白い木蓮の花の下で  

    〜逝くときは白い木蓮の花の下で〜

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引越し先 白い木蓮の花の下で


2003年04月07日(月) それでも見返りが欲しいのです。

今日はNさんの母上の告別式だった……私は行かなかったけど。
最愛の母上が焼かれて、骨になっていくのを
Nさんは、どんな気持ちで見ておられたのかと思うと哀しくてならない。

昨日のお通夜では、不覚にもNさんに釣られて大泣きしてしまった私だが
本当は人前で泣くのは大っ嫌いなんである。なのに駄目だった……
映画やお芝居でなくて、人前で泣いたのは弟の事故をきいて
電車で、1人、さめざめと泣いてしまった以来のことだ。

人は誰もが、いつか死ぬ。それは当たり前のことだし
それも「正当な順番」で死んでいく分には、哀しくても「知れている」と思うのだが
それは亡くなられた時の状況にもよるわけで。
祖母が死んだ時は大泣きしたが、父の時は哀しくもなかったし涙も出なかった。
「死の前後」が、どうあったかによって、その哀しみも違うらしい。
人の死の数だけ、哀しみの数がある……というべきだろうか。

今回は、いくら親しい人だといっても他所のお宅の話なので
詳しい事情を語るのは、憚られるので詳細は語れないのだけれど
Nさんの母上は、苦労して、だけどいつも一生懸命生きてきたタイプの人で
なのに「その報酬が、これかい!」というような事情があったので
私がNさんと親しいから、だから泣けてくる……という以前に
同じ人間として、哀しくてならなかったのだ。

悔しくて哀しい。これが現実だ。

頑張ったからって、いい人だからって、報われるとは限らない
……ってのが現実だと思う。たぶん、その通りだ。
だけど、それは理論上のことであって
感情的なところでは、それでも見返りが欲しいと思ってしまう。
頑張った分だけ、辛い思いをした分だけ、いいことをしてきた分だけ
贅沢は言わないけど、せめて「その分だけ」見返りが欲しいと思うのだ。

Nさんは今夜、眠れぬ夜を過ごされるのだろうか。
それとも泣きつかれて、寝てしまわれるのだろうか。
それを思うと、たまらない……

私は神も仏も「そんなもん、あるかい!」とて信じていない人間だけど
激務ともいえる多忙な中で、Nさんが母上の臨終に間に合ったのは奇跡的で
神様がくれた最後の優しさかも知れないなぁ……と思った。
母上は入退院を繰り返しておられたので
Nさんが仕事で居ない間に、1人で逝ってしまう……という可能性も高かったのに
ちゃんと、間に合ったのは、せめてもの救いだったのか……と。
もしも母上が1人の時に死んでしまったら
Nさんは、ご自分を、きっと責めていただろうと思うだに
そのことに関しては心から良かったと思った。

もしかしたら、一生懸命に頑張りとおしたNさんと、母上に
神様がプレゼントをくれたのかも知れない……なんてことを思った。
神様なんて、これっぽっちも信じちゃいないのに……である。

昨日は、たいそう立派なお葬式で、それが余計に哀しかった。
死んでしまってから、立派なお葬式をしたって意味がない。
やっぱ生きている間に、ちゃんと伝えるべきことを伝えて
するべきことを済ませておかなくては。

人間は、簡単に分かり合えるほど単純な生き物ではないのだから……

Nさんが早く元気になるといいな……と思う。
元気になるには、長い時間が必要だと思うけれど。
そして母上のご冥福を心からお祈りしつつ
今日の日記は、これにてオシマイ。


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【同月同日の過去日記】
2002年04月07日(日) お弁当事情。

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