| 2004年08月14日(土) |
【還暦クルーズのハワイ出漕記・・アメリカ� � |
アメリカの旅2 ハワイ 1997年12月23日〜1998年1月4日
平成9年12月23日(火) 天皇誕生日で祝日。会社を卒業してからは毎日が日曜日なので、祝日の有り難さがピンとこない。
いよいよ明日からハワイ遠征である。携行品に若干不足するものがあるので家内と綱島へ買い物に出掛けた。毎日一万歩以上歩くことを日課として実行してきたが昨日京都から帰ってきたばかりで、まだ今日の日課をこなしていないので昼時にもかかわらず、腹があまり空いていない。しかし規則正しい生活を心掛けているので、昼飯を抜くことも主義に反する。なかば義務感に命ぜられて、大王ラ−メンに寄り味噌ラ−メンを食べる。われわれの世代には育ち盛りに食料不足で難儀をした情けない体験が脳裏に奥深くインプットされているので食べることには貪欲で意地汚いところがある。きちんと三食食べておかなければという意識が本能的に働くのであろう。そのため飽食の時代にあってはついつい食べすぎてしまい血糖値を心配しなければならないという羽目に陥るのである。
この後、本屋でハワイについてのガイドブックを買った。京都へ置きわすれてきてしまったので二冊目になってしまった。出版社がダブラナイように昭文社のものにした。あとサングラス、緩下剤、風邪薬、日焼け止めクリ−ム、フイルム6本を買った。娘の志奈が卒論の提出期限を控えて神経過敏になっているが、それでも婿と一緒に家内と飼い猫とうち揃って壮行会を夕食時にやってくれた。もう一度手荷物の点検をして下着や上着類を出したり入れたりした。アロハシャツが正装の国と聞いているのでス−ツは不用かとも思うが、公式行事のときに背広がなくて困るのも癪なので紺のス−ツを着ていくことにした。紺であればスク−ルカラ−でもあるから無難であろう。セ−タ−はス−ツに合わせて淡い水色のものである。当日寒ければ、薄手のダスタ−コ−トを羽織って行き、空港で携行品のなかにつっこむしかないだろう。旅なれた人は外套を着ていき空港内の貸しロッカ−へ預けたままにしておいて、帰国したとき期限超過で領置されているのを反則料金を支払って返して貰い平然としているとも聞いたが、私の規範意識はそれを許さない。要領が悪いのは生来のものだから致し方のないところだ。
志奈から贈られた水彩絵具にもなる色鉛筆セットも荷物に加えた。M先輩の画集に触発されて旅先の思い出を絵にかきとめておき、俳句でも書きそえておけばいい記念になるだろうという考えからである。
ビデオカメラを持っていくには家内と論争があった。家内は旅先まで重いものを持ち運ぶ人の気が知れないと言い、景観は自分の目で直接見、脳髄に焼き付けておいてこそ時間の経過とともにその景観は美化されるし、レンズというフイルタ−を通して見るより真実が見えるというのである。それも一理だと思う。が私には記録をビデオに残しておいて、これを編集してみるのも楽しかろうし、絵の題材として蓄えておいて、後日、場面を再現し、当時を追体験しながら絵筆をとる楽しみのためだという主張があるのである。そんなわけで、わが家には夫婦旅行の時にはビデオカメラを携行しないという黙契がある。しかし今回の旅にはビデオ撮影蔑視論者が不在なので、ビデオ撮影という楽しみが倍加されることになるであろう。それにしても荷物を出したり入れたり、まるで幼児の遠足前夜のようなものだ。 平成9年12月24日(水) Hさんと午後4時31分発の成田エキスプレス35号に乗るため、横浜駅で待ち合わせしているので3時半に自宅を出る。家内に車で鶴見駅まで送って貰うことにしていたが、ひどく道路が渋滞しているので、なかなか鶴見駅へ到着できない。たまりかねて水泳教室の前あたりで降りて鶴見駅まで歩いた。
横浜駅へは既に団長のHさんが来ていた。Hさんは夏服のカジュアルな背広姿でコ−トなしで襟巻きをしていた。冬支度の自分の服装のことを思い失敗だったかなとの思いが頭の中をかけめぐる。予め入手しておいた成田エキスプレスの切符を手渡し代金4180円を受け取る。成田までの道中、ハワイ遠征実現に至るまでのHさんはじめ関係各位の苦労話を拝聴した。
