ちむたんのつぶやき
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| 2009年03月20日(金) |
家売るぞ日記(その5)戸棚から出てきたもの |
おお、だいぶごぶさたしてしまいました…
三連休を控えた木曜の夜、ひょっとしたら日曜は休日出勤!?という事態になり慌てましたが幸い免れ、結果的には実家でどっぷり過ごし、たいへん濃い三日間となりました。
初日、土曜日のことです。
一階リビングのキャビネットにどっさり入った書類や手紙などの類を片付けていたところ、封筒に入った何かの本のコピーらしき紙の束が出てきました。 中を見てみると、公に出版された本ではなく、幼くして亡くなった子供ふたりの追悼記を親が自費出版したもののコピーのようです。
登場してくる人名や地名などから推測するに、どうやら書き手は私の母方の祖父母(私の母の両親)と大伯父(祖母の兄)。 そして亡くなった子供ふたりというのは、私の伯母(母の姉)にあたる人たち。 母は五人きょうだいの末っ子で、お兄さんとお姉さんが二人ずつだと思っていましたが、実は長女と長男の間にもう二人女の子がいて、七人きょうだいだったのですね。 早く亡くなったお姉さんがいたという話は母から聞いた覚えがなかった(兄たちにも訊いてみたけどやっぱり知らなかった)のでちょっとびっくりしました。
亡くなったのは大正十三年、母が生まれる六年前(ちなみに父が生まれた年)。お盆の頃、暑い盛りのほんの十日ほどのうちに、立て続けに疫痢にかかってあっという間に亡くなってしまったのでした。わずか六歳と四歳だったそうです。 祖父はいまの慈恵医大で学んだ眼科医だったので自身はもちろん専門外だったでしょうが、つてを頼って当時としてはおそらくかなり高いレベルの治療が施された様子でした。 祖父が綴った、医学の徒でありながら我が子を救えなかったことへの嘆きと後悔、祖母が娘たちの生前の愛らしい仕草や言葉のかずかずを大事に大事に思い起こし悲しみに暮れている様子、いずれも涙なしには読めませんでした。
祖父は昭和十二年、祖母は私が生まれた昭和四十四年に亡くなっています。今まで、昔話には聞いたことがあっても本当にいた人たちなんだという感覚は全く持っていなかったのですが、こうして祖父母がしたためた文章を読んでみて初めて、確かに生きていた、自分と血がつながった生身の人々であることを実感した次第です。
子供の頃買い食いしたくて母にねだると「ママが小さいとき、おばあちゃんは“疫痢になる”って絶対買ってくれなかったのよ」と言われるのがお約束のようになっていました。単におばあちゃんは衛生観念が厳しい人だったんだなあ、と思っていただけでしたが、そりゃ厳しくもなりますよね、二人続けて子供を亡くしていれば…。まさかとは思いますけど、祖母は母にお姉さんたちのことを話さなかったのでしょうか?それとも母が、私を怖がらせたくなくて言わなかったのでしょうか。今となっては確かめようもないことですが。
母方の祖父母は愛児の死を一冊の本にまとめて悼みました。 両親は手帳やノートのあちこちに日記めいたものを書き残し、そしてだいたい挫折しています。父が死の間際までパソコンで書いていた日記はかなり長期間続いていますが、そのほかの日記帳や手帳はあまりにいろいろなところにあるので、整理する側としては大変にきびしいものがあります…。 私もこの「つぶやき」をはじめ、小学校のころから長短織り交ぜ日記の類を書いています(今のところ挫折していないのはここだけ)。
日本人は記録好きの人種だとはよくいわれることですが、この記録癖みたいなものも、血のつながりの証なのかもしれません。
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