■ゲンジツ日記■(試行錯誤中)
静花



 20数年ぶりの足の診察で大ショックを受けて…。(長文)

こんにちは。
…やっと大きなショックと鬱状態から
少し脱しました。。


今日の日記は(いつも長文だけど^^;
更に)長文になりそうですm(_ _)m

今月の17日(木)、思い立って、
市民病院の「整形外科」に診察に行ってきました。

私は生まれつき、左足が「先天性股関節脱臼」
という障害を抱えて産まれてきました。

ちなみに母も同じ障害を抱えていて、
超短距離しか歩けず、歩行は杖を利用しています。

「先天性股関節脱臼」は女の子に圧倒的に多く
しかも母親から遺伝する確率も高いそうです。

赤ちゃんの時にそれに医者が気づいて、
赤ちゃんの頃からコルセットをつけて股関節を
矯正しようとしたり、入院したり
したそうです。

…でも、私の足は酷い方らしく、
それでは矯正できず、小学2年生の頃、
半年入院&2回手術を受けました。


それでも医者からは、
長距離歩いたり、激しい運動をしたり、体育を受ける
ことは禁止されていた


なぜなら、私の足の障害は、
「進行性(症状が年とともに悪化して進んでいくもの)」
のもので、しかも現在の医療では「治す」
ことは不可能
な故障だから。

だから、
「どれだけ、足を長く耐えられるよう、温存できるか」
が勝負になってくる。

だから、なるべく足の寿命を縮めるようなことは
避けなきゃいけなかった。

だから、小学校の時はずーっと体育は見学。
遠足とかも、一人だけポツンと出発地点で”待機”だった。
正直、すっごく つまんなくて、寂しくて、
自分だけ見学してることに負い目を感じてた。


…でも中学1年の時の体育教師が
結構スパルタな先生で、
「甘えてちゃダメだよ」とか言われて、
体育に強制的に参加させられた。


持久走ももちろん参加したし、
ハードル飛びにも、団体競技も
皆と同じように参加した。

高校時代もそれに引き続き、
体育には皆と一緒に参加した。

今思えば、それは私の股関節の寿命を
縮める行為だったと思う。。


…でも皆と一緒に体育を受けたり、
走ったり、踊ったり…そういう経験は
楽しかったし、
自分に自信を与えてくれたと思ってる。

大学を卒業してからは、
仕事(バイト)をもって、忙しくて社内をバタバタ
走り回ったり、重いものも持ったりもした。

…これも多分、足にとっては良くなかったとは思う。

でも、やっぱりいい経験になったし、
自信になったと思う。

それにこの時点では、
私の足は(びっこはひいてたけど)短距離を歩くのにも
走るのにも「無痛」
で、私自身、自分の足が悪いことを
余り気に留めないでいられた。


長い距離を歩くと段々と痛み始めて、
耐えられなくなるけど、
…でも、我慢すれば歩けられた。

・・・けど、20代も後半になってから、
足の状態が一変してきた。


普通に歩くのでさえ、ピキーン!!と、
左股関節に痛みが走る。

車に乗るために、左足を少し上げるだけで
痛くて(足が)あがらない…。


医者に行って診て貰うまでもなく、
私の足は悪化していると、自分でも自覚できた。


それでも、子供の頃、
医者に良い思い出がないことと、
キッカケがないことで、医者には診て貰おうとは
思ってなかった。

…あのドラマを見るまでは。

最近、私は昼ドラにハマり始めていて、
その昼ドラのヒロインは、
生まれてから「盲目」になったのだけど、
手術で目が見えるようになる可能性がわかり、
手術をして、目が見えるようになったのだ。

「目が見えるようになれば、
一人で何でもできるようになる…。
自分の足で歩き出せる…。」

ヒロインの台詞です。

それを見て、すぐ感化される私は、
「もしかして私の足も、手術を受ければ
良くなるかもしれない!!」

「足が良くなれば、一人でいろんなことが
できるようになるかも。自分の足で自立したい。」


…と思ったのだ。
だから”思い立ったが吉日”で(決めたら行動は早い)、
次の日に両親に付き添ってもらい、
市民病院の「整形外科」を受診して、
足の状態を見てもらった。

