前潟都窪の日記

2004年12月10日(金) 真菰刈り、元抜き、毛取り、木工��

 ▼真菰狩り、元抜き、毛取り、木工
 岡山県南の早島町は戦前から畳表の産地として有名であった。農家では藺草を栽培し農閑期には副業として織機で畳表を織っていた。藺草の栽培は暮れ12月の寒い時期に植えつけ、夏土用のころ刈り入れるため農作業としては最も過酷な条件下で行われる重労働であった。そして藺草はその年の作付け面積と天候に値段が左右される市況商品であった。この農家で生産した藺草や畳表を買い集めては、織機工場や畳問屋へ持ち込んで口銭稼ぎをする仲買人のことを鳶(トンビ)と言っていた。

 昭和20年の冬には敗戦直後の混乱の中で農家は保有米を少しでも多く確保すめため、米作に力を入れており藺草の作付けは極めて少なかった。昭和21年の冬の藺草の作付け面積をどうするかの判断は難しかった。戦後の復興建設がやがて始まると読んだ目端のきく農家は政府の制肘を受けない藺草を自己の責任で多く植えて結果的には大儲けした。しかし大半の農家は食糧管理法の統制下で米作に力を入れていた。

 空襲で焼け野原となった都会地にそろそろ住居が建設されだした昭和22年の春には畳表の需要が旺盛に出始めたが、在庫が払底していて価格が高騰した。その年の藺草の収穫にはまだ早い6月頃、灌漑用の川に真弧が青々と繁っていた。これを刈りとって試しに畳表を織って代用品として売った鳶がいた。これが値が安いこともあって飛ぶように売れた。そこでこの智恵者の鳶は、小学生や中学生を集めて真弧を刈らせ、天日干ししたものを買い上げた。

 子供達は小遣い稼ぎに競って真弧を刈り道路へ干して乾燥したものをこの鳶へ持ち込んだ。真弧刈りは岸辺から手の届く範囲のものしか刈ることができないので、刈り残した川中のものは川舟を浮かべて舟の上から刈り取った。乾燥した製品は目方で鳶が買い上げてくれたが、値段がいくらであったかは思い出せない。しかし、干し上がった真弧の匂いは懐かしく今でも思い出すことができる。この真弧刈りのアルバイトはその年限りの一ケ月程の短い期間のものであった。翌年からは作付け面積が極端に増えて藺草が暴落したからである。


 < 過去  INDEX  未来 >


前潟都窪 [MAIL]

My追加