ATFの戦争映画観戦記



【File071】祝・製作四○周年記念特別編発売・・・実録『大�狠α��瓩�ぅらぁ〜』後編

2002年12月22日(日)

気がつけば今年も後十日余り・・・この一週間は年末のドタバタで仕事が大は〜ど、またドカ雪や何やらで毎日の如く通勤電車は遅れ、まったく散々な一週間でありました。そんな中、私事で恐縮ですが去る12月16日に○○回目の誕生日を迎えました・・・この歳になると誕生日なんて嬉しくもないゾ〜ッ・・・泣。観戦武官の皆さんはとっくの昔にお見通しでしょうが12月16日と言うと、欧州戦線では戦争映画�爛丱襯限膾鄒鎰瓩罵�名な独軍攻勢・・・所謂�爛薀ぅ鵑亮蕕雖畉鄒鑒�動の日、太平洋戦線では日本海軍が世界に誇った超巨大戦艦�狢舅足瓩侶�造開始・・・所謂竣工した日なのでした・・・まあ、こんな訳で私ATFが�爛灰奪繊畄灰�タ・・・戦争映画�疂�面の趣味にどっぷり浸かってしまったのも、何かの因縁があるような気がします。まあ他にも�爐海鵑併�やあんな事が��起こってるんですが・・・皆さんも自分の誕生日が何の日か、何が起こった日か調べてみると面白いですよ・・・。
さて、お待たせしました・・・(待ってないって)今回の観戦記は11月12日の【File066】でお贈りした『大脱走』特集の後篇であります。�狠α��瓩箸いΦ霏腓淵廛蹈献Д�トに挑んでいった男たちの壮大なドラマ。今から30年近く前、年末のテレビのロードショーで放映される度に、まだ幼かった私ATFをテレビの前に釘付けにした、その理由は一体何だったのか・・・その答えは意外なところから見えて来たのでした・・・物語の舞台は一挙に300年前に遡ります�瓩修譴任蓮擲�演ブザー】いつもの様に携帯電話の電源はお切り下さい・・・。

【時は元禄十五年、極月半ばの十四日。場所は本所深川町、俄に起こる陣太鼓・・・】
さて先週の週末12月14日は、我が親的戦争映画サイト��CROSS OF IRON�畆膾鼎砲茲��爛献А璽爛此Ε灰弌璽鹹錨蕁慇鐐茲里呂蕕錣拭拆絮撚顱�忘年会��だったのですが、巷・・・特に東京の下町深川当たりでは、一大歴史イベントが行われていました・・・それは歌舞伎芝居や講談、映画、小説などで我々日本人にとって最も有名な時代劇のひとつである『忠臣蔵』のハイライト・・・そう�犁販錨‘い粗�り事件�瓩�ら丁度300年目という事で、昨年の3月(�狠蘓誕↓畛�件の発端となった�狆召力�下刃傷事件�瓩�起こった)から様々な関連イベントが行われていたのだそうです。日本人なら誰しも知って・・・る(最近のお兄ちゃんやお姉ちゃんは知らねぇか)・・・主君の無念を晴らし、憎き吉良上野介の首級を挙げんが為、苦難に耐え偲んだ大石内蔵助以下四十七人の�狎嵎耋音劉瓩里�話・・・しかしながら『仮名手本忠臣蔵』や『元禄忠臣蔵』など歌舞伎や映画で描かれた筋書きが、そのまま史実を全て忠実に反映しているわけではありません。ご想像の通り、事実とは異なる虚飾や架空の演出がたんまり・・・第一「忠臣蔵」と言っているのは歌舞伎世界(講談、浄瑠璃など)だけのことであり、実際に起こった事件にそのような「名前」が付けられていた訳ではないのです。『忠臣蔵』の�狠蘓鱈瓩箸蓮�武士道の手本とも言える忠義の家来を、�狢↓瓩箸和臉估眤⊇�を表わしていると思われます。