…ところが、

私を待ってたのは、【無情な現実】だった。

私の、右足と左足で成長が違ったため左右非対称で、かつ、
歪みきった骨盤と股関節の写ってるレントゲン写真を
見て、医者はこう言った。

「左足は完全に【変形性股関節症】になって
ますね。でも、問題なのは右足の方で、
悪い左足を庇ってきたために、
股関節を覆うカサの部分が、普通の人より
3分の1に磨り減ってしまってます
 このままだと右足にもいずれ痛みが
出るでしょう

 それを遅らせるために、右足の股関節を
なるべく保護し、杖をつくことをお勧めします。

とりあえず、”股関節専門の医師”の
診察に予約を入れておきますので、
詳しくは(手術をするかどうかも含め)
その時に相談してください。」


…私は愕然とした。

左足が「変形性股関節症」になってるのは
痛みがあることからも、当然予測はできてたけど、
右足もそんな状態になってるなんて…。

左足の痛みや負担を減らすために、
杖をつくのではなくて、
「左足を庇う右足の寿命を延ばすため」
杖をつかないといけないなんて…。

しかも母が「障害者手帳」について聞いたら、
「症状が固定しないと出せない」みたいなことを
言われた・・・。


・・・なんで??

歩くだけで痛いんだよ?
日常生活に差し障り出てるんだよ?

好きでなったわけじゃないんだよ?
生まれつきの障害なんだよ?

それに、父の会社に勤めてた、
私と同じ先天性股関節脱臼の同年代の
女の子も、歩けるのに、
「障害者手帳3級」をもってたんだよ…。


なのに、どうして?
どうして私がもらえないの?

私は足が健康な人と同じように歩き、走り、
立ち、運動することが(したくても)できないのに、
「進行性」の障害で、治すことも不可能なのに、

「身体障害者」だと認めてもらえないの?


健康な足の人と同じ基準で生きろ、働け
というの?…この足で…!

私はなんともいえない絶望感と失望感に
叩きのめされて、家路についた。

(手帳が交付されてないから、補助金が出ず、
8千円も出して、杖を買って…。)

「股関節専門」の医者の診察は、
もう12月の末まで予約で一杯で、
私が予約をとれたのは来月の26日だった。

母が言うには、
「「整形外科」といっても幅が広いから、
専門家じゃないと詳しくはわからないんだと思う。
だから、今全てを決め付けるのはまだ早いよ。
「股関節の専門の医者」の診察を受けてから
色々判断しなさい。
「手帳」だって、絶対専門の医者が診れば
出して貰えるよ。お母さんが100%保証する。」

