ATFの戦争映画観戦記



【File108】観戦記10万ヒット目前・・・Shall We タンク!再び【第一弾】

2005年05月08日(日)

いや〜昨年11月以来、随分ご無沙汰の観戦記であります。言い訳がましいですが、昨年来より私的に色々あって観戦記を書く意欲が中々涌いてこなかったのであります。実際のところ、観戦記を書く為のネタは色々頭に浮かんで来ていたのでありますが・・・しかしなんて言ったら良いか・・・強いて言えば、過去の観戦記では、結構勢いで書き上げてしまっていた場合が多々あったのですが、ここ最近は、その勢い乗る機会に中々恵まれなかった、とでも言ったら良いのでしょうか。まぁそんな訳で、ここんとこ観戦記の更新を随分ご無沙汰してしまった訳です。ところで最近ご縁があって、印刷物誌上において戦争映画の紹介記事を執筆掲載する機会に恵まれました。皆さんよくご存知の通り、昨年から発売開始されたドイツ週間ニュースDVDブック誌上でも、現在戦争映画の紹介記事を連載させていただいております。こちらは字数約八百文字・・・普段文章を書き慣れていないと原稿用紙二枚分と言っても結構書き辛いものですが、私にとっては観戦日誌(現在更新休止中)で、いつも千文字程度は書いておりましたので、執筆の依頼を受けた時点では「楽勝じゃん!」なんて安直な気持ちで引き受けてしまいました・・・しかしコレが予想に反して結構大変・・・観戦日誌や観戦記は、自分の思い通りに字数や内容を決める事が出来、好き勝手に文章を書けるのですが、予め決められたテーマと字数、表現、締切期日と言う縛りの中で文章を書き、それによって収入を得る、と言う事の大変さを今さらながら思い知らされた訳です。読み手に対し、如何に少ない文字数と明確な表現によって、的確に主旨が伝えられるか・・・まぁ最近は、なんとか少しずつ慣れては来ましたが・・・。そんな折に某有名模型専門誌上での戦争映画紹介コーナーへの記事の執筆を、臨時で引き受ける事となりました。こちらの記事の文字数は約三千一百文字・・・ドイツ週間ニュースDVDブックの連載記事に比べると文字数は約四倍、これなら楽勝じゃ・・・てな具合で、またしてもお気楽に引き受けてしまいました。しかし案の定、今回も執筆上の制約がズッシリと重く圧し掛かかり、苦労する事になります。この某有名模型専門雑誌のコーナーの記事は、文章も構成が〆酩覆料或兇蠕睫澄↓∈酩覆旅啅據↓作品の見どころ、という三段階から成り立っています。私は執筆を始める段階で、文字数の配分を〆酩覆料或兇蠕睫世鉢作品の見どころで千百文字程度、∈酩覆旅啅擇覇鸚虔源程度と決めて取り掛かりました。´については、予め紹介する作品を選定する段階で、頭の中で大まかな文章が既に組み上がっていました。そんな訳で難無く大まかな文章が書き上がったのですが、∈酩覆旅啅擇砲弔い討蓮∈酩覆離好函璽蝓爾鬚Δ躋个┐里泙渊颪込む訳には行きません。そこで実際に対象作品をビデオで再生しながら、並行してストーリーの主要な流れを文章化してキーボードで打ち込んで行く、という手法を取りました。私にとっては、これはそれ程苦な作業ではありません。過去仕事の中で会議の速記議事録を作成した経験が多々ありましたので、その経験を生かす事が出来ました。しかし実際作品のストーリーを荒筋にして打ち込んでみたところ、なんと出来上がった文章だけで軽く五千文字を越えてしまっていたのです。さてここからが大変です。出来上がった荒筋から、三千文字以上も間引かなければなりません。とりあえずストーリーの流れに左程重要とは思われない箇所を削って行き、或いは表現を書き換えて字数を減らし、小一時間程(これでも結構疲れました)費やして、一回目の添削を終了させました。