| 2010年10月24日(日) |
第23回東京国際映画祭<コンペティション部門> |
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ ※今回は、第23回東京国際映画祭のコンペティション部門※ ※に出品された作品の中から、事前試写で観ることの出来※ ※たものについて紹介します。なお、文中物語に関る部分※ ※は伏せ字にしておきますので、読まれる方は左クリック※ ※ドラッグで反転してください。 ※ ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※ 『わたしを離さないで』“Never Let Me Go”(イギリス・ アメリカ合作作品) 1993年の映画『日の名残り』の原作でブッカー賞を受賞した カズオ・イシグロが、2005年に発表して再度ブッカー賞の最 終候補になった作品の映画化。 田園風景の中にひっそりと佇む寄宿制の学校ヘイルシャム。 そこでは子供たちが絵画や詩の創作を続けながら屈託なく暮 らしていた。美しいルースと聡明なキャシー、それにちょっ と問題児のトミーもその一員だった。 やがて彼らは18歳になり学校を後にするが、3人はそのまま コテージを借りて共同生活を続ける。そして3人に関るいく つかの事件が起き、キャシーは「介護師」を目指すことにし て、3人はそれぞれの道を歩み始める。しかし彼らの前途に は過酷な運命が待ち構えていた。 物語は1950年代を分岐点とするある種のパラレルワールド物 と言える。ただしSFであってSFでない…、そんな感じの 作品だ。因に監督のマーク・ロマネクは、本作の物語を「過 酷な運命を懸命に生きることによって生まれるラヴ・ストー リー」と定義しているようだ。 出演は、今年1月紹介『17歳の肖像』などのキャリー・マリ ガン、次期“Spider-Man”でピーター・パーカー役のアンド リュー・ガーフィールド、それに『POTC』のキーラ・ナ イトレイ。他に、シャーロット・ランプリングらが共演して いる。 ユアン・マクレガーが主演したよく似た内容の映画を2005年 7月にも紹介しているが、本作ではもっとしっとりと静かに 描いている。その静かさが心に染みる作品になっている。
『ブライトン・ロック』“Brighton Rock”(イギリス映画) 1947年にも映画化されたことのあるグレアム・グリーンの原 作を、1964年を舞台に再映画化した作品。 一見静かな海岸の町ブライトン、しかしその裏側では新興の 勢力と、旧来の地元の組織との熾烈な戦いが始まっていた。 そして地元組織の1人が殺され、その配下の若者によって復 讐が行われたとき、その犯罪の証拠が無辜のウェイトレスの 手に握られてしまう。 そこで若者はそのウェイトレスに接近し、その証拠の奪還を 目指すのだが、彼女の雇主もまたその事件の関係者だった。 そんな中で彼女は若者の真の目的も知らずに彼の真心を信じ ようとするが…。 映画の背景とされた1964年は、イギリスで死刑が廃止される 前年ということだが、1930年代を舞台に描かれた原作の物語 も台頭する若者と旧来の組織の対決という図式で、それは正 に若者の台頭が始まる1960年代の物語を予見していたと言え るとのことだ。 そんな物語が、フィルムノアールを思わせる演出の中で展開 されて行く。脚本と監督は、2007年『28週間後…』の脚本を 手掛けたローワン・ジョフィ。過去にはテレビの演出はある が映画作品は初めてのようだ。 出演は2007年『コントロール』などのサム・ライリー。その 脇をヘレン・ミレン、ジョン・ハート、アンディ・サーキス らが固めている。またヒロイン役のアンドレア・ライズボロ ーは『私を離さないで』にも出ていたようだ。
『一枚のハガキ』(日本映画) 2007年5月紹介『陸に上がった軍艦』に続く映画監督・新藤 兼人による自伝を絡めた作品。 新藤監督は第2次大戦も末期になってから、30歳を過ぎなが ら招集され、呉の海軍に所属、しかし軍艦はすでになく、そ の任務は奈良の天理教本部や宝塚の大劇場などで、予科練兵 の宿舎を掃除することだったという。 しかし、当初100人いた同期兵は、上官のくじ引きで徐々に 戦地に転属されてほぼ全員が戦死。最後まで内地に残って終 戦を迎えたのは6人だけだったという。そんなくじ運だけで 生き残った新藤監督が、同期兵への思いも込めて描いた作品 だ。 物語の最初の舞台は奈良の天理教本部。