| 2004年11月17日(水) |
米軍管理下の難民収容所�� |
また、母は勇の細君にも晩年、何も財産らしいものは残せなかったが、3人の幼子を誰一人欠けることなく日本へ連れて帰って来たことが母の誇りであるし母の無形の財産であると語ったということである。
開城のテント村から仁川のテント村への移動も米軍のジープとトラックで行われた。威嚇射撃をしたり、賄賂を要求する「ロ助」と比較すれば、さらに七日間の徒歩による逃避行のことを思えば、乗り物に乗せて内地へ確実に一歩ずつ近付けて呉れる米軍はまさに地獄に仏の存在であった。開城から仁川へ向かうトラックを運転していた兵士は黒人で、チューインガムをむしゃむしゃ噛んでいる唇の合間に見える白い歯が、非常に印象的であった。また仁川のキャンプ村へ近付いたとき、通り抜けた茶色い切り通しの崖のうえに仰いだ、雲一つない青空は勇の人生の中で感じた最も美しい色の一つであった。港の海面も太陽に眩しいばかりに輝いており、紺碧の色は苦難を乗り越えて、父祖の国へ確実に近付いている引き揚げ者の明るい気持ちを象徴しているようであった。
仁川でもまずDDTの洗礼を受けてからテント村へ入った。ここでは三日間の短い日数であったから、記憶に残る思い出はない。
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