これで大分減っただろう!と、意気揚揚文字数を計測・・・がぁ〜ん、あれほど苦労したのに、減らせたのはたった五百文字程度・・・これを後5回も繰り返さなきゃならないのかぁ・・・しかし単純に5回で済むほど、世の中甘くありません・・・後になればなる程に、一回の添削作業で削れる文字数が減るのは目に見えています。結局その後連続で2回添削作業を試み、最終的に削減出来たのは、合計千文字程度に過ぎませんでした・・・疲労極めて大。その日は、それ以上添削作業に取り組む元気もなく、翌日に持ち越し、更に翌日に・・・結局目標の三千文字を削除するのに計5日も費やす事になります・・・なんと殆んど全部書き直したも同然でした。この後、紆余曲折を経て出来上がったのが、現在発売中の雑誌に掲載されている記事でります。おっと雑誌への記事掲載の裏話を書くつもりじゃなかった・・・閑話休題・・・そんな訳(?)で、観戦記は、書きたい内容を、書きたい様に、書きたい時に好き勝手に執筆していたのですが、雑誌への記事掲載という様々な制約に縛られた執筆作業との、なんと言うかギャップによる一種のスランプ状態に陥ってしまった・・・と言うのが、観戦記が更新出来なかった原因ではないか、と今では思えております・・・しかし、これは決して雑誌掲載記事の執筆が私にとってマイナスになったと言う訳ではなく、寧ろその反対であった事は間違いありません!さて、そんな状況下、PC内に保存されていた、過去の観戦記執筆時に集めた資料や画像を整理していた所、字数の関係で掲載・発表出来なかった多数の文章や画像が発見されました。コレをそのまま闇に葬るのは忍びない・・・そんな訳で、観戦記復活のプロローグとして、ここに新たに公開させて頂きます・・・気がつけば十萬接続も目前!名作「Shall We Dance?」もハリウッドでリメイクされた事ですし・・・と言う訳で、またもやお久しぶりの【開演ブザー】です。通例通り携帯電話の電源はお切り下さい・・・【相変らず、この書き込みに資料的価値はありません・・・あッ因みにここまでの文字数は約二千三百七十文字・・・ヘ(´o`)ヘ】

【一枚の戦争画】
まずは一枚の絵を見ていただこう!【九四式軽装甲車奮戦之図】今から数十年前の事、まだ私が小学生だった頃・・・当時、私が通信購読していた少年向け歴史ムック誌「わたしたちの歴史/昭和時代 の見開き部分に掲載されていた一枚の戦争画・・・怒涛の如く押し寄せる中国軍の攻撃を、キャタピラを破壊され立ち往生しながらも、旋回砲塔の車載機銃と操縦席からの拳銃によって、必死に防戦する豆(小型)戦車・・・当時はまだ、この豆戦車が犇綮夕扱攸甲車という名称の車両だとは知る由もなかった・・・の勇姿。迫り来る中国兵(蒋介石国民党か共産八路軍かは不明・・・)に対し、満身創痍になりながら果敢に応射・防戦する、この豆戦車の勇姿を手に汗握りながら、そして何よりも、この豆戦車とその乗員の戦車兵は、その後どうなったのかとドキドキ想像しながら、幼な心に何度も何度も繰り返し眺めていた覚えがある。その後歳月は過ぎ、この戦争画を掲載した歴史ムック誌は失われ、成長するにつけ、この戦争画の事も忘却の彼方へと忘れ去られていたが、その反面ミリタリーに関する興味は増大して現在に至り、さらにインターネットの世界に足を踏み入れ『戦争映画観戦記』の執筆を始め、お陰で様々なミリタリーに関する知識の量も増大して行った。