中1少年を補導、駿ちゃん殺害大筋認める自分の予測の範囲を超えた事態が起こると、私たちの社会は、この少年が犯行に至った背景に何があったのかと、「真の犯人探し」がはじめます。家庭⇒学校⇒警察⇒被害者⇒地域⇒教育法⇒少年法⇒社会⇒国と自分たちが納得いくか飽きるまで、社会学者なり心理学者なりに「ズバリ聞きます」とマクロレベルで語らせます。そして、○○が少年を狂わせた犯人だろうと、あるものをターゲットにして断罪したりします。どうしてそんなことがまかり通っているのでしょうか。要するに何か理由付けをして、とりあえず安心したいのでしょう。ひょっとしたら、「自分で考えてみる」ことを回避したいだけなのかもしれません。たとえば少年犯罪の裁判で、「過去に不幸な生い立ちが」などと言われる場合があります。しかし、不幸な家庭環境や社会状況のなかでも、多少の挫折などはあっても、人の道を踏み外さずに人生を歩んでいる人のほうが明らかに多いです。正気であろうと精神異常であろうと、最終的には本人の問題だと思います。僕自身は、この社会に真の犯人などいないと思いますし、「人に迷惑をかけてはいけない」この大原則に逆らった子どもには、もはや「子供だから」なんていう理由で、すべてを保護する必要はないと思います。子供が殺人を犯しても「未来があるから」で許されるということは、子供は人を殺しても「お咎め無し」ですむことを公認してるようにしか思えません。また、マスメディアは少年の実名や顔写真を発表することはできません。しかし、ネット上では昨日から、この少年の通う中学校とHPアドレス(HPはすでに削除されています)が公表され、今日になってこの少年の顔写真と実名が公表されています。これはマスコミの規制と世論の知りたいという欲求の乖離からくるもので、マスコミがタブーとし隠せば隠すほど、この少年の顔写真と実名は、急速に広がっていくことになるでしょう。そしてマスコミが隠すほど、サカキバラやバスジャック少年のように、いつまでも晒されることになります。人権派はまたネットを糾弾するでしょうが、僕自身は、この少年はとんでもないことを仕出かしたのだから晒されて当然だと思います。本来なら殺された被害者や大切な人を奪われた遺族の人権を守るべきなのに、遺族や被害者は写真や映像を垂れ流しにされ、家まで押しかけられたり、お葬式まで全国に生中継されてしまうのに、犯人は「未成年だから」という理由で名前も伏せられ、少年法で手厚く保護されるのは、どう考えても納得がいきません。 ↑投票ボタンです。今日の日記が良ければ押して下さいまし。Myエンピツ追加