その宿舎の掃除を終 えた時、100人の内の60人が上官のくじ引きでフィリピンへ 向かうことになる。そして主人公は、戦地に向かう兵士から 1枚のハガキを手渡される。 そのハガキは故郷の妻からのもので、そこには短いけれど愛 情のこもった文面が記されていた。そして兵士は、「自分は 多分戦死するから、もしお前が生き残ったら、故郷に行って そのハガキは観たと伝えてくれ。」と託される。 こうしてハガキを託された主人公だったが、そのハガキの送 り主の妻や主人公自身にも、さらなる過酷な運命が待ち構え ていた。 出演は、豊川悦司、大竹しのぶ、六平直政。その周囲を大杉 蓮、柄本明、倍賞美津子らが固めている。映画はユーモアも 交えて描かれているが、戦争がもたらす悲劇を静かなタッチ で描き出している。
『そして、地に平和を』“Et in terra pax”(イタリア映 画) ローマ近郊の町を舞台に、出所してきたばかりの男と、若い 男性の3人組、大学に通いながら学資を稼ぐためにカジノで 働いている女性。そんな同じ町に暮らしながら、それまでは 顔も知らなかった男女が、ある切っ掛けから接近し事件を起 こして行く。 出所してきた男は仕事もなく、最初は断っていたドラッグの 売人を引き受ける。その男から麻薬を買った3人組。そして 3人はちょっとした弾みで女性に手を出し、その事件で警察 が動き出す。 こうして街角に目立ち始めた警官の姿は、ドラッグの売人た ちにはやっかいだった。そこで住民たちは独自に犯人捜しを 始めるのだが、そこにもちょっとした問題が絡んでくる。こ うして事態は八方塞がりの状態になるが… 映画は随所に複数の男女による話し合いのシーンが長廻しで 挿入され、それはそのシナリオや演出だけでも大変だったと 思わせる。だがそんな台詞満載の物語が、後半では一転して アクション中心の展開となる。 その展開は、最初はかなり強引なようにも感じられたが、観 終ってみればそれなりのバランスで描かれていたようで、特 にクライマックスに至る経緯や、クライマックスでの映像は 鮮烈だった。 脚本と監督は、マッテオ・ポトルーニョとダニエレ・コルッ チーニの共同で行われているが、2人はれぞれ大学で映画史 と批評研究で学位を取ったという評論家。そんな2人がヴィ ジュアルアートと音楽関係で経験を積んだ上での、長編監督 第1作となっている。 因に監督たちは、混沌とした現代社会の中で生きる人々の心 理を描きたかったそうだ。
『サラの鍵』“Elle s'appelait Sarah”(フランス映画) タチアナ・ド・ロネによる同名の原作の映画化。 1942年7月16日−17日に、ドイツ占領下のパリで起きたフラ ンス警察によるユダヤ人迫害の悲劇。そこに隠された謎を、 アメリカ出身だがフランスに在住している女性ジャーナリス トが追跡する。 その日、パリのユダヤ人はフランス警察によって老若男女を 問わず一斉検挙され、ヴェルディヴの屋内競技場にすし詰め 状態で留置される。そこではトイレも閉鎖され、食事は疎か 水もほとんど与えられなかった。 そのユダヤ人が去った後のアパルトマンに、主人公の夫の父 親の一家は引っ越してきた。そこに隠された悲劇も知らず。 そして主人公の追跡は、ヴェルディヴに連れ去られた1人の ユダヤ人少女の数奇な運命をあぶり出して行く。 その時のヴェルディヴの記録は唯1枚の俯瞰写真以外ほとん ど残っていないのだそうだ。それは何でも記録したナチスの やり方にそぐわないが、実はそれがフランス警察によって独 自に行われたことだから…という台詞には、何よりこの悲劇 の重さが感じられた。 そして映画では、現代と過去とを巧みに交錯させて、その悲 劇の有り様を見事に再構築して行く。ホロコーストはアウシ ュヴィッツだけでなく、収容所の被害者名簿に残っていない 人々も襲っていたのだ。 脚本と監督は、2009年に“Walled In”という作品などを手 掛けているジル・パケ=ブレネール。その監督が本作では、 ホロコーストをより身近な感覚で描きたかった…と映画化の 動機を語っている。 主人公のジャーナリストを、2008年6月紹介『ブーリン家の 姉妹』などに出演のクリスティン・スコット・トーマスが演 じている。他に、2003年4月紹介『夏休みのレモネード』な どのエイダン・クインらが共演。