『江戸城内松ノ廊下刃傷事件』概要
それでは『忠臣蔵』とは一体・・・今さらでもないですが、ちょっと�爐�さらい�瓩靴討�きましょう。

【事の発端・・・松の廊下傷害事件】
日 時:元禄十四年(西暦1701年)3月14日 午前11時頃
場 所:江戸城内(殿中)松の廊下(柳の間付近)
加害者:播磨国(広島)赤穂五万石藩主 浅野内匠頭長矩(ながのり)事件後、時を経ずして一関藩主田村右京太夫の屋敷に預けられ同日夕方切腹。遺骸は泉岳寺に埋葬された。享年35歳。
被害者:幕府高家肝煎(筆頭/三河国吉良四千二百石) 吉良上野介義央(よしひさ)事件後、吉良家の家督を息子義周(上杉家からの養子)に譲り隠居したが、後に赤穂浪士によって殺害される。享年62歳。
吉良上野介に対し、予ねてより�牘綺┃�の情を抱いていた浅野内匠頭が、江戸城内にて偶然出会った折、脇差で吉良上野介に斬り付け負傷させた。江戸城と言う政治権力の中枢、且つ最高権力者である徳川将軍家の居城において「刃傷(にんじょう)沙汰」を起した訳で、まあ今で言えば国会議事堂で国会議員同士が殺しあったってとこでしょうか・・・こんな事件が起こればどうなるか・・・世情へ及ぼす影響の大きさにビビッた幕閣は碌な取調や詮議もないまま、浅野内匠頭に即刻「切腹」の沙汰を下し、さらには浅野内匠頭本人だけの処分では済まず、赤穂藩浅野家自体も「御取潰」の処分が下され、多くの家臣(士分だけでも200名近く)が路頭に迷う事になりました。今の企業で言えば社長の不祥事で、会社の信用ががた落ち不渡り出して倒産・・・社員が路頭に迷ったってトコでしょうか・・・。まあ浅野内匠頭自身は、そこまで幕府の処分が重いとは思っていなかったかもしれません。自分が腹を斬れば済む程度の思慮だったのではないでしょうか・・・まあ後先考えずに突っ走った二代目若社長・・・ですかねぇ。当時の慣習では�犒�嘩両成敗��が原則だったはずですが、浅野内匠頭の�猴霓瓦砲茲訖禄���として事件は処理(実際は朝廷の使者の接待が充分に出来ず幕府の面目を潰したって事が理由だったようです)・・・浅野家側の一方的処分に終わってしまいます。一応吉良上野介は自主的に御役目を辞退し隠居して寄合(窓際族)に列し、吉良家は息子左兵衛義周が継ぎ、表向き事件は収拾します。浅野内匠頭は、死に臨んでも�犹�の真相�瓩鯡世�さなかった為、今になっても真相は不明な点が多い(なんと公式の記録が残っていない!)のですが、一般的には以下の真相が考えられています。
【事件の真相その� �
元禄十四年(1701)の年頭勅使御馳走役を命じられた浅野内頭匠が、高家(武家の名門の家系で様々な武家の儀式や作法を司る家柄)肝煎(筆頭)の吉良上野介より指導を受けるのだが、一説によると指導料として多額の袖の下を要求した吉良上野介に対し、浅野内匠頭がこれに応じなかった為、以後吉良上野介が浅野内匠頭に対し様々な嫌がらせをし、双方に遺恨が残っていたと言われている。そして元禄十四年(1701)3月14日午前、江戸城内松の廊下にて吉良上野介と浅野内匠頭がすれ違った折、吉良上野介より発せられた一言に逆上した浅野内匠頭が刃傷沙汰におよんだという説。これには異説があり実は浅野内匠頭の正妻に横恋慕した浅野家江戸家老が浅野内匠頭の失脚を狙って、わざと吉良上野介との関係を抉らせたというもの。数年前に放送された○HKの大河ドラマ『元禄繚○』では、この説が取り上げられていた。
【事件の真相その�◆�
将に�犹�実は小説よりも奇なり�瓩如�吉良家の領地(三河国吉良)における上野介の評価は多くの「忠臣蔵」モノで描かれた極悪人のイメージとは大きく異なり新田開拓や用水開発、治水事業や塩業発展など地域振興し貢献した名君として、領民には極めて良く慕われていた。また吉良上野介は、書道や歌道などに通じ、特に茶道には深い嗜みを持ち、当時の主要な文化人と深く交流していた。後世、歌舞伎や芝居、講談等で赤穂浪士関連の物語が多く扱われるようになって�狎亀舛涼蘓�(赤穂浪士)�瓩紡个垢覘牋�政の権化(吉良上野介)�瓩箸靴洞�調された観が大きい。近年では事件の原因として播州(播磨国)赤穂(浅野)藩と三州(三河国)吉良領における共通の特産物�牘��瓩寮貲笋鮟笋訛侘�にあったとも言われている。元々内陸部に所領があった浅野家では製塩は行われていなかったのだが、海沿いの赤穂藩に転封になり財政逼迫に陥った折、吉良家によって製塩の技術が伝えられ、後には藩の重要な特産物となった。しかし江戸市場での塩価格の相場を巡って吉良家側といざこざが起こり、後に吉良上野介が浅野内匠頭に対し色々と嫌がらせをした、と言われている説もある。

