| 2005年03月30日(水) |
秦 河 勝 連載42 |
このような謀議があって駒の手によって天皇は殺された。秦河勝はこの儀式に天皇を警護する役割で陪席していたが、瞬時の出来事であった。河勝が異変に気づき、駒を取り押さえようと倒れた天皇の側へ駆けつけたときには一足早く、駒は戸外へ飛び出し待たせてあった馬に乗って逃げ去ってしまった。 群臣の面前で天皇を殺害したことは蘇我馬子の権力と威厳を示すのに役だった。天皇の遺体は殯宮が営まれることもなく即日倉梯岡陵に葬られた。この時代の天皇で殯宮も営まれずその日のうちに葬られた例はないから庶人並の扱いを受けた存在感のない惨めな天皇であったといえよう。 崇竣天皇暗殺の衝撃は大きかった。秦河勝のうけた衝撃もまた大きかった。 天皇の護衛につけた駒が天皇を弑逆するとは考えてもみなかったことである。 群臣達の間からも駒を処罰すべしとの声が高まった。流石の独裁者蘇我馬子も群臣の面前で天皇を暗殺した駒を庇うことはできなかった。駒を天皇暗殺の下手人として糾弾しさらに、その妃を盗んで妻としたことを臣下としてあるまじき行為だと宣言して兵を差し向け駒を殺させた。駒を処刑したことで日本史にも稀にしか例のない天皇暗殺の責任は首謀者である馬子に対して問われることもなくうやむやのうちに不問にふされることになってしまった。 この事件のため任那への外征は中止となったが、馬子は筑紫に派遣されていた将軍達に急使を派遣し、内乱のために外事を怠るなと言って動揺を静めた。 二万の軍隊は筑紫に滞留したままで推古朝を迎え595 年(推古3年)に大和へひきあげることになる。 崇竣天皇が暗殺された現場に居合わせた河勝は蘇我馬子の凄腕を思いしらされた。
天皇から馬子謀殺の謎をかけられたとき、冷静に逃げたことは一族存続の為にも賢明な対応であったと秘かに胸をなで下ろした。猪を献上したとき 天皇の暗示にうっかり乗って馬子に立ち向かっていたらいまごろは命がなかったであろうと冷や汗をかくのであった。駒の軍団を警護に派遣したのは賢明な判断であつたと思った。駒が犠牲になって蘇我氏対秦氏の紛争を未然に防止することになったのである。
それにしても天皇を弑逆することを思いつくとはとんでもない悪玉だといまさらのように馬子の悪辣暴虐振りに思いを致すのであった。 同時に彼の心従する厩戸皇子にも皇位継承のチャンスが到来したと秘かに喜んだが即位の時期が問題であると読んでいた。
|