前潟都窪の日記

2004年12月31日(金) 父の死��

「都窪さん、この度は、大変なことになりまして、何ともうしあげたらよいのかお慰めの言葉も見つかりません。お疲れでしょうが、早速、お父さんのマンションへご案内しましょう」
「待機させていた車へ案内されて、父の遺体の待つマンションへ外村さんと急行した。
「都窪工場長は、昨日までお元気に仕事をされていたのに、急にお気の毒な姿になってしまわれました。会社が決算期なので、毎日遅くまで仕事をされていたんですよ。昨日昼過ぎに、気分が悪くなったからマンションへ帰って休養すると仰って退社されました。私達も仕事が終わって、秘書の福山さんと製造の玉城君と私の三人でお見舞いに行ったんですよ。6時半から8時頃までお邪魔していたんですが、もうすっかり気分もよくなったと仰って、顔色もよく、元気な様子でした。その日は日曜なので、いつもだとお孫さん達に会いに岡山へ帰っておられる筈だったんですが、決算のため、私達と一緒に出勤されたんです。会社の運営の仕方、将来の姿等について楽しく話し合いました。そのとき工場長はいつになくこんなことを言われました」

 外村さんは感慨深げにしんみりとした口調で続けた。
「私も20年間この会社にお世話になって、ボロ工場だったこの工場をこれだけのものに育ててきた。念願の事務所も新築できたし、工場設備の自動制御化も完成した。もう思い残すことはないよ。あとは、若い君達がこの工場を発展させてくれるのを楽しみにしているよ。来年あたり、暇を貰って岡山へ帰り絵を描いたり、魚釣りをしたりしながら余生を婆さんと二人で楽しもうかと思っているんだ。と、こう工場長が仰るものですから、私達は工場長にはもっと長く居て戴いて、私達を鍛えてくださらなければ困りますよと申し上げたんですが、それが最後のお言葉となってしまいました。工場長はお気分もすっかりよくなられたようですから、あまり長居してはいけないと思って8時過ぎにはお暇したんです。ところが、秘書の福山さんが自宅へ9時過ぎに帰ったところ、工場長からとても気分が悪いから一寸来て欲しいという電話があったということです。福山さんは、工場長のお宅から一番近い所に住んでいるので、電話をかけられたのでしょう。福山さんは電話の声が異様なのでタクシーを拾い工場長の所へ駆けつけたところ、いつもは電話台の上に置いてある受話器が枕元に降ろしてあったということです。工場長は布団の上で横を向いておられたそうです。福山さんが名前を呼んでも返事をされないので、眠っておられるのかと思い、体を揺すってみたそうです。答えがないので脈をとってみると体温はあるのに脈がなかったそうです。動転した福山さんが岡山の奥様へ電話を入れ、救急車を呼んで病院へお連れしたのですが、病院へ着いたときには既に手遅れだったようです。病院へ着くか着かないうちに他界されてしまいました。10時45分に急性心不全で亡くなられたというのが病院の医師の診断です」

 外村さんは会社草創の頃、学校を卒業して直ぐ入社し、父と苦労を共にしてきた社歴の古い技術者である。副工場長として父の信頼を受けていた部下だけに父の他界前後の様子を詳しく話してくれた。

 父のマンションには既に明け方近く、岡山から駆けつけた母と妹の幸子、京子が目を真っ赤に泣き腫らして父の遺体の傍に座っていた。顔のガーゼをとると懐かしい父の顔が今は物言わぬ一つの物体として永遠の眠りについていた。安らかな死に顔であった。苦しんだ様子が顔に窺われないのが、父の死に目に会えなかった私にとって唯一の慰めであった。


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