【討入りまでの経過】
事件の当日3月14日夕刻、国許への早飛脚が送られ5日後の3月19日には早くも悲報が国許の家臣に知らされた。また幕府からの使者によって4月19日までの赤穂城明渡しが伝えられ、家臣は強硬派(城に立て篭もり引渡しを拒否)と穏健派に分かれ、藩内は大混乱となるも国家老大石内蔵助の尽力によって事態は鎮静、赤穂城を幕府の受城使に無事明け渡した。その後大石内蔵助らによって、浅野内匠頭の弟(養子)浅野大学長広に浅野家の家督を継がせるお家再興の運動が幕閣に対して行われる。この間、大石内蔵助は幕府や吉良側の探索を欺き、仇討ちの意思が無いように見せかける為、京都山科に篭り放蕩三昧の生活を送っていた。翌年元禄十五年7月に浅野大学の浅野本家広島藩へのお預けが決定し、お家再興の道を断たれるに至り、7月28日大石内蔵助を中心に�犁愼い銑�実行が決定される。当初仇討ちの盟約には元浅野家臣の内94名が参加していたが、仇討ち決定までに多くの同志たちが生活の貧窮などの理由により脱落、最終的に大石内蔵助・大石主税親子以下47名の同志が残った。実際大石内蔵助の家禄千五百石以外の赤穂浪士の家禄は三百石止まりで、他の旧赤穂藩の重臣たちは伝手を頼ってさっさと他藩に仕官(再就職)していたと思われる。8月から11月にかけて大石内蔵助以下の同志たちが江戸に潜入、偽名を名乗り町人に化けたりして情報収集など討入りの準備に奔走した。12月14日吉良邸にて茶会が開かれるとの情報が入り、警備が手薄になると判断した大石内蔵助は12月14日深夜(正確には15日午前3時)に討入り(討入り部署)を決定した。