そして一昨年の事、観戦記執筆に絡んで『馬鹿が戦車でやって来る』関連の資料を調べている最中、全くの偶然ながら、再びこの戦争画に巡り逢う事が出来た・・・改めてこの戦争画を見てみると、様々な興味深い点が観察出来る・・・爆発直後で、まだ噴煙も治まっていない・・・車体上には爆発で巻き上げられた土砂が積もっている。画面中央では、今将に撃たれた中国軍兵士の手から離れたモーゼルミリタリー(木製ストック付)が宙を舞い、巨匠ペキンパーの狎鐐茲里呂蕕錣伸をも彷彿させる光景が展開されている・・・中国軍兵士の持つ小銃はモーゼルだろうか?これらの中国軍兵士は、一様に装備が良い・・・と言う事は蒋介石の国民党軍だろうか、しかし共産党の八路軍側も一部部隊は良装備だったはずだ・・・倒れた兵士の背中に背負われた青龍刀がいかにも中国兵らしい・・・そしてこの豆戦車のキャタピラは一体どの様にして破壊されたのであろうか・・・対戦車地雷なのか・・・地雷なら、こんな小型の車体は一発で吹き飛ばされているのではないか?画面中央下にドイツ式柄付手榴弾(ポテトマッシャー型)を今にも投げようと構える中国軍兵士がいるが、ひょっとしたら手榴弾でやられたのか・・・九四式軽装甲車のキャタピラくらいなら手榴弾の爆発でも破壊出来そうだ・・・しかし画面左下に描かれている吹き飛ばされたキャタピラと転輪からすると、こりゃ相当の爆発力だったのではないか・・・少し撓んだエンジン点検用ハッチが、この軽装甲車の装甲の薄さを如実に表わしている・・・なんて事が見て取れる・・・果たして一体・・・その後色々と調査した結果、この戦争画のモデルとなった出来事は、1939年の南昌攻略戦における、ある軍国美談のエピソードが基になっていると言う事が解った・・・
【以下概略】森田部隊(連隊・大隊等の詳細不明)が南昌前面魏家営の山腹斜面に張り巡らされた塹壕と鉄条網の中国軍陣地に対し攻撃を開始した時、味方砲兵の掩護射撃下、松本軽装甲車隊(師団捜索隊と思われる)所属の九四式軽装甲車(車長/川村伍長、操縦/中村一等兵)が、歩兵の先頭を切って敵陣に突入・・・雨の如く降る敵弾を物ともせず、鉄条網を踏み潰し敵塹壕へと肉薄して行った・・・次の瞬間、九四式軽装甲車の直下で爆発(原因は地雷)が起こり、車体は2mも跳ね上げられ地上に叩き付けられた・・・後方の日本軍歩兵たちが固唾を飲む中、塹壕から進み出た中国兵たちが九四式軽装甲車を取り囲もうとした瞬間、突如旋回砲塔の機銃がダダダダッと射撃を開始・・・油断していた中国兵たちはバタバタと撃ち倒された・・・時を移さず日本軍歩兵は突撃を敢行し、中国兵を撃退し、併せて敵陣地を奪取した・・・占領後、戦友たちが満身創痍の九四式軽装甲車に駆け寄り、車内を見ると乗員は全身血達磨となって倒れていたが、その手はしっかりと機銃の銃把を握りしめていた・・・というものである。
この美談が実際にあった事柄がどうかははっきりしない・・・軍国美談の幾つかは過度な脚色によって創作されている・・・が、この話を読む限りでは、幼少時の疑問であった乗員たちの生死は、結局最悪の事態となっていた事は、数十年を経て知る事が出来た。しかしまぁこの一枚の戦争画が、私の軍オタ人生の出発点となった事だけは間違いないと思われる・・・。

【だって九四式軽装甲車が好きなんだもん!】
