白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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2004年01月06日(火) 普通というライン。

気負いばかりが先走っていて、やろうと決めたことが1つも前に進んでいない。

志と計画だけは素晴らしくても、実行が伴なわなければ、何の意味もありゃしない。一度身についた悪癖はなかなか治らないらないのだなぁ。もとい、楽な方へ、楽な方へと流されていくのは癖なのではなくて本質なのかも知れないけれど。荒療治を試みようかと思ったりもする。たとえば春まで禁日記とか、禁読書とか。禁ジャム作りとか。

だがもしかし「何かを我慢する」ということと「何かに集中して頑張る」ということは、まったく別次元の問題で、何かを我慢したからといって、何かが出来るようになるかと言えばそういう訳でもなさそうなので「禁○○」には踏み切れないでいる。精神的に自分を追い詰める事で、気持ちを高めていく効果はあるかも知れないけれど、そういう体育会系のノリは好きぢゃないので、たぶんしないだろう。

閑話休題。

最近「普通って、どういうものなのだろう」とよく考える。最近思い立ったというよりも、むしろ幼い頃から持ち続けている大きな疑問ではあるのだけれど。「普通」という言葉の定義は、あまりにも曖昧過ぎる。今、読みたい本に『負け犬の遠吠え』というエッセイがあるのだけれど(←図書館に購入希望を出すつもり)その作品の定義によると私のような人間(30代・独身・子なし)は負け犬ということらしい。勝ち組み、負け組みなんて言葉もそうだけど、勝ち負け分かれ目には「普通」というラインがあるんじゃなかろうか。

統計学的な「平均値」を普通と仮定するのか、それとも「みなが普通だと思う理想」を普通と定め、それ以外を「負け」とか「勝ち」とか「変っている」という風に定めているのか。だいたいからして他人から承認されることなのか、自ら名乗るものなのかさえ定まっていないだ。言っちゃぁなんだが、平均値測定を採用しても、理想像当てはめ方式を採用したとしても、半数以上の人は「負け」とか「変っている」とかいう駄目な方に分類されるんぢゃないかなぁ。

世の中は「普通」よりも「駄目」な人間達によって構成されている……と言っても過言ではない。

駄目な人間が、より普通に近づき、そしてその上を目指していくのが崇高なのか、それとも「駄目だっていいぢゃん」と悟りつつ、悠々と生きていくのが崇高なのか、その辺がよく分からない。どちらの道も、それなりに魅力的に思えてしまうのは私の中に、1本、筋の通った物が無いからだろうなぁ。土台がちゃんと出来ていないから、ぐらついてしまうのだと思う。

始終こんなことばかり考えている訳ぢゃないのだけれど、たまにはこういうことを書いてみるのもアリかな……ってことで、今日の日記はこれにてオシマイ。

<追記>
昼休みに日記を書きテイクアウト。自宅でネットチェック。ちょっとショックな出来事アリ。私は、どうしてこんなに雑なんだろう……と。年明けは喪中はがきがこなかったからって、親しい人に年賀状を送るという失態を犯してしまったが、今回の失敗もそれに近い。そういうことには敏感な人でありたいと思っているのに。何事も巻き戻しはきかないのだ……深く反省。


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【同月同日の過去日記】
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