『旧赤穂藩士による吉良上野介邸襲撃・殺害事件』概要
日 時:元禄十五年(西暦1702年)12月15日 午前3時頃
場 所:江戸本所吉良上野介屋敷(現東京都墨田区両国2-8-10)
12月14日午後10時頃までに、吉良邸の裏門近くに米屋五兵衛という名で米雑穀を商い吉良邸の偵察(屋敷内の配置など)に当たっていた浪士前原伊助の店に集合した赤穂浪士総勢47名は、討入りの準備を整え待機していた。日も変った深夜3時半頃、屋敷内の寝静まったのを確認した赤穂浪士は表門隊(大石内蔵助以下23名)と裏門隊(大石主税以下24名)に分かれ吉良邸内に突入した・・・�狷容�せよ!吉良邸討入事件。2時間余に渡る吉良家側との壮絶な斬り合いの後、炭蔵に隠れていた吉良上野介を発見、遂に首級を挙げる。赤穂浪士側の死者は無く数名の負傷者のみ。対する吉良家側は不意打ちを喰らった為もあって死者17名(一説に16名)負傷者28名。実に討ち入った赤穂浪士と同数に近い損害を出している。当時吉良邸には200名近い住人がいたと思われるが、その内半数以上は女中や下働きで、実際反撃できる士分や足軽は100名近くだったが、赤穂浪士は邸内突入と同時に、これらの寝所(長屋)の出入り口を封鎖し屋内に閉じ込めたので、応戦できたのは母屋に居住していた50名ばかりだったようである。午前6時、本懐を果たした赤穂浪士46名(寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命を受け逃亡)は泉岳寺に向かい、午前9時頃主君浅野内匠頭の墓前に吉良上野介の首級を手向けた。吉良家と血縁関係にあった米沢藩上杉家では、吉良邸襲撃の報が伝えられると、当主上杉弾正大弼綱憲(吉良上野介実子)自ら赤穂浪士追撃の為の出撃の準備していたが、幕府老中からの使いが到着、諌められ涙を飲んで出撃を中止した。その夜までに赤穂浪士46名は、肥後熊本藩下屋敷(細川越中守/17名)伊予松山藩上屋敷(松平隠岐守/10名)長門長府藩中屋敷(毛利甲斐守/10名)三河岡崎藩上屋敷(水野監物/9名)にそれぞれお預けとなった。討入りの理由については、赤穂浪士の�犖�上書�瓩�残されており、それによれば�犲膩�の恥辱と遺恨を雪ぐ為��と書かれているが、実際は�)詆椶凌禄�事件裁定に対する抗議�∋鉄�(再就職)の為のパフォーマンスの意図があったのでは、と考えられている。

【討入りその後】
翌12月16日吉良上野介の首級は泉岳寺より吉良家に返還(その時の受取証文が残る)医師栗崎道有によって遺骸と縫合、その他の傷口も丁寧に手当された後、牛込萬昌院に葬られた。翌年元禄十六年2月4日、赤穂浪士46名の切腹処分が決定(主君への忠義と幕府の処置への反逆を相殺し、武士としての面目を立てた裁決と言われている)。浪士たちは各お預け先の屋敷にて切腹して果て、主君浅野内匠頭と同じく泉岳寺に葬られた。吉良上野介の子息吉良義周は、赤穂浪士襲撃への応戦の不手際を咎められ信濃国高島藩(諏訪安芸守)にお預けとなり、後の宝永三年(1706年)1月20日死去した。赤穂浪士の罪に連座し、遺児らには遠島の仕置きが下された。宝永六年(1709年)五代将軍徳川綱吉の死去に伴う恩赦により、遠島にされていた赤穂浪士の遺児らは放免され、また浅野大学も放免となり安房国に五百石の知行が与えられ、旗本寄合に列した。正徳三年(1713年)大石内蔵助の遺児(三男)大三郎が広島藩浅野本家に千五百石の家禄で召し抱えられた。

ここまで入り込んで書き込んで来ましたが、今回は『忠臣蔵』の特集ではありません・・・爆。あくまでも『大脱走』の特集だったのです・・・大爆。で、何でここまで入り込んで『忠臣蔵』について書いてしまったのか・・・聡明な観戦武官の皆さんにはとっくの昔にお分かりでしょうが『忠臣蔵』=『大脱走』という公式を立証しようという試みだった訳なんです・・・長げ〜前置き・・・はぁ〜(おおきく溜息を吐く)