『ゼフィール』“Zefir”(トルコ映画) 物語の舞台は、時には深い霧が立ち籠める暗く寂しい高原地 帯。主人公の少女は、牧畜が中心らしいその場所に住む祖父 母の許で夏休みを過ごしていた。そこには友達もいたが、彼 女は早く母親が迎えに来てくれることを望んでいた。 そんなある日、彼女のミスもあって1頭の優秀な乳牛が霧の 中に消えてしまう。それと入れ替わるように母親がやってく るのだが、束の間の親子の時間の後、母親は再び家を出て行 くと話す。それは母親が志願した仕事で、長く掛かる仕事だ とも。そこで少女は母親の出発を阻止すべく行動を起こすの だが…。 物語の結末については、何とも言えないものになっていた。 それが意味することも監督の言いたいことも、僕にはよくは 伝わらなかった。でもここに描かれた内容が、単に主人公の 我儘とも言い切れないし、これが一つの結末であることは確 かだろう。 監督のベルマ・バシュは1969年生まれ、イスタンブール大学 で英文学を専攻した才媛で、2006年初監督した短編がカンヌ 国際映画祭の短編コンペティション部門に正式出品されてお り、その時の評価では、テーマ性などがベルイマンにも例え られたそうだ。 という女性監督による本作は長編第1作となるが、本作もテ ーマはかなり重いものになっている。しかしそこに至る過程 などにはいろいろ細やかな描写もあって、その辺には女性監 督らしさも感じられた。 因に、本作の背景となるトルコの高原地帯は、監督自身が子 供時代の夏休みに過ごした祖父母の田舎から想を得ていると のことだが、本作のようなことが起こらなくても、かなりト ラウマになりそうな背景だった。
『僕の心の奥の文法』“Hadikduk HaPnimi”(イスラエル映 画) 2002年11月4日付紹介の『ブロークン・ウィング』という作 品で、東京国際映画祭グランプリに輝いたニル・ベルグマン 監督による同作以来となる長編第2作。本作でもすでにエル サレム国際映画祭で最優秀長編作品賞を獲得している。 舞台は、1960年代初頭のイスラエル。若者の間にはホロコー ストの記憶もなく、制服姿の青年団など好戦的な風潮も露に なっている。そんな環境の中に暮らす少年の物語。少年は青 年団に入る年頃となり、その入会の試練を1回はパスするの だが… 他にも、少年の家の前に生えていた巨木がある日突然切り倒 されてしまうなど、少年の周囲にはいろいろ理不尽な出来事 が起きる。そんな周囲の状況に嫌気が差したのか、少年は自 ら成長を止めてしまう。しかしやがてそれでは居られなくな って… 映画は、1991年にデイヴィッド・グロスマンという作家によ って発表された原作に基づくとのことで、監督は22歳の時に その原作を読んで感銘を受けたのだそうだ。しかし僕にはそ の意味がよく理解できなかった。 大体、少年が成長を止めてしまうという設定自体が、前後に 何かの説明がある訳でもなく唐突で、その辺にも戸惑いも感 じてしまったところだ。 ただ穿って観ると、主人公の少年、口煩い母親、好色で普段 は良いが時に暴力を振るう父親、優しい姉、途中で居なくな る祖母、それに近所のスパイかも知れない金髪女性などの登 場人物は、少年をイスラエルとしてそれぞれ関係国を準えて いるようで… 特に、金髪女性と少年の父親が住居の壁を壊し続けるという 設定には、その尋常でなさもあって気になったところだ。さ らに少年が縄抜けに執着しているという展開にも、何となく イスラエルという国家が抱えるディレンマの様なものも感じ てしまった。 でもそんな見方は間違っているのかな…、その辺がちょっと 気になる作品でもあった。
『隠れた瞳』“La mirada invisible”(アルゼンチン・フ ランス・スペイン合作映画) 舞台は、ブエノスアイレスにある国家の英雄も多数輩出した という名門の国立校。そして背景は、1983年3月、アルゼン チンで6年間続いた軍事独裁政権に対する抵抗勢力の動きが 顕著になり始めた頃の物語。 1人の女性教員がその学校に赴任してくる。23歳でまだ若い 彼女は、不正を見逃さず常に正しいことをしたいと心掛けて いた。そんな彼女に上司の主事は、「隠れた瞳」となって学 校の不正を見つけるように指示する。 その指示を真面に受けた彼女は、構内でタバコの吸殻を発見 したことを切っ掛けに、生徒の喫煙の事実を発見しようと考 える。それは構内の見回りから始めるが、やがて一番怪しい 男子生徒のトイレに潜むことになる。 ところがその環境が彼女の精神にも影響を及ぼし始めて…。 授業では英雄論や戦争論が教えられ、正に軍政直中という感 じの学校。しかしそれも末期という状況が各所に歪みを生じ 始めている。そんな社会の縮図のような学校がやがて崩壊し 始める。 アルゼンチンの近世史の学ぶと言うことでは理解も生じる作 品かも知れないが、部外者にとっては結局何が言いたいのか よく判らない作品だった。 1976年生まれのディエゴ・レルマン監督は、混沌とした社会 の中での主人公女性の成長を描いたとのことだが。確かに幼 い精神の持ち主だった女性が結末ではそれなりの成長はして いるが、この作品の展開ではそこに特別な意味があるように も取れなかった。
