2002年08月19日(月)→→→熱闘甲子園

広陵負けちゃいました。
その前に桐光だろう!とか言われそうだけど、広陵は…二岡の母校…
でも二岡は甲子園出てないんですね。
熱闘甲子園シーズンなので、熱闘二岡の昔(大学時代)の記事でも抜粋してみます。たぶんこんな記事普段みんな読まないと思うので。Ctrl+A推奨。

 お蔵入りになった1枚のアンケート用紙がある。高校2年生の秋、広島・広陵高のエースとして中国大会ベスト4まで勝ち進んだ二岡が、翌春のセンバツの個人データとして書いたアンケートだ。その中に、こんな欄がある。
―今までで一番思い出に残っていること。
「父が、自分の試合を応援に来る途中、交通事故で亡くなったこと」
 結局、広陵はセンバツ出場の選考に洩れ、このアンケートが人目に触れることはなかった。もし甲子園に出場していたら、その実力に加え、テレビや新聞といったマスコミがもっとも好む、この逸話によって、悲劇を乗り越えたヒーローとして祭り上げられていたことだろう。
 子供の頃の話。少年野球チームの監督をしていた父と、そのチームの中心選手だった3歳年上の兄。当然、家族は野球中心の生活になる。休みの日は、朝から応援のためにグラウンドに連れて行かれた。一人で留守番するのもつまらない。そこで、イヤイヤ始めた野球だった。
 91年、兄・聡が広陵でセンバツ優勝する。兄に勝ちたいという思いと、比較されるのはイヤだという反発心を持ちながら、中学を卒業した二岡は兄と入れ替わりで、同じ広陵に入学する。
 高校2年の秋、二岡と福原忍という2人の好投手を擁する広陵は、県大会を順当に勝ち進む。そして、その事故は準決勝の瀬戸内戦の日の早朝に起こった。
 父を失ったショックに、骨折というアクシデントが追いうちをかける。県大会は制したものの、中国大会の準決勝で岡山理大付に0対7と大敗。夏も県予選で敗れ、二岡は一度も甲子園に出場することなく、高校生活を終えた。
 甲子園にあこがれていたわけではない。二岡にとって甲子園は、兄を超えるために行かなくてはいけない場所だった。その目標が果たせなかったことで、二岡には「甲子園で騒がれたエリート選手には絶対に負けたくない」というプライドが生まれた。(中略)
 17歳から18歳。もっとも多感な時期に経験した本当の苦しみ、悲しみ、悩み。それが二岡の原点と言える。しかし今、二岡は当時の話をほとんど口にしようとはしない。「そういうことで注目される選手にはなりたくないんです。記事にもされたくない。すべてはグラウンドで。プレーを見て評価してくれればいいことですから。」毅然たる哲学が、二岡の中には存在しているようだ。(後略)


このあと、大学選手権のある試合で延長サヨナラHRを打ったけれど、その前の打席で決められなくてピッチャーをムダに使わせてチームに迷惑をかけた、と自分に腹を立てていたとか、打撃の勝負強さと守備の玉際の強さとか、妥協しない精神力の強さとか、色々書いてあるけれど、まあそこはね。
大学時代、二岡は関西学生リーグで通算本塁打記録を更新していたはず。
そんなすごい選手でも、甲子園には出られなかったのだから、甲子園に出た選手の多さに加えて、出られなくて涙を呑んだ選手の多さは比べ物にならないだろう。
そして、それがスタンダードなのだということを忘れてはいけないということ。
世の中は勝者だけにスポットが当たるけれど、そうじゃない人の方が何倍も、何十倍もたくさんいて、そういう人たちで世の中はつくられているのだということ。
そして甲子園に出ることが出来なくて、それをばねにして、甲子園で優勝した兄はなれなかったプロ野球選手になったということ。
そういうことを忘れてはいけないなあと、二岡を見ているとつくづく思うのです。
人間らしいなあって。ま、ちょっと意地っ張り感があるのはは否めないけど(笑)。
由伸は天才。二岡は秀才。上原は雑草(笑)。


     
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