…と言ってくれたけど…。
私はもう完全にうなだれていた。

来月の26日まで、まだ1ヶ月以上ある…。
それまでどんな気持ちで過ごせばいいのか…。

「仕事を探して、山に登ったり、
色んなところに観光にいったり、
色んなことにチャレンジして、
自信をもてるようになろう。」


…そう思ってた矢先だった。

毎週チェックしていた、求人チラシも
もう見る気力さえなくなった…。

「私の足は、一生、健康な人のように、
長時間歩いたり、立ち仕事をしたり、
走ったり、運動したり、旅行したり…、できない…。

今は杖なしでも(痛みは伴うけど)歩けるけど、
どんどん年とともに足は悪化していって、
いつかは両足が痛み出し、
歩けなくなるかもしれないんだ…。

神経症や心の病は、身体を動かすと良いと
聞くけど、それすら私にはできない…。」


もともと抱えてた「足の障害」、プラスして
今抱えてる「心の病気や問題」

なんだか、やってられなくなった。。。

2重に障害があって、どうやって、
人並みに社会復帰できるというのだろう…。


せめて、どっちか一つならいいのに…。

私は「産まれてきたこと」
「障害を抱えて生きる【宿命】を背負い続けること」
に、
大変やり切れない気持ちになった。

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青い空なんて見れなくても良かった…。

綺麗な花なんて見れなくても良かった…。

頬を撫でる風なんて感じることなくても良かった。

障害を持って産まれるくらいなら、

お母さんのお腹にいる内に”殺して”欲しかった…。

もう産まれてしまったのならば、

お母さんのお腹に宿る前の世界に

戻りたい・・・。

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私は泣きながらベッドでそう呟いた。

…母は泣いて言った。

『「罪悪感」で一杯だと。
私を産むことで、苦しませることになって、
辛くてしょうがないと、

私の足を治すために、
今まで一生懸命やってきた。
でも、もしあんたが死んでしまったら、
私がやってきたことは全部「無駄」に
なってしまう…。
 私はあんたが死ぬ為に、産んだんじゃない!』


・・・と。

「自分にできることなら、足を治すために
なんでもしてやる。」

とも言ってくれた。

…でも私に覆いかぶさった、
「失望」という厚くて黒い雲は、
数日間、私の頭上を覆いかぶさり、

私は数日間、1日ベッドの上で暮らした。

時折泣きながら…。

そして、時折「死」を考えながら…。

先月、おばあちゃんが「花を植えて、少しでも
気持ちが癒されるように。」

気遣って買ってくれた、チューリップの球根。

お父さんが祈りを込めて、掘ってくれた。

「来年の春、このチューリップが咲く頃には、
どんな気持ちで私は眺めるんだろう」

そう思いながら、私は球根を置いて、
…そして祈った。

今年の冬、私が”逝った”のならば、
あのチューリップが淡いピンク色の花を
咲かせる姿も見れないんだなぁ…。


…とか思うと、涙が滲んだ。

私は
「一人にしておいて。放っておいて。」

…と言って、部屋に篭り、
両親も、連れさえも「会いたくない」とシャットアウトした。

気が付くと、ビニールテープに手が伸びた。
(首を吊るために。)

…といっても、
次の専門医の診察と判断を受けるまでは
死ねないけれどね…。


それに、死ぬなら「練炭」で逝く予定だけど…ね。

連れが
「俺が静花の”足”になる!」

…って言ってくれたっけ。

私は誰かの助けを借りず、頼らず、
自分の足で、自分の力で、何かを成し遂げて
自信をつけたかった
から、
正直そう言われても虚しい
のだけど、
でも、そう言ってくれる連れの言葉は
有難いと思った。。

数日経った今、
ようやく母と話せるようになった。

今もまだ、正直完全に立ち直ってない。

けれど、ようやく日記に現状を
書き記せるようになった。

正直、
一歩一歩積み重ねていこうと前向きになっていたところで、
出鼻を思いっきり挫(くじ)かれたショックは
未だ尾をひいてるけれど…、

人間って不思議なもんで、
大きなショックを受けても、
時間とともに気分が持ち直すように
できてるものなんだね…。

(お薬のせいもあるかもしれないけれど…)

もし来月、専門医の診察を受けて、
医者から「入院&手術」を薦められても、


そうなると、今通ってる心療内科の
カウンセラーのカウンセリングを
中断しないといけなくなるから、

できれば避けたい…。


一度、抜けちゃったら、
今度、いつそのカウンセラーさんの枠が
空くかわからないもの…。
やっと見つかった、今までで一番相性の合う
カウンセラーさんなんだもの…。

私にとっては、「足」より「心」の方が
優先なのかもしれない。。


それに入院、手術なんて受けてたら、
またどんどん月日が経っちゃって、
就職に不利になっちゃうョ……。


・・・・・。


・・とにかく、来月の診察日まで、
あれこれ悩んでも、どうなるかわからないよネ。

そうはいっても、
あれこれ悩んじゃうんだけども…。

・・・はぁ。

なんだかすごい長文な上に
くらーい内容・・・。
ここまで読んでくれた人、すいません。

とにかく、しばらくはちょっと
情緒不安定気味な状態が続きそうな静花でした。





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2005年11月20日(日)
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