軍オタやモデラーに「一番好きな戦車は?」と尋ねた場合、その答えとして返ってくるのは「ティーガー戦車」「パンター戦車」「M4シャーマン戦車」「T34戦車」ってのが一般的な答えであろう。日本軍戦車のファンもいらっしゃるが、やはり「九七式中戦車」「九五式軽戦車」って答えが一般的ではないだろうか・・・しかし今の私の場合は胸を張って『九四式軽装甲車』って答える。こんなブリキの豆戦車のどこがいいの?って聞かれても、即答に困るが、とにかく良い物は良いのである。元来私は「ティーガー戦車」や「M4シャーマン戦車」等のMBTよりは自走砲や突撃砲が好き、戦艦や空母、巡洋艦よりも小艦艇が好き、戦闘機よりも爆撃機や偵察機が好き・・・と言った、ちょっと天邪鬼な気が多分にあったが、この犇綮夕扱攸甲車瓩噺世μ松里覆ら装甲車ではなく、戦車とも言えない一種中途半端な存在ながら、欧州ではケーニヒスティーガーやスターリンなんていう化け物みたいな超重戦車が激闘を繰り広げている最中にも、たった7.7mm機銃一丁だけの、しかも中国軍の小銃弾すら場合によっては貫通する薄い装甲の兵器が、第一線の主力装甲車両として活躍していたってのが、堪らなく好きなのである。

【九四式軽装甲車とは・・・】
第一次大戦後の世界的不況と軍事削減の風潮の中で、安価な経済性面を重視した小型装甲車両が各国において開発された。その代表的な車両が英国製のカーデン・ロイド機関銃運搬車である。日本陸軍もカーデン・ロイドMk.6型を輸入、実用試験を行い、1932年に陸軍技術本部において装軌式小型牽引車・・・弾薬を積載した装甲全装軌式貨物車を牽引して前線への弾薬補充を行い、自衛用に車体全体に装甲を施し、旋回砲塔に機銃を装備した・・・の開発が開始され、1933年に東京瓦斯電気工業において試作車が完成・・・『TK(小室哲・・・じゃなく小型牽引の略)車』という略称が付けられた。その後、実用試験を経て北満州において実地試験が行われ、1934年に制式採用となる。当初仮採用時には「九四式装甲牽引車」という名称だったが、制式採用時に『九四式軽装甲車』と変更された。なおトレーラー型全装軌式貨物車は、同じく東京瓦斯電気工業において製作され1934年に「九四式四分ノ三屯積全装軌式被牽引車」として採用された・・・しかし九四式軽装甲車は、本来の敵砲撃下での弾薬補給という任務には殆んど使用されなかった為、生産台数は少数であった。九四式軽装甲車自体は、1935年から1940年までの間に約850両が生産された。実戦での使用結果を基に、1936年からは誘導輪を大型化し接地面を下げ、履帯接地長を増加(約80cm)させ接地圧を低下させ、不整地走行性能等機動性の向上させた改良が施された・・・この改良型は改修九四式軽装甲車と呼ばれ、高速走行時の安定性や走行時射撃性が向上した。また一部車両は、武装を九四式37mm戦車砲に換装し攻撃力の向上が図られた。1935年から部隊配属が開始され、1937年中頃には戦車中隊内の一個小隊は九四式軽装甲車装備の小隊編成となった。また独立軽装甲車中隊も数多く編成され、1937年の日華事変勃発時には計七個独立軽装甲車中隊が派遣された。同年10月の南京攻略戦時には、戦車第五連隊の他に二個独立軽装甲車中隊が参加したが、中国軍対戦車砲の待ち伏せ攻撃により一度に四両を失うなど大きな損害を出した。しかしその機動性を有効に活用して常に第一線を歩兵と共に進撃し南京攻略の立役者となった。翌1938年の広東攻略戦時には、三個独立軽装甲車中隊が参加、有効な機甲戦力として活躍した。1937年12月迄には、独立軽装甲車中隊の編成は十三個にも及んだ。1939年後半になると、これら独立軽装甲車中隊は徐々に戦車連隊へと改編され、九四式軽装甲車は第一線装備から外されるが、歩兵師団所属の騎兵部隊が捜索隊(機械化捜索連隊)に編成替えされるに伴い、軽装甲車中隊が加えられた。各歩兵師団では、師団固有の唯一の機甲戦力として、捜索や連絡任務用の豆戦車として重宝された。その様子は戦時中の1942年、実際に中支駐留の歩兵師団を動員して撮影された田口哲監督作品【将軍と参謀と兵】の中で良く描かれている。太平洋戦線では1939年頃から、後継車両である九七式軽装甲車が優先して配備され始めるが、中国軍が有効な機甲戦力を有しなかった中支戦線では、装備改編が後回しとなった為、終戦時まで重宝されていた。
