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2005年08月15日(月)
例えが結局は何も例えていないこと
 夏休みの最終日である今日、ソフ開の勉強を再開してみる。しかし、ここしばらく仕事でも頭がまるで働いていなかったおかげで、「憶えられない」だとか「解けない」の連続だ。頭は使わないとどんどん錆び付くのだと自ら実証してしまう、哀しい一日だった。とはいえ、ここでセンチメントに陥ってもいけない。自分は無能だと考えもなく嘆くばかりでは、更に脳がつるつるしてしまうからだ。


 今日は終戦から丁度60年の日だ。戦死者について、国のために命を捧げたなどという表現が今でもしばしばなされるけれど、そうではない。国に殺されたのだ。勝てる見込みがなくなった戦いをやめる事ができず、特攻させるような国をどうやって正当化できるのか。けれど、心の何処かで明らかに間違っているとは気付きながらも、国を愛するが故に命を懸けるしかなかったのかもしれない。狂った恋のようだ。


 首相の靖国神社参拝に関する是非がテレビで集団討論されていた。その中で「アジアに配慮する必要があるか」がテーマになる場面があった。討論の参加者は、「中国や韓国に配慮して参拝を止めるべきだ」と「アジアの他国が意見するのは内政干渉だ」という意見に分断されていた。


 『地域の住民たちを殺害して服役していた担任が同窓会に来ることになりました。けれど、その同窓会には卒業後30年会えなかった親友が出席すると聞きました。その学校の校長になっているあなたはその同窓会に参加しますか。』


 首相の靖国参拝問題を少しでも身近に考えようとしたら、こんな例えになるだろうか。けど、この例だったら「校長になってるんだから行かないといけないだろうし、親友もいるんだから会いにいけばいいじゃん」な発想になりそうだな。この例えはどう違ってるんだろう。


 脳に皺が欲しい。 //


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