前潟都窪の日記

2005年03月21日(月) 秦   河 勝 連載34

物情騒然となってきた中で物部守屋側には物部一族の他に大市造・漆部造の一部等が加わってきた。一方蘇我馬子側には大伴比羅夫が手に弓矢と皮楯を持って馬子の身辺警護にあたった。このように緊迫した状況の中で、用明天皇の病気は進み豊国法師らの懸命な治療と祈祷の甲斐もなく587 年(用明2年)4月に崩御した。天然痘の業病であったので早々に磐余池上陵に葬られた。

次の天皇は用明天皇の甥であり皇太子である押坂彦人皇子が有力であった。

しかし皇室に関しては兄弟相続が過去にも例が多かったので、堅塩媛系の用明天皇の次は小姉君系の皇子を支持する氏族も多かった。この空気を察して守屋は小姉君系の穴穂部皇子を擁立して即位させよう調したのが宣化天皇の子の宅部皇子であった。ここにまた堅塩媛系と小姉君系との争いが始まったのである。

この動きに同調したのが宣化天皇の子の宅部皇子であった。ここにまた、堅塩媛系と小姉君系との争いが始まったのである。

蘇我馬子が物部守屋に勝って権勢を保持するためには、崇仏の念の強い姪の炊屋姫に取り入って穴穂部皇子の失脚を狙わなければならなかった。その妙案が穴穂部皇子の同母弟にあたる泊瀬部皇子を皇位継承者として擁立し小姉君系の結束を揺さぶり、分裂させることであった。

「皇太后には兄上の先帝がお隠れになってお寂しゅうございましょう。心よりお悔やみ申し上げます。ところで穴穂部皇子が皇位継承者として大連物部守屋と共謀し兵を集めているのをご存じでしょうか」と大臣の蘇我馬子が眠ったような顔をして言った。

「聞いています。またあのづうづうしい皇子が性懲りもなく画策しているのですか。宅部皇子までが同調しているというではありませんか、困ったものです。竹田皇子はまだ幼少で帝には無理だろうし、厩戸皇子も聡明とはいえこちらも幼すぎるし」と炊屋姫が言う。

「そこでございます。あの目立ちたがり屋で、粗野な穴穂部皇子が天皇になれば、後は小姉君系の皇子に皇位は盥回しされて、竹田皇子や厩戸皇子が成人されてもそのチャンスは失せるでしょう」と馬子が唆す。

「何か良い方策はないものでしょうか」と炊屋姫
「私に妙案があります」と馬子
「是非聞きたいですね」
「穴穂部皇子と宅部皇子討伐の詔勅を下して戴くことです」
「理由は」

「皇太后に対して不敬の振る舞いがあったということと、先帝の寵臣三輪逆を物部守屋に命じて殺害させたということで十分でしょう」
「それでは、次の天皇は誰にするのですか」
「泊瀬部皇子です」
「小姉君の皇子ではありませんか」
「竹田皇子や厩戸皇子が大きくなられたときのためです」
「厩戸皇子は小姉君系でしょう」と炊屋姫

「いかにも、しかし同時に堅塩媛系でもあります」
「判りました。用命天皇が亡くなられて、穴穂部間人皇后はまだお若いのにお気の毒です。多目皇子の妃として輿入れさせようではないですか」と炊屋姫が澄ました顔で言った。心の中では美貌の誉れ高い穴穂部間人皇后にこれで辛い思いを味わわせることができるのは痛快なことだと思っていた。
「少し残酷ではないでしょうか。多目皇子は穴穂部間人皇后の義理の子にあたられるのですよ」と馬子

「多目皇子は亡き用明帝にそっくりの顔形をしておいでです、穴穂部間人皇后の寂しさを紛らわすのには良い考えだと思いますわ」

「成るほど。厩戸皇子が成人した時の用心のため、皇太后としての力を蓄えておかれるおつもりですな。穴穂部間人皇后には私から話しましょう、その代わり穴穂部皇子と宅部皇子討伐の詔勅は戴けるのでしょうな」

「そうしましょう」
 


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