ただいまマイクのテスト中。

2004年10月01日(金)


サーダバード

第一章 ふたつの明星


 ハレム――それは禁じられた場所。内廷(エンデルン)の最奥にひっそりと隠された、もう一つの秘密の花園だ。
 スルタンの妻子や母親、女奴隷たちの暮らすそこは、外の世界から遮断された女たちだけの世界で、スルタン以外、いかなる男も足を踏み入れることはできない。
 数百を越える女たちを収容するそこは、スルタンの代替わりごとに増築・改装をくり返し、今では大小いくつもの部屋が複雑に錯綜する、巨大なラビリンスの様相をきたしている。
 そんな蜂の巣のように入り組んだ館の中を、物心つく前から、ラフィールは裸足で走り回っていた。
 育ち盛りの少女にとって、ハレムは広大でスリルに満ちた、格好の遊び場だった。
 たとえそこが、四方を壁で取り囲まれた、ろくに日も射さない牢獄であっても、外を知らない少女には唯一の家であり、世界の全てだったのだ。
 母親の、豪華で行き届いた部屋(コンパートメント)を抜け出しては、ラフィールは毎日宮殿の探検に出かけた。
 カビくさい衣装部屋も、使われなくなった食堂の跡も、ラフィールにかかれば全てが神秘的で謎めいた空間と化した。
 湯気の立ち込める大理石の浴室(ハマム)、礼拝の時間ごとに、唄うような囁くような祈りの言葉で満ちる礼拝所(モスク)、龍涎香と女たちの濃い体臭が入り混じったにぎやかな共同寝室―――。
 ただ一つ、祖母である皇太后の部屋と、専用の中庭を含む一角に近づくことだけは厳しく言い含められていたが、それ以外は事実上フリーパスだった。
 こうして屋内を自由に駆け回り、6歳になった時にはすでに、ラフィールは宮殿の誰よりもハレムの細部に精通していた。
「宦官頭(キスラル・アガ)様、言ってた。姫さまさがすの、砂漠に落ちた針、見つけるよりむずかしいって」 
 そうラフィールにもらしたのは、見習い宦官のギュルベヤズ(白バラ)だ。
 ギュルベヤズというのは本当の名前ではない。ハレムに入る際、それまで話していた言葉や宗教といっしょに、すべての過去を奪われるからだ。
 本名はアナイス・ネッリ。エジプト生まれのその少年は、宦官として仕えるため去勢され、ハレムに売られてきたのだった。
「ねえアナイス、乳母やが言ってたけで、ここへ来るまえにむずかしい手術をしたって、ほんと? まだ痛い?」
「いいえ、ひめさま。手術したの、ずっとずっと昔。おおきな戦争があって、ぼくとおとうと、同じ商人に売られた。いっしょに手術して、べつべつに砂に埋められて、痛みどめのくすり、まいにち飲んだ。それのむと痛くない。でも、頭ぼうっとする。ようやく血がとまって、頭がはっきりしたときはもう、おとうといなかった。それからずっと、ひとり」
 アナイスが静かな声で語るのを、ラフィールは目を丸くして聞いていた。
 

 ハレムで起こること以外、何も知らないラフィールには、戦争や奴隷商人という言葉の意味さえわからなかったのだけれど。


時間から置き捨てられた空間

足音に合わせて  降り積もった埃が金砂のように空中に舞った。
貝殻のようなくるぶし  軽やかに階段を駆け上がる



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