『一粒の麦』“Daca bobul nu moare”(ルーマニア・セル ビア・オースリア合作映画) コソヴォで売春を強いられている娘を探すルーマニア人の父 親と、ルーマニアで事故死した息子の遺体を探すセルビア人 の父親。その2人の父親がドナウ川の正規でない渡し船で出 会い、その船の船長が昔その地で起きた出来事を語り出す。 その出来事とは、ルーマニアがカトリックのウィーン王朝に 支配されていた時代のこと、正教会に帰依する住民は教会の 建設を禁止され、その法の目を潜って隣接の村に建っていた 古い木造の教会を移築しようとする。 そして数10頭の牛と人力で教会の移動が始まるのだが…。そ の物語と並行に、不思議な乗物で遺体を探す父親の物語と、 偶然に同行した娼婦の手引きでコソヴォに向かう父親の物語 が描かれる。 それは時としてユーモラスで、また一方でかなり残酷な物語 にもなって行く。 大きな建物を曳いて行くという映像は、2002年2月に紹介し た『シッピング・ニュース』を髣髴とさせるが、本作も同様 にユーモアと残酷さが入り混じった作品だった。題名の持つ 意味がそこにも観えてくるが、それが必要なのかどうかはや はり悩むところだ。 特にコソヴォに向かった父親の物語の結末は、自分が子を持 つ親としては痛切にその痛みを感じてしまう。 1960年生まれのシニツァ・ドラギン監督は、普段はカメラマ ンとして働き、長編の監督作品は3作目だそうだが、各国の 国際映画祭でも受賞歴があるとのこと。その演出は落ち着い ていて、ベテランの味も感じられた。 宗教的な背景を持つ作品ではあるが、物語自体にはあまり宗 教臭さはなく、むしろ寓話的に扱われていた。その意味もあ まり深く考える必要はなさそうで、その映像の美しさが楽し める作品だった。
『小学校』“¡Primaria!”(スペイン映画) 国立大学の芸術学部で学部長を務めた人物が小学校の教師に なったら…という、ちょっとメルヒェンなところもある学園 ドラマ。 その先生が教えるのは3年D組。クラス担任は若いが熱意の ある女性教師で、クラスには多動症という病の子供もいて、 彼には定期的に薬を飲ませる必要がある。でもそれは同級生 の生徒たちが対応してくれる。 そんなクラスを相手に先生は「美術とは何か」という授業か ら始めるのだが、当然生徒たちは集中してくれない。そこは 担任の女性教師が教室に入って、見事に対応してくれたりも する。 一方、他のクラスの担任では、一見やる気の全くなさそうな ベテラン女性教師も居たりして…そんな中で先生はピカソの 「ゲルニカ」を解説して、父兄からやりすぎだとの抗議の電 話が掛かったり、それでも次にはダリを解説したり… そして徐々に成果を挙げ始めた先生は、年度末の発表会で目 玉となる演劇の大任を担うことになる。それは、北欧神話に おける世界の始まりの物語という壮大なものだった。そして 多動症の生徒などもうまく使った演劇が始まる。 こんな物語が、ちょっとアヴァンギャルドなシーンや、生徒 役の子供たちが自身で描いたらしいカラフルや奇想天外な絵 画の数々と共に描かれて行く。その中に教師自身の問題や生 徒の家族の問題など盛り込みながら。 欲張った内容の割には物語はよく整理されていて、観ていて 気持ち良く楽しめる作品になっていた。それは、僕が審査員 ならこの作品をグランプリに推したいほどのものだった。 脚本と監督は自らも教師経験があるというイバン・ノエル。 脚本には先生役で主演したフランシスコ・アルフォンシンも 関っているそうだ。
以上でまず10本。なお今年の東京国際映画祭コンペティショ ンには、全部で15作品が選出されており、9月19日付で紹介 した『海炭市叙景』もそこに含まれます。残りの4本は後日 掲載の予定です。 その他の部門も、今年は30本程度観ることができそうです。 それらの作品も来週以降に順次紹介しますので、よろしく お願いします。
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