【攻撃力】砲塔は旋回ハンドルではなく、車長が機関銃ごと旋回出来る軽量な物であった。初期には十一年式軽機ベースの九一式車載6.5mm軽機が搭載されていたが、ご存知の通りこの軽機関銃の給弾機構は複雑でジャミング等の故障が多く、また口径が6.5mmと威力も弱かった為、後に有名なチェコ製ZB-26型7.92mm軽機関銃を参考にした九七式車載7.7mm重機関銃へと改良され搭載された。それまでの九一式車載軽機には銃身に保護装甲ジャケットが無く破損が多かった為に、九七式車載重機には銃身部に保護装甲ジャケットが取り付けられ、また照準眼鏡には射手の眼を発射時の反動から守る為のゴム製クッションが取り付けらた。さらに九七式車載重機は、取り外して車外での戦闘も可能だった。しかし九四式軽装甲車での搭載弾数は1,980発・・・30発弾倉66個・・・しかなく、また30発箱型弾倉式給弾の為、射撃の持続性が弱く制圧射撃には向かなかった。
【防御力】九四式軽装甲車の装甲は8mm〜12mmしかなく、12.7mm口径弾なら約600mから正面・側面・後面・砲塔のほぼ全体を貫徹され、7.7mm口径徹甲弾ですら後部乗降口扉を約300mで貫徹出来た。さらに実戦においては中国軍の小銃弾の直撃によって砲塔側面装甲を貫徹され、乗員が負傷した例もあると言う。
【機動力】中支戦線において日本軍の進撃を最も効果的に妨害したのが悪路とクリーク(水路)と言われているが、全装備重量が約3.5屯の九四式軽装甲車は即席の架橋によって簡単に渡河する事が出来、重量のある八九式中戦車や貨物自動車の様に歩兵の進撃に遅れる事は無かった。装備されたエンジンはドイツ製を国産化した35馬力直列四気筒空冷ガソリン式エンジンで、操縦席の直ぐ横に配置されており、車内からでも修理・調整が可能だった。ただ出力は「大人三人に押さえつけられたら動けない」と言われた程で、出力不足の感が大であったが、整地路面上では最高速度40kmを発揮出来た。初期型ではキャタピラの接地面長が短く超壕・超堤能力が低かったが、改修型でも結局この点は解決出来なかったと言われている。キャタピラは外側ガイド方式と言う、他の日本軍戦車には見られない機構が採用されていた。その為、急旋回や信地旋回をするとキャタピラが外れ易かったそうだ。試験性能上での戦闘行動距離は200kmだったが、燃料補給の乏しい北支戦線の実戦部隊では、燃料混合比率の調整等によってカタログ値の倍以上の400〜500kmは稼動させた例も報告されている。
【その他】九四式軽装甲車は、南京傀儡政権(国民党の有力者だったが1940年3月に重慶を脱出して来た汪兆銘に樹立させた傀儡政権)軍や、同盟関係にあったタイ王国陸軍へ供給・配備されていた。また太平洋戦線でも一部配備されていたが、当時の日本軍主力戦車だった九七式中戦車改ですら歯が立たなかった米軍のM4シャーマン戦車に太刀打ち出来るはずもなかった・・・。

と言う訳で【Shall We タンク!再び】第一弾は如何だったでしょうか・・・九四式軽装甲車って将に一家に一台の軽自動車的お手軽戦車なんですよねぇ、全く・・・さて、まだまだボツ文章・画像はたっぷり残っておりますので・・・頑張ってUPしなきゃ・・・アッ10万ヒット記念バナー作んなきゃ【続く〜ッ(カボスうさぎ風)】

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