」と安全に配慮しています。これは結構なことです。しかし、この大変な事故とは相手の拳士のようであり、拳技/上段突きを行使される側の安全は考慮されていないようです。

練習相手への安全の考慮は、乱捕りに限らず当然です。そして、叩いた(相手への)結果も同様に考慮されなければなりません。これが欠落していませんか…?

上策の拳技と下策の拳技の違いを、開祖は良く学生拳士に説かれていました。「乱捕りの様に相手の顔を叩いて、鼻血は出るわ、服は破れるわで、もうワヤや! こんな殴り方をしたらいくら相手が悪かったとしても、君等の方が捕まってしまうことがあるのだよ」(要約)。

それくらいで済めば良いのですが…叩いた相手が死ぬ事があります。実はこれを心配しています…。相手が死ぬということは、現在の日本では自分が死ぬことと同じだからです。

■ 昔の友人(少林寺拳法三段)の話をしましょう。彼は小柄でしたが気が強い人で、上達と共に?ケンカを良くしていました。その性格を社会人になってからも引きずっていた様で、ある時、会社の慰安旅行で酔って別のグループといさかいになり、一人を殴ってしまったそうです。

ところが深夜、ドアを叩く音で目を覚ますと、そのグループの人達が立っていて「お宅に殴られた者が目を開けないから来てくれ!」と告げられたと言います。付いて行った部屋にはケンカ相手が横たわっていて…幸い事故にはならずに済みましたが、「俺は…あの時ほど肝が冷えたことは後にも先にもなかった…」としみじみと述懐し、その後、プッツリとケンカをやめてしまいした…。

武道を教育する場合、不慮の事故はこの問題も大変なのです。ですから、無意識のことを考えると、少林寺の乱捕りは上段は止めるで良いと思います。(続く)


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あつみ [MAIL]