思い出してみれば、入学して間もなく端艇部に入部し、学部対抗レ−スが終わるまでは石山の合宿所に寝泊まりし、皆さんと一緒にランニングしたりバック台で汗を流したりして、真面目に練習に精出していたと思う。その後エッセン・マネ−ジャ−という役割を貰いながら、アルバイトや勉強にかこつけて何時しか部活動から遠のいていた。そして卒業、就職とボ−トとは関係のない生活が三十年ばかり続いた。そんな私がY寮の寮生でありまた端艇部の部員でもあったN・K彦君のあまりにも早すぎた逝去の報に接し、通夜の席へ駆けつけたのである。その席で昔懐かしい面々に再会したのが私とボ−トとの復縁であった。短い期間ではあったが、半年ほどはボ−ト部に在籍して練習をした事実があるのだから、私も仲間に入れて欲しいと懇願したところ、気持ち良く認めて頂き、飲み会や濃青会の会合に参加できるようになった。その後、T大戦にOBも出場しようではないかという話が持ち上がった。戸田で始まった第一回目の対T大OBレ−スでは、練習豊富なT大に惨敗。この時は応援に駆けつけて声を限りに声援した。人数が足りないから、お前も漕げと言われていたが漕ぐ自信がなかったので辞退した。なにしろ学生時代には専らフィックスで練習し、エイトには三回ほどしか乗った経験がなかったのだから。
初めてのT大OB戦に惨敗したことがN氏、H氏の両氏を始めとするOBの負けじ魂に火をつけた。第二回目の瀬田川におけるT大戦を目標にして関東在住のOBが鶴見川に月一回集まって練習を開始したのである。この練習に私も参加して漕がして貰った。なにしろ還暦近い年の素人が歴戦の元名選手達に伍してエイトを漕ごうというのだから考えてみれば無茶な話である。しかし、この無謀な申し出に嫌な顔をせずに受け入れ、親切に指導してくれるのが抱擁力の大きい我が漕友達の良いところである。イロハのイの字から教えなければならない遅れてきたボ−ト部員である小生と一緒に漕いだ諸兄のいらいらと苦労が手にとるように私にはよく判る。ボ−トへ乗るときの足の置き場、バランスをとる時のオ−ルの支え方といった基礎の基礎から教えなければならない漕友諸兄の寛大な友情に感謝するところ大である。御陰で二回目対T大OB戦でも三回目T大OB戦でも漕がして貰えることができた。そして今、ハワイ遠征チ−ムに加わってホノルルのアラワイ運河でボ−トを漕ぐべく日本を飛び立とうとしているのである。まさに楽しきかな我が人生の一語に尽きる。
飛行機はインタ−コンチネンタル・ミクロネシア航空の908便で19時50分発であるが、集合時刻の17時50分には成田エキスプレスの到着時間の関係で7分遅れることになっている。第二空港ビルで下車してミクロネシア航空のカウンタ−は簡単にみつけることが出来たが、色々なツア−があって紛らわしい。年末年始を日本から脱出して海外で過ごそうという人達で空港はごったがえしている。ホノルル行きオンリ−という窓口で並びやっと順番がきて、持参した案内書を見せるとアミュ−ズツワ−はこの窓口ではなくて4〜5個左の窓口だという。言われてみると成る程、アミュ−ズツァ−という張り紙をした窓口が別にあった。おなじ航空会社のハワイ行きでも何種類も窓口があるのだから紛らわしいことこの上もない。思わぬところで無駄な時間を費やしてしまった。我々二人が最後の搭乗者らしいことがすぐわかった。チェックインが始まっているから至急出国手続きをしてくれと我々を待ちかねていた係員が慌ただしい口調で言う。釣られて多少慌て気味に小走りになる。出国手続きを終えて免税売店で日本酒を二本買った。月桂冠と白鹿である。代金は各1900円である。多少免税分だけは安い筈だ。今は免税の酒もそれほど安いという感覚がなくなった。ひと昔前は台湾へ行くのに、高級な酒は台湾にはないというので羽田空港で免税のコニャックや香水を限度一杯買って機内に持ち込み、ボンドと称して台湾空港預けにしておいて帰国するとき再び持ち帰るなどという馬鹿らしいことをしたのが嘘のように思いだされる。当時に比べ、それだけ国際化が進展したということだろうか。
