最終日
俺、華麗に起床!!!
九州の朝と俺は相性がイイらしい(笑)
朝飯の付かないプランだったので、9時前にはチェックアウトです。
タクシーで福岡空港まで行き、九州に着いて早々に挨拶に行った うちの職場の系列店のレンタカー屋に行きます。
レンタカーを借りて、最終日の観光の準備OK☆
今日は夜の飛行機の時間まで福岡県内を見て回ります!
まずは高速に乗って一気に南下します。
やって来たのは『柳川』 柳川自体は過去に来た事があるのですが、その時は夕方過ぎで 暗くてよく見えなかったのでリベンジです!(過去日記参照)
まずは、前回は行かなかった『柳川城』へ 江戸時代には柳川藩の藩庁が置かれた城で、現在は柳川高等学校と 柳城中学校の敷地になっています。 遺構は明治の火災で櫓などが全て焼失してしまっています(涙) 現存するものは石垣、土塁。天守台の一部残骸(涙) そして、柳川の観光名所となっているどんこ舟による川下りで 利用されている街中に張り巡らされた水堀、掘割です。 筑後三潴郡蒲池一帯を本拠とする蒲池氏が戦国時代に築いた城で、 その後、大友氏、龍造寺氏、豊臣氏と所有者が代わり、天正15年 (1587年)の豊臣秀吉による九州仕置後、立花山城主・ 立花宗茂が 13万2千石を与えられ入城します。 しかし、立花宗茂は関ヶ原合戦にて西方についたため改易に(汗)
その後に関ヶ原の功績で田中氏が柳川城を含めた周辺の主となりますが、 後継に恵まれずにお家断絶!! その後、何とか立花宗茂が柳川藩12万石で旧領を回復し 以降明治時代まで立花氏の居城となります。
さらっと城跡や舟が浮かぶ川(水堀)を見学したら出発です!
お次はやや北上して『久留米』へ
ご当地グルメの1つ「久留米ラーメン」を食べます! 久留米ラーメンは、福岡県久留米市を中心に作られる、豚骨スープと ストレートの細麺をベースにしたラーメンで、豚骨ラーメンの元祖とも 言われているラーメンです! 多くの九州ラーメンだけでなく、様々な地域のラーメンにも影響を与えた と言っても過言では無い由緒正しきラーメンなのです!!!
「沖食堂」と言う地元でも有名な店に丁度昼時に到着・・・
時間的にすぐに入れるかどうか微妙だったのですが、奇跡的に次々と席が 空いていき、すぐに席に座れました♪
見た目と匂いの濃厚さに比べ、食べてみると意外とアッサリしていて スルスルと口に入って行きました! なのであっと言う間に完食です(笑)
食後、そのまま近所にある『久留米城』を見学! 久留米城は永正年間(1504〜21)に筑後川沿いの小高い山に 築かれた平山城が始まりとされています。 戦国時代より、周辺の土豪・豪族の間にてこの城を巡り激しい争奪戦 が繰り返しがあったと云われています。
戦国時代最後は大友氏の所有する城でしたが、豊臣秀吉の九州国割に より久留米城には、毛利元就の末子である毛利秀包が入城します。
・・・しかし毛利秀包も関ヶ原の戦いで西軍に組していたので、戦後は 領地没収です(汗)
先の柳川城と同じく田中氏の所有する城となります。
田中氏のお家断絶後は丹波福知山から有馬氏が入城。 有馬氏は以降40年もの歳月をかけて、廃城となっていた久留米城の 大改修を行い、本丸・二の丸・三の丸・外郭に濠を廻す連郭式城郭を 建設していきます。 その後、久留米は幕末まで有馬家の城下町として栄えていきます。
今では本丸部分が残っているだけですが、石垣、堀、曲輪、井戸と 遺構は良く残っており、特に石垣が見事!!! 特に表門の左側に見える高石垣と表門枡形は本当に素晴らしいモノ でした!!
