その場では思い出せないのに、 全然関係の無い所で「ああ!あれは…これか!!」 などと一人納得する事がある。 様々な場面で、最近そんな経験が増えてきたのは、 以前よりも活字やらテレビやらを観る機会が増えたからだろうか? そこいらに転がるメディアからヒントを見つけ、それを基に脳内連想、答へと行き着く、というプロセスなのだろう。 が、何も考えずにボンヤリしていても、上記の様な反応が突然起こったりもするので、 結局の所、脳が退化してんのかなあ?などとも思うのである。 月曜日に書く筈だった日記の内容を、今思い出しても…なあ? という話。
作者も解りやすくは書いてくれているのだろうが、 たまに思想の理解に苦しむ事がある。 活字に含まれる大量の情報は、含有できるからこそ表現が難解になったりもするのだ。 結局の所、作者の真意などは自身にしか解らないものなのだろう。 とはいえ、生活をしていく中でふと、本の一文が頭に浮かび、 作者の言わんとしている事がありありと解る瞬間もあったりする。 「ああ、この本のあの一節はつまり…こういう事を示しているのか」 などと感動し、これを求めて極爆は本を読んでいたのだ、と一人悦にひたっている。 が、理解出来るのはここまで。 偉い人達が説明するような「この場面はつまりアレを表現しており、光る太陽が主人公の心のうちを(中略)だからこの作品はソレへの批判の為書かれた…」 という所までは理解出来ない。そもそも、何処まで作者の心を伝えきれているのかが定かでは無いので、何だか胡散臭い。 まあ、本の楽しみ方は人それぞれ。極爆に否定する権利は無い筈だが… 作者はどう感じるのだろう。 作者以外のものがストーリーの中身を自主解釈。 この感じる不可解さは、極爆が読む本の量が少ないからおこるのか。 理由としては充分であるがしかし、図書館の本を読み終えたとしても、極爆には理解出来ない事なのかもなあ。 などと考えていた極爆である。
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