Mon journal
最近はあまり頻繁に書き込みできていませんが、思ったことや日々の出来事を少しずつ書きとめています。

2004年11月21日(日) さようなら。(執筆完了)注:お葬式のお話です、注意!

これは台湾から帰ってきて一段落する時間もなく、
身内に不幸があり帰省してお葬式に出た、という内容です。




詳細を読みたい方は下へ。
知りたくない方はどうぞお戻りください。すみません。






































































































朝、私は名古屋に到着しました。

実は昨日成田に着いて、携帯を復活させてメールチェックをしたら、
父からのメールが。

文面から大体察しはつきました。

携帯の電池が底をつきそうだったので、
公衆電話で電話をかける。

予想していたとおり、
母方の祖母が亡くなったという知らせでした。

祖母は19日の朝に亡くなり、すでにお通夜は終わっていました。
お葬式は今日21日の午前11時から、と知らされました。

だからできるだけ早く帰ってきて、と。

成田に着いたのは夕方4時過ぎ、
バゲッジ・クレームなどもろもろやっていると大体1時間が経過。
それから東京あたりまで出るのに2時間。そこから自宅まで1時間。
そこから急いで準備すると、最終の新幹線には間に合う。

でも、名古屋で足止め、三重に下りていけない。

昨日じゅうに帰ることはその時点で不可能でした。

とにかく混乱しかけた頭をどうにか落ち着かせ、
まずバイト先に連絡、日曜のバイトを休ませてもらいました。

そのあと、自動車教習所に連絡。これまた教習をキャンセル。
そして日暮里まで移動しながら、
どうにかできるだけ早く実家に帰れる方法がないものか探しました。

私の携帯は電池が切れかけの状態だったので、Sらわが一生懸命探してくれました。
知り合いの方にも連絡してくれて協力していただき、探してもらいました。

でもさすがに当日出発というのが難しく、全部満席状態。
夜行列車、夜行バスもネットや携帯で調べられる分はすべて難しい状態。

家に帰って、実家に帰る準備をしながら、
パソコンでいろいろ探してみましたが、
やはり難しいようでした。
いつも帰省に使っている高速バスもキャンセル無し。
岐阜まででもいいから行けないかと探してみたけれど、
うまく見つけられませんでした。

すると、残る手立ては朝一の新幹線で帰ること。
でもそれだと、家に着くころにはお葬式が始まってしまっていることが
予想されました。

それだけはどうしても嫌でした。

お通夜に出られなかったのが本当に悲しくて情けなくて。
仕方がないことですが、
お葬式だけはちゃんと出たいと思いました。

だから、朝一でもだめなら最終の新幹線で名古屋まで行って、
朝まで時間をなんとかつぶし、
始発の在来線で実家を目指すことにしました。

その旨を電話で伝えると、
危ないからと反対されました。

私はやり場のない気持ちで、
それでもとにかく家で朝を迎えるわけには行かないと思い、
とにかくスーツを詰め込んだバッグを持って家を出ました。

とにかく新宿まで出よう。

そう思いました。あてはないけど、最悪朝一で東京を出発するにしても、
できるだけ東京に近いほうがいいし、
両親には反対されたけど、もう昨日のうちに新幹線に乗って名古屋に行き、
一晩すごしてもいいとひそかに思っていました。


新宿に出て、ふと思い出しました。
京王バス。
確か名古屋まで出ていたはずです。
でもなぜかインターネットでは昼行便しか受け付けていないのです。
これなら、夜行の当日券があるかもしれない。

そう思い、高速バスターミナルへ向かいました。

おそるおそる営業所に入り、申込書を書いてカウンターへ行くと、
なんと名古屋行きのバスに乗れることに!

よかった!
これでお葬式には間に合いそうです。
切符を購入し、親に連絡、出発までの時間を
睡眠にそなえ身支度・食事に費やしました。
成田に着いてからなんにも食べてなかったので。

身支度は…実は新宿駅近くの某ホテルで洗顔とかコンタクトの処理とか
させていただきました…。

就職活動中に面接のため入ったことがありまして…。
それが今役に立つとは。

京王グループさまさまです。

悲しくてもおなかがすくということはまだ大丈夫だと思いました。
ロッテリアで軽く食べ、ターミナルへ。

そして、23:00発名古屋行きのバスに無事乗りこみ、
翌日の今日6:00に名古屋に着きました。


6:50の近鉄で三重へ。駅弁を電車の中で食べる。
9時過ぎに最寄り駅に到着。
父は喪主のため家を離れられないので、
母の友人のMさんが迎えに来てくれた。

家まではおよそ40分弱。

車中でもそうだったが、家に着くと
会う人会う人「びっくりしたでしょう」といわれた。

もちろん驚いた。なんていったらいいのかわからないくらい。
家に着いても、まったく実感がわかなかった。

また、
「まにあってよかったね」
とも言われた。

それも本当にそうだけれど、
そういわれるたびにお通夜に出られなかったことを再認識させられた。
私はほかの人より祖母にずっと近い家族なのに、
祖母の最期をみとることができなかったんだな、と改めて思った。