搭乗してから無事離陸するまではいつものことながら落ち着かない。離陸して水平飛行に移ってはじめてほっとする。
機中で寝ようとつとめるが二時間ほどうたたねをしただけである。機内食には御飯付のシ−フ−ドを選択したが貝の白ソ−ス和えであった。量は少なかったがスコッチを貰って飲みながら食べると美味しく感じた。ま、味は良いほうだろう。機中時間は約七時間で二回目の軽食を食べたら間もなくホノルル空港に到着した。現地時間7時5分に着陸した。 入国審査のゲ−トにはH氏が私より先に入ったが何故か手間どっている。審査官は若いハ−フの黒人女性だが緑色の標識を掲示して通訳の応援を求めたようである。目の前でやりとりしているのだが、距離があるので何を話しているのかはよく聞き取れない。だが途切れ途切れに聞こえてくる単語にマヒヤと聞こえる。どうもマヒヤと疑われたらしく時間がかかっていたが通訳が来てやっと解放された。後で聞いてみると入れ墨はあるかとか手の指に欠損はないかということをしきりに聞かれたという。何年会社に勤めたかというので35年勤めたと答えたら、そんなに長くかとびっくりした表情になってパスしたということであった。
空港をでたところで後発隊のS氏、K氏、O氏等三人の到着を待つ。彼らはユナイテッド航空である。彼らが到着してからほどなく学生陣15名が到着した。オ−ルは関西空港から積み込んだということであったが、これも同時に着いていた。
学生達は無愛想で無口である。親の躾が出来ていないのか、或いは先輩達が教えないのか我々が迎えに出ているのに、只今到着しましたともお出迎え有り難うございますとの挨拶もない。流石に会釈だけはしたようだが人間社会で初対面の時には訓練されていない学生といえども、それなりに言葉での挨拶が必要なのではなかろうか。我々Y寮では先輩達から寮生同志が顔を合わせたら先輩後輩にかかわらず互いに「オッス」と言葉にして挨拶をしようと教えられたものである。オッスの中には若い男達が同じ屋根の下で同じ釜の飯を食っている「若い元気な男達である」という意味を込めて取り交わす挨拶語であると教えられ、素直にそれを実行したものである。ボ−ト部でも確か「オッス」は挨拶語として通用していたと記憶しているのだが・・・・
暫く待つうちに予ての手配通り、運送会社のトラックがオ−ルを運搬にきてくれたので一同はタクシ−に分乗してハワイアン・モナ−ク・ホテルへ到着した。午前中であったがチェックインできた。部屋代の前払いとして780$(3人分)を支払った。S氏H氏、小生の三人一室の12月24日から1月5日までの部屋代である。これは一泊当たり20ドル(2,600 円)である。ほかに税金4.17パ−セントが加算されることになる。この日、ホテルの近くのシッツラ−という24時間営業のステ−キハウスで3ドル99セントの定食の海老フライを食べ、バドワイザ−で合宿入りの乾杯をした。OBは学生達に余計な干渉をしないようにしようということで滞在中全て学生達とは別行動である。
昼食後、ハワイは三回目だというOさんのガイドで皆一緒に、アラモアナのショッピングセンタ−をうろつき、ワイキキビ−チ を廻って帰った。日本で予想していたよりもあったかくまさに常夏の国である。
夕食にはロイヤル・ハアイアン・ショッピングセンタ−の中にある北京という中華料理屋で夕食をした。28ドルの料理。学生諸君接待のための下見の意味もある。時差を計算にいれると一日が43時間もある長い一日であった。夜は暑いけれど疲れのせいもあって、ここちよく寝られた。明け方4時半に目がさめてシャワ−を浴びたところ水が止まらなくなってしまった。同室の相棒は熟睡しているし、勇を皷して受話器をとりブロ−クンの英語で見に来て欲しいと言ったら通じたらしく、しばらくして係員が見にきてくれた。しかしパッキンが磨滅しているらしくやはり止まらなかった。そのままにしておいて翌日修理することになった。
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