日本列島に米が渡来したのは2,200 年程前だとみられている。秦河勝が生まれた頃から数えれば約770 年程昔のことである。米は倭人が日本列島にもたらしたものであることが考古学・歴史学・民俗学・比較人類学等の研究の成果としてほぼ証明されている。
そもそも倭人とはどのような人種であり、日本の経済及び文化の基礎となった米と倭人とはどういう関わりを持ったのかということを辿ってみれば、秦河勝の先祖である秦人とその子孫である秦一族が日本の農耕技術・養蚕技術・土木技術・手工業技術に秀でたものを持っており、祭祀に重きをおく氏族であって、古代大和国家の繁栄に多大の貢献をした氏族であることが理解できるであろう。
米の原種は大きく分ければ、四種類位に分けられるが、アジアでつくられるのはこのうちの長粒米(インディカ)と短粒米(ジャポニカ)との二種類である。同じ米であってもこの長粒米と短粒米とでは、人間と猿くらいの違いがある。即ち長粒米と短粒米とをかけあわせても、穂はできるけれども実ができない。つまり染色体の数が基本的に違っているからである。この長粒米と短粒米の原種の分布を調べてみると、氾濫原では長粒米しかなく、河岸段丘の上で作られていた米は殆どが短粒米であった。長粒米の発祥の地はガンジス河流域のような氾濫原であり、短粒米の発祥の地はヒマラヤ山系の谷々のような棚田である。棚田とは水を溜めれば湿田となり水を落とせば乾く田のことである。
ヒマラヤの山奥の谷間に発生した短粒米は、だんだん谷を下りて揚子江へ至り、南の流域一帯及びその支流あるいは広東から西へはいっていく西江の辺りが大きな短粒米の稲作地帯となったのである。この地帯は古くは百越の国といわれていた。越の国の人々即ち越人達が稲作技術を進化させた頃、黄河流域には殷や周のような強い国家ができて勢力を増していったが、彼らは畑作の産物を食料とした。越人達は中央の強い国の文化を求めて次第に移動して揚子江や淮河の流域に村を作った。さらに北上して山東のあたりを経て陸路は朝鮮半島に至り、海路は日本の九州にまで至って町を作った。米作技術をもって朝鮮半島南部や日本にまで渡来した越人はいつの頃からか倭人と呼ばれるようになっていた。
|