家はお葬式の準備であわただしく、
あまり会ったことのないおじさんおばさんや、
おじいさんおばあさんがリビングやダイニングにいた。
おそらく親戚の方々。

両親の友人の方たちもお手伝いに来てくださっていた。

祖母の部屋はいつのまにかがらんとしていた。
今度は祖母が旅行に行ってしまったみたいだった。

お通夜ではもちろん納棺があって、それまではまだ祖母の肉体は
存在していたのに、
私はそれをすっとばしてしまって、今日やっと帰ってきたので、
本当にぱっと消えていなくなってしまったみたいに感じられて、
それが逆に、祖母の死を私は一人だけ軽く感じてしまっているような
気がした。

母は気丈に、黒い着物を着てあちこち動き回っていた。


母にとって、祖母はたった一人の肉親だった。
母はこの世でもうひとりぼっちになってしまったのだった。
もちろん私たちがいるけれど、
たった一人の肉親である母を亡くした娘の気持ちは
いかばかりだっただろうか。想像もつかない。

私が母だったら、つらくてあんなに動けないかもしれない。
まして母は私と母が一緒に生きてきた時間の倍以上を
祖母と生きたのだから、思い出や絆の深さが違うと思う。


父は、私の気持ちを察してか、
「ばあちゃんが台湾に行かせてくれたんやよ。
これが台湾行く前やったら、行くどころやなかったやろ。
旅行行けんくなっとったや。
ばあちゃん、きみが出発するまでよう頑張っとたんやわ。
連絡も取れんでよかった。向こうで知っても、すぐに帰ってこれへんし、
楽しめんかったやろに。」

私は、
「本当そうやね。…そう思うようにするわ。」

とだけ言った。

実際、台湾は周りのみんなのおかげで、本当に楽しかった。
一生忘れられない思い出になった。
向こうで訃報を聞いていたら、
この楽しさはなかっただろう。それは確かだった。

時間は戻せないからこそ、もっとポジティブに、
気持ちを強く持たなければと思った。
まだ、祖母がもういないという実感が持てないままながら。


11:00前に家を出て、列を作り、歩いて寺院へ向かう。
家を出るところから参加でき、
昨日夜行バスに乗れて、本当によかったと思った。

寺院では葬儀の準備ができていた。
親戚はじめ、両親の友人のかたがたが受付などをしてくれていた。
申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

私は一体なにをしていたのか、と思わずにいられなかった。


葬儀が始まった。


長い長い念仏。
祖母の写真。

いまだに信じられなかった。
あまり写真を撮った記憶がないのに
いつのものなのだろうか、
祭壇に飾られた祖母の写真は、どこか余所行きの格好をしていて、
私が教育実習で9月に帰省したときに見た最後の祖母とは
少し違う、ふっくらとした顔をしていた。


念仏が終わり、焼香が始まる。

実はこれが物心ついてから初めてのお葬式だった。
父方の祖父が亡くなったのは私が3歳の時で、
ほとんど覚えていない。

おそらくこんなに長く正座をするのは初めてだった。
そのため、合図に従い立ち上がって焼香をしようと祭壇の方へ2,3歩
歩いたところで転んでしまった。

自分では動かしたつもりだったが、しびれて感覚がなく、
実際は動いてなかった。

かかとではなくつま先から着地していた。
それでドタっと転んでしまったのだった。

足は痛いし恥ずかしいし情けないしで
気持ちはぐちゃぐちゃになった。

なんとか焼香を終えて席に戻った。

そのあとまた念仏を聞くのだが、

転んだせいで情けなくてなのか
張り詰めていた気持ちがほどけたからなのか、
祭壇を見つめていると
涙がこぼれてきた。

どちらかというと
情けなかったからだと思う。

遅れて帰ってきたくせに、
焼香も満足にできない自分に腹がたったし、
両親が共働きだったため、祖母に半分育ててもらったようなものなのに、
こんな孫でごめんなさい、と思ったからだ。


それが終わり、
墓地に車で向かう。


お骨を埋葬する。
私にとっては、その白い布に包まれた箱のなかに
祖母が入っているとは思えなかった。

私は何も見ていないから。

また寺院にもどり、念仏。

ずっと聞いていると、
何かの効果がやはりあるのだろうか、
こんどは情けなさとかではなく、
本当に悲しさで涙が出てきた。

多分、実感がなかったままでも、
お骨を埋葬したのを見て、
祖母が本当に亡くなったことが
やっと実感できるようになったからだろう。

納棺を見たかった。
そしてしっかりと目に焼き付けたかった。


でも、あのときの私にできる精一杯をやって、
お葬式に最初から参加できたことが、私にとっての救いだった。

そのあと、みんなでご飯を食べる。

このご飯は、親戚や両親の友人の女性8人くらいが作ってくれる。
3、40人前くらいの炊き込みご飯やうなぎご飯などだ。

親戚のおばさんが、
「気をしっかりもって、はよう立ちなおらなあかんよ。」
と笑顔で抱きしめてくれた。

言葉が温かすぎて、涙が出そうになって困った。

そのあと、私も片付けに参加してお皿を洗ったり拭いたりしていた。
ほかの女性の方々は、何度かこういうことを経験している方ばかりで、
私だけ何も知らなくて、
肩身の狭い思いだった。

家族が亡くなっても、こうやってすぐに動き回らなくてはいけないことを
初めて知った。
母はすごいな、と思った。
もちろん母は念仏の時などに涙ぐんでいた。

これは想像でしかないけど、きっと、私が見ていなかったところで
たくさん泣いたのではないかと思う。
でも私が見ているかぎり、母は私を慰めもしてくれた。
自分の母親が亡くなったというのに、自分のことよりも
自分の娘を気遣って慰めることができる母を、
私は尊敬する。


しかし、片付けに追われて体を忙しく動かしていると、
悲しむ暇がなくて、ある意味良かった。

同時に、お葬式というのは
本当にたくさんの方の協力によって成り立つものなのだと
いうことを知った。
たくさんの方に助けられてはじめて、できるものなんだとわかった。

私は何も知らなかった。何もわからなかった。

お葬式のことなんてこんなん知らんほうがええんや、
それだけ近くの人が死んだってことなんやから、
と父は言ったけれど、

私は祖母のお葬式で多くのことを学んだ。

知っておく必要はなかったけれど、
学び取ることができた。
祖母に教えてもらったということにした。

夜もご馳走を食べる。


父が、喪主あいさつをした。

父にとって祖母は義理の母であったが、
母と結婚してしばらくしないうちに、
母のたった一人である肉親である祖母と同居し始めたと聞いている。


父のあいさつはとても立派だった。

こんなばたばたしているなかで、一体いつ考えたんだろうというくらい、
すばらしいスピーチだった。

こういうときに、男の人の真価が問われるのかもしれない。
私は、母は本当にいい人にめぐり会ったんだなぁと思った。
私は父の娘でよかったと思った。
父をとても誇りに思う。

母がうらやましいとも思った。
私もこんな人と結婚したい、と思うくらい、
父は堂々としており、喪主としての務めを見事に果たしたと思う。

家に母とスクーターに二人乗りで帰ったとき、
「お母さん、本当にいい人と結婚したね」
と言った。
心からそう思った。


さすがにスピーチの席ではないが、
家に帰って内輪のものだけで飲んでいるとき、
父が母のことについて、
「もうこの世で独りぼっちになってしまったんやから、
しっかり守っていかなあかんなと思うよ」
と言ったときは、聞いていて照れくさかったが泣きそうになった。

もちろんお酒が入っているから言えることだろうし、
そうでなければ母もいるまえでそんなこと言えないと思うけど、
そう言われた母はどんなにか心強く嬉しく思っただろうか、と思う。



実習が終わって東京に帰るとき、
「じゃあまたお正月に会おな。」
と祖母が痩せた体ながらも元気に言っていたのを思い出す。

祖母は、逝くには少し早かったと思う。
あと3ヶ月で弟の成人姿を見せられたし、
あと半年で私は社会人として三重に帰ってこられた。

そしていつかわからないけど、
こんなまったく予定にないことを言うのも変だけれど、
結婚式の晴れ姿も見てもらいたかった。
もしかしたらその先も見せてあげられたかもしれないのに。

考えればきりがないけれど、

父が言ったように、
祖母は天国で、14才という若さで逝ってしまったという叔母さんと
やっと再会して、幸せに過ごしているはずだ。そうであってほしいと思う。

おばあちゃん、会えるのはもうちょっと先になるけど、またね。










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