【人気映画・ドラマの定番・・・それは�狠砲燭舛稜β僂僚乎跳爿瓠�
日本人に最も親しまれた時代劇=忠臣蔵と言っても過言ではないでしょう。赤穂浪士たちの切腹から僅か12日目には事件を題材にした歌舞伎が上演され(興行3日で幕府より中止命令)3年後には近松門左衛門により設定を変えて書かれた人形浄瑠璃『碁盤太平記』が大坂で上演されます。そして吉良邸討入事件から46年後の寛延元年(1748年)8月26日、事件を題材とした『仮名手本忠臣蔵』(二代目竹田出雲 作)が初演されます。ストーリーを刃傷・討入りだけに絞らず、男女の恋愛など巧みに絡ませた点が大きく評判を呼び、初演から四ヶ月連続上演という大ヒット作品となりました。その後現代まで様々な形で演じ続けられている超ロングラン作品・・・それが忠臣蔵なのです。さらに映画の普及とともに、忠臣蔵ネタ作品は、製作すればヒットするドル箱作品として数多く製作され続けます。
以下忠臣蔵及び関連人物作品、忠臣蔵を基にした現代劇の製作作品数
〜1919年までに36作品
〜1929年までに26作品
〜1939年までに28作品
〜1949年までに6作品※戦時中含む
〜1959年までに15作品
〜1969年までに9作品
〜1979年までに1作品
〜1989年までに1作品
〜1999年までに8作品
戦後、連合国進駐軍により�猊�讐��を題材とする映画作品の製作は禁止され、この状況が1951年まで続きます。ご覧の様に近年に至って�狠蘓誕�関連映画��の製作は極端に減少して行きますが、それに代わって登場するのが・・・テレビドラマ(連続・長編特番)であります。
1950年代・・・2作品(連続2作品)
1960年代・・・4作品(連続3作品・長編1作品)
1970年代・・・3作品(連続3作品)
1980年代・・・4作品(連続1作品・長編3作品)
1990年代・・・8作品(連続2作品・長編6作品)
『忠臣蔵』関連映画の製作が急激に減少する1970年代は、私ATFと同世代の方々が物心ついた時代でテレビと言えば一家に一台(居間に木目調の大きな画面のヤツ・・・UHF専用調整機なんかもあったなぁ)が普通でした。夕飯のひと時、家族揃ってテレビを観るってのが当たり前の時代。年の瀬、居間の炬燵に丸まり家族揃って『大脱走』(前・後篇)にハラハラしていた時代。その後1980年代から1990年代にかけて生活の形態も変化・・・(バブルの絶頂と共に)・・・レンタルビデオや衛星放送が急激に普及・・・し、子供部屋も一人一部屋となり、家族揃ってテレビを観るという慣習が少なくなってしまいました。ちょっと強引ですが1970年代の日本人にとって、年末にテレビ放映される『大脱走』は、すなわち日本人に最も親しまれた『男たちの忍耐の集団劇=忠臣蔵』だったとは言えないでしょうか・・・。そんな『大脱走』もスティーブ・マックィーンの没年(1980年)以降は余り放映されなくなった、と言う事実からは�爐劼箸弔了�代の終わり��が感じられてしまうのでした・・・。

【男は黙って・・・サッポ・・・じゃなくて�狢僂�忍べ�瓠�
両作品に共通して言えるのは�犁圓欧蕕譴臣砲燭舛�、様々な苦難に耐え、最後に本懐を遂げる��と言う点です。『忠臣蔵』は�狄禄�・浪士・仇討ち��『大脱走』は�狎鐐茵κ疥此γα���という訳です。以前の観戦記でもカキコした様に『大脱走』では登場人物各人が非常に個性豊かに描かれています。そして『忠臣蔵』でも大石内蔵助や他の赤穂浪士たち、吉良方の人物まで各々の登場人物がそれぞれのドラマを独立して作品化しても充分描ける程の内容の濃さを持って登場しています。バートレッド中隊長=大石内蔵助、ヒルツ=堀部安兵衛などと当てはめて考えて見ると、結構当たってると思えて来ませんか・・・。そして脱走後と討入り後のドラマ・・・。共に悲劇的なストーリーに続きます(浪士の切腹と捕虜の処刑)が、観終った後に訪れる�狒峅�感��・・・捕まって、再び独房に入れられるマックィーン演じるヒルツ大尉が、懲りもせず独房内でキャッチボールを始める�猊垓�の精神��を描いたシーンや、赤穂浪士たちが晴れやかな顔で�狎敲↓�の場に向かって行くシーン・・・。古き良きあの時代、『忠臣蔵』の精神は年末テレビ放映の『大脱走』によって私たち日本人の心の奥底に受け継がれていたのではないか・・・。そんな風に思えて来るATFなのでした・・・。

前置きばっかり長くてすんません・・・引き続き【特典篇】へと【続きます】

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