・・・・・・・・・・・まだ久留米を出発しないよ
久留米ってラーメン以外にも焼き鳥も有名なんだって☆
食おう!(マテ)
ラーメンは城見学中に消化したって設定で逝こう♪
久留米駅の中にある「六角堂」なる、絶対に夜は飲み屋になっているで あろう焼き鳥屋に入ります(笑)
2003年(平成15)6月、久留米市は人口1万人あたりの 焼きとり店の数が全国で一番多い街として認定されているほどに久留米の 文化に焼き鳥が根付いており、その歴史は焼き鳥屋の屋台が昭和30年 以前より軒を連ねていた記録が残る程です!!
流石は焼き鳥の街!って感じの品揃え!! 関東では馴染ものない部位や、素材が串に刺されて焼かれています♪
ミッキーとコチヤはガッツリ食う気で「焼き鳥丼」をチョイス!
俺と老ちゃんは幾つか食いたい串を単品で頼みました。
結果 あまりに美味くて串で10本以上も注文した俺が一番の高額会計に なったとさ(滝汗)
はて〜お腹は満たされ財布は軽くなったところで次!次!!
北九州の小京都と呼ばれる武家屋敷や古い寺院が建ち並ぶ『朝倉』 その街並みを眺めつつ、嘗てこの地を治めていた秋月氏の居城である 『秋月城』を見学です。
中世・戦国時代の古処山城の麓にあった秋月氏の館跡を利用して 築かれた平城で、福岡藩の支藩秋月藩の藩庁であり、黒田氏が居城して いました。 一筋に掘られた水堀と石垣。二重櫓や平櫓を5基建て並べてた構造の 城でした。 現在は跡地は黒田長興を祀った垂裕神社と学校になっています。 しかし遺構は堀、石垣、裏門であった長屋門、旧大手門である黒門が 確りと残り、小京都と呼ばれる古い街並みに合っていて良かったです♪
更に北上を続け、空港までかなり近くまで帰って来てしまいました(涙) 最後の抵抗とばかりに、過去にこの辺りに来た時に一回来た事のある 箇所を見て回って粘ります!!(苦笑)
『太宰府天満宮』『観世音寺』『大宰府政庁跡』(過去日記参照)
まずはミッキー、コチヤは初だったので立ち寄った太宰府天満宮です。
・・・非常に有名ですね
学問の神様「菅原道真」を祀る神社です。 毎年、受験のシーズンには受験の言う名の地獄を彷徨う亡者どもが 大挙して押しよています(汗)
そもそもの由来は、右大臣であった菅原道真が昌泰4年(901年)に 左大臣藤原時平らの陰謀によって筑前国の大宰府に権帥として左遷され、 翌々年の延喜3年(903年)にこの地で亡くなりました。 道真の墓があった寺の敷地内に廟を建てて祀ったものの、それ以降 都では疫病や異常気象など不吉な事が続き、これを「道真の祟り」と 恐れてその御霊を鎮めるために、醍醐天皇の勅を奉じた左大臣藤原仲平 が大宰府に下向し、道真の墓所の上に社殿を造営し、延喜19年 (919年)に天幡宮として建立された歴史があります。
道真に由来の飛梅の伝説に因んだ銘菓「梅が枝餅」を食べながら 拝観です!
お次は天満宮の裏手から混雑を避けて周りこみ観世音寺を参拝します。
九州随一の仏像彫刻の宝庫である観世音寺! なのに開基は天智天皇である事以外は、まだまだ不明な点の多い九州を 代表する古寺です。 造営開始は7世紀後半に遡ると云われています。
また、奈良の東大寺。栃木の下野薬師寺とともに「天下三戒壇」の1つ!
戒壇=仏教用語で、戒律を授ける(授戒)ための場所を指す。 戒壇は戒律を受けるための結界が常に整った場所であり、授戒を受ける 事で出家者が正式な僧尼として認められることになる。
=僧の免許発行センターみたいな感じです(マテ)
非常に価値のある寺院なのですが、これだけ太宰府天満宮に近いのに 殆どの観光客が足を運ばずにスルーするのは何故でしょう? 勿体無いな〜(涙)
最後に大宰府政庁跡 大宰府は7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関で 大陸との外交。防人などの兵力による西の防衛。 西海道9国(筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅)と 三島(壱岐、対馬、多禰(現在の大隅諸島))の監査。司法と行政を 司る事から「遠の朝廷」とまで呼ばれた規模でした。 面積は約25万4000平方メートル・・・ 甲子園の約6.4倍もありました!
主な建物として政庁、学校、蔵司、税司、薬司、匠司、修理器仗所、客館、 兵馬所、主厨司、主船所、警固所、大野城司、貢上染物所、作紙などが あったとされます。 しかし、遺跡が確認されたものは少なく、幾つかの基礎石が点在していて、 堀が当時の規模よりは狭いとは言え広大な敷地を囲っています。
今では子供の遊び場&犬の散歩コースとして賑わっていました(笑)
そろそろ最終ポイントです! 大宰府を囲むかのように周辺の山々に築かれた山城たち!!
その中でも最高に燃える逸品に突撃です!!(ヲ) 『岩屋城』 戦国時代末期の天正14年(1586年)、島津忠長率いる島津軍と 大友軍の高橋紹運との壮絶な攻防戦(岩屋城の戦い)で知られる ベストスポットです!!
大友、島津、龍造寺の九州三国時代も終わり、島津氏の超優勢で 進められた大友氏との最終局面。
島津が大友を滅ぼすのが先か 豊臣に臣従した大友へ豊臣の援軍がやって来るのが先か
ギリギリの戦いが続きます。 築城は天文年間に大友氏の武将で高橋紹運の父である鑑種と伝えられ、 立花城と共に大友家の筑前支配の拠点でありました。
本拠地以外のほぼエリアを島津に占領されていた大友氏は この拠点を守る為にエースである高橋紹運をもって島津の侵攻を 迎え撃ちます!
・・・・・・迎え撃ちます!と言っても、名将島津忠長。 更に鬼島津を呼ばれる島津軍の精鋭2万を相手に
700人ちょいって・・・・やる前から終わっておるわ!!(滝汗)
ところが、この700人 粘りに粘り、2週間の間頑強に抵抗を続けます!!! 最後は全員敵陣に突撃して討ち死にと言うリアル戦国無双状態です☆
彼らが稼いだ2週間と言う時間で、豊臣氏の援軍が間に合い大友氏の 滅亡が免れたと言うのでマジで全員が敢闘賞ですよね!
かなり厳しい山道を登った先にある山城ですが、車で登って行けたので あっと言う間に到着でした♪ 最後に少し徒歩で急な山道を登りましたが、それでも10分くらい 登ったら山頂の本丸跡に到着です。
遺構は土塁、堀切が僅かに残るばかりですが、岩屋城の戦いで 散った勇士たちを称える石碑が我々のテンションを燃え上げさせて くれますな!!
辺りを見下ろすとさっきまで居た太宰府天満宮や大宰府政庁跡などが 見おろせてとても綺麗な景色でした♪
さて、車に戻り更に山道を進んで行き、山を登ったり降りたりして行くと 『大野城』へと到着です。
ま〜大野城と言っても、岩屋城があったエリアを含めた大宰府を囲む山 全体が大野城の敷地なので、全部見て回ったらここだけで3泊4日かかって しまうので、今回は一番遺構が確りと残る大石垣を見て来ました!
え〜因みに100名城です☆
遥か昔、聖徳太子の時代。 天智2年(663年)、百済救援のため、朝鮮半島に出兵した日本軍は 白村江の戦で大敗し、唐・新羅の来攻に備えて造られた朝鮮式山城です。 その規模は福岡県太宰府市観世音町〜福岡県大野城市大城〜 福岡県糟屋郡宇美町四王寺に跨る一帯の山全て!!
山々の合間に土塁、石垣、城門跡、建物群礎石、井戸などの遺構が 残っています。
全部どころか軽く見て回るのもハンパ無く時間が足りないので、一点集中で 山の麓近くの車道に近い位置に残っている大石垣へ!
・・・・・・・・・・・・・・・・・すげーーー 石垣の高さにも驚きましたが、石垣が築かれている範囲の広さにも驚愕! 663年の石垣がこれ程の規模と良好な保存状態で残っているのがマジで 奇跡です!!
土塁に後付けされた遊歩道?的な階段で上まで登ってみましたが 余りの急勾配と、見下ろした時の高さに唖然(汗)
・・・降りは結構マジで怖かったです(涙)
残念ながら、今回の観光はこれにて終了!
・・・って言っても、大野城見学の時点で空港のそばまで来ているので あっと言う間に空港周辺に到着です。
ガソリンを入れてからレンタカー屋にてレンタカーを返して 19:00前には『福岡空港』へ
20:45発の飛行機だったので、空港内で各自土産を買ったり 休憩したりと適当に過ごします。
定刻通りに福岡空港を出発! サヨウナラ九州〜〜〜〜(涙)
フライト前に、俺が機内に持ち込んだカバンが大き過ぎて 上の荷物入れに入らなくて、CA2人がかりで押し込んでも無理で 結局席から離れた荷物入れに運び込むと言ったお茶目なトラブルが あったものの、概ね順調にテイクオフ♪(ヲ)
帰りの便は九州以東が天候が悪かったので、かなり揺れるかなと警戒 していたのですが、大して揺れずに穏やかなフライトでした。
・・・・・・・関東地方に入るまではな! いきなりガタガタと激しく揺れて焦ったよ(汗)
ま〜無事に22:30 『羽田空港』に帰って来ました。
・・・・・・・・・あ〜テンション下がるわ〜〜(涙) この東京の風って言うか、空気って言うのが最悪ですわ〜 サヨウナラバカンス!ただいま糞ったれな日常!!って嫌でも 思い出させてくれるぜ(怒)
空港内で電車で茨木まで帰る老ちゃんを見送って、俺らは駐車場の 係りの人に電話をして迎えを待ちます。
・・・・しかし、毎度毎度老ちゃんにはご苦労様です!と しか言えんな(苦笑)
迎えのバスに乗り、車を受け取ったら帰路に着きます。
ミッキー宅の近所で晩飯を食って帰る予定だったのですが、ミッキーが 不調?で自宅前で離脱(汗)
コチヤと2人でミッキー宅近所のすき家で食ってから帰りました。
茅ヶ崎でコチヤを降ろして、我が家に帰宅したのが2時前! ここから荷物や写真の片付けを始めたから大変!(マテ)
結局寝たのが12日の7時でした〜(涙)
ま〜12日は夏休み最後の一日で休みだったので無問題! 昼過ぎから町田で母に会って、土産を渡すぐらいしか予定が無いので 楽勝です♪
それにしても今年も夏の大イベントが終わってしまった〜
去年の宣言通りに壱岐&対馬に行けた!(過去日記参照) 鉄板3人衆はともかく、コチヤが気合入れて有給とって来て参加したり! ・・・逆に夏のイベント常連のMICHELが来れなかったり(汗)
色々あったな〜
島って言う独特の場所な上に、日本人には馴染みの薄い国境と言う ものを感じる事の出来る不思議な場所。 今回行けてとても良かったです♪
来年の夏の大旅行は・・・・・・・・・・隠岐諸島!!!
決めた! 隠岐諸島に行きます!!(爆)
出来ればもっと大人数で行きたので、その時の皆の頑張りに大いに 期待しましょう(笑)
それでも今回も楽しく無事に帰って来れました。 皆さん有難うございました&大変お疲れ様でした〜(笑)
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