前潟都窪の日記

2005年02月27日(日) 秦   河 勝 連載12

「秦の酒の公は、秦造として部民を統率して米や織物を沢山造り、天皇に貢ぎ物を沢山奉りたいのだが、情けないことに秦人はあちこちに分散してしまい、諸豪族の配下に入ってしまっている。そのため秦造としての職責を十分はたすことができない。情けないことです。どうか諸豪族の許へ散らばっている秦人を私の管理の許に戻して下さい。それが私が願う御褒美ですと訴えられたのじゃ。天皇がこれをお認めになり、調べてみたら秦一族は全国に約百八十の勝部(すぐりべ)を作って村主(すぐり)になっていたそうじゃ」

「一族が戻ってきたということですか」

「そうじゃ、秦造の管理下に戻ったということじゃ。天皇の好意に感激した秦造の酒の公は秦造の管理下に戻ってきた部民を督励して、絹を織り朝廷に献上したところ、庭にうずたかく絹が積まれたそうじゃ。天皇は秦の酒の公の忠義な心を喜ばれて酒の君に太秦という姓をあたえられたのじゃ。それ以来、葛野の地のことを太秦(うずまさ)と呼ぶようになったのじゃ。」

「全国に散らばっていた秦人が纏まったということですか」

「その通りじゃ。住まいこそ各地に別れてはいるが、一族の長である秦酒公を中心に置いて精神的な絆で結ばれるようになったのじゃ。産業が次第に発達して、人も増え機織りの部を増やさなければならない状況がでてきたということもあったのだが、この変化を素早く捉えて天皇に訴えでた酒の公は一族の長としては適切な措置をとったことになるのだよ。一族が離散する原因となったのは蚕の神様と酒造りの神様を同じお社にお祭りしたから祟りがあったのだという反省もあって、この頃秦忌寸都理という御先祖様が松尾神社を建てて酒造りの神様だけを専属でお祭りするようになったのだよ」


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