倭人の稲は北九州の地へ渡来し栽培されしかも品種は短粒米(ジャポニカ)であったことが、福岡県夜臼遺跡や板付遺跡の発掘で判ってきている。 倭人達は稲作だけでなく、漁労の技術にもたけていた。歴史上に初めて登場する日本人は「倭人」と呼ばれている。魏史倭人伝(西暦220 〜280 年三国時代の魏の国の歴史書に書かれた倭人の条のこと)によれば「禾稲(水稲のこと)を植え」「船に乗って交易を行い」、「漁業に従い」、「水に潜って魚を手づかみしたり、貝を採ったりすることが上手で」、「皆黥面文身(いれずみのこと)」していたと記されている。また越南(今のベトナムの辺り)で越人が住んだ地帯には入れ墨をする風習があったことが知られている。このことからも越人が北へ移動して、朝鮮南部や九州に至って植民地を作りだした頃倭人と呼ばれだしたと言えるのではなかろうか。
倭人は朝鮮半島にも住んでいたが、九州にも住んでおり、その間を船で往来し交易や漁労にあたっていたのも倭人であったと考えられる。
初めて大陸に統一国家を作った秦の始皇帝(西暦BC221 〜210 )が滅んで漢民族が覇権を握ると、秦人達は追われてその一部は朝鮮半島へ逃げて定住するようになった。朝鮮半島は大陸からみれば辺境の地であり未開の野蛮な国であった。
秦人達は当時朝鮮半島で活躍していた倭人から稲の栽培方法を学び、持ち前の 秀でた農耕技術でこれを改良し水田耕作を可能にしていったのである。彼らは鉄を使う技術をもっていたから鉄の原料を産出する朝鮮半島は鋤や鍬を作り稲の水田耕作を発展させるには好都合の条件を備えていたといえよう。
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