白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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2004年08月10日(火) 本を抱えて山に登れば。

本を抱えて山に登る。山の名は「オサビシ山」と言う……今日はそんな心境。

いまさらながら京極夏彦『魍魎の匣』を読んでいる。色々な人から「京極夏彦くらい読まなきゃ駄目だよ。きっと好きになるって」と言われ続けて、やっと重い腰を上げたのだれけど、ビタ一文ハマらない感じ。悪くはないがドキドキもしない。だいたいからしてミステリ音痴なので、基本的にミステリは苦手なのだ。ミステリ音痴を打破して、明るい読書人生の一歩を踏み出そうと思っていたのだけに、がっかりなことこの上ない。

何かの「私の趣味は読書です」と言ったり書いたりする時はいつも思う。なんて陰気な趣味なんだろう……と。一番の趣味が陰気なものだなんて、いただけない話だが、これほどまで身に馴染んでしまった趣味だもの。今さら、どうにも出来やしない。

もちろん読書以外にも趣味はある。アニメだの漫画だのゲームだのといったオタク趣味、芝居・映画だったり。が、しかし。ヲタク趣味や芝居・映画といった趣味は「語り合える友」が比較的多いのだ。歯に絹きせず批評したり、語り合ったりできる相手が、それなりにいるのだけれど、読書という趣味に関してはその辺の基盤がとても弱い。それを趣味としている人口比率の問題が1番かとは思うのだが、それ以外にも「何か」あるような気がしてならない。

ヲタク・映画・芝居の仲間と語る時、リアル・ネットに係わらず、互いに批判的な意見を言ったとしても「自分にとっては萌えでない」とか「自分のツボにはハマらなかった」という、超個人主義的なところに議論が収まるが、読書で同じような状況になると、不必要に、こじれてしまったり、遺恨を残すことが多いような気がする。なので、イマイチ踏み込み難いところがあるのだ。

自分自身HPで、読書録を付けているのに、掲示板を付けたり、あるいはもっと大掛かりに活動できない理由は、その辺にある。同じ読書でもミステリ畑になると、リアル友にも手練がいるのだがなぁ。自分の読むような本に関しては、熱く語れる相手に事欠いている。こんなにたくさんの本が流通しているのに語る相手に事欠くだなんて、げに不思議也。

本について熱苦しく語りいのになぁ……オサビシイ。実にオサビシイ。

ま。もっとも、痛みをともなっても語りたい覚悟がなくて、踏み込んでいけないとう事実があるだけに、文句を言えた義理ではないのだが。語り合う相手がいようが、いまいが、今後も、ぼそぼそと読み続けていくのだろうと思う。

「京極夏彦にハマれば語る相手に不自由しなさそう」なんて動機で読むってあたりが、そもそも間違っているようにも思う。とりあえず、読了しなくては……ってことで今日の日記はこれにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2003年08月10日(日) 油断できる相手。
2002年08月10日(土) 先輩風を吹かせてみたり。